ナポレオン戦争番外編その2:プロイセンの反撃とワーテルローの戦い

ナポレオンは1812年、大陸封鎖令を無視したロシアに対し懲罰をくだすため、60万人の大陸軍を動員してロシア遠征を開始します。プロイセン軍人の一部は、ナポレオンに抗戦するため、ロシア軍に身を投じて戦います。

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ロシア遠征とプロイセンの反撃

シャルンホルストの同僚で、のちに「戦争論」をしたためることとなるクラウゼヴィッツによると、どんなに下準備をしようとも、戦場には必ず不確定要素がつきまとうもので、これを詩的な表現で彼はNebel des Krieges(戦場の霧)と呼びました。

Der Krieg ist das Gebiet der Ungewißheit

「戦争とは、不確定要素の中での戦いである(クラウゼヴィッツの戦争論より)」

クラウゼヴィッツ曰く、戦争には必ず不安定な要素がつきもので、それを克服するのが軍事的天才の仕事である、とのことです。

ナポレオンという人の戦術的な天稟を鑑みるに、彼には間違いなくこのあらゆる戦場の障害を乗り越える才能がありました。一方、年のせいか、それとも絶頂に上り詰めた気のゆるみからか、半島戦争以後、次第にこのナポレオンの神通力は衰えを見せ始めます。

ロシア遠征は、このナポレオンの機転が発揮されなくなった戦争の一つでもありました。早期に到来する冬将軍、モスクワを焼き払うロシア軍、そうした不確定要素にナポレオンは対応できず、ついにロシア遠征でナポレオンは敗北を喫します。

ナポレオンがロシア遠征に敗北したことで、欧州各国は今かとばかりに第六次対仏大同盟を締結します。その中にはプロイセンも含まれており、国王ヴィルヘルム3世は、一時的にナポレオンに睨まれて要職から遠ざけられていたシャルンホルストやブリュッヘルなどを再度呼び戻し、フランスに捲土重来を期します。

ロシア遠征

ロシア遠征

フランス=ドイツ戦役とナポレオンの没落

ナポレオンの戦争は、一言で言えば華がありました。見るものを魅了する、戦場の魔術師ともいえる用兵術で、神出鬼没、華麗に敵を包囲、挟撃、殲滅します。これは、ナポレオンの天才ともいえるものでした。

かたや、プロイセンのほうはエレガントとは言えません。ブリュッヘルのナポレオン戦争中の戦績を見ると、ほとんどの戦いにおいて敗北を喫しており、ナポレオンとでは戦術家としての格が違うことが分かります。

にもかかわらず、最後に勝利したのはフランスではなくプロイセンでした。項羽と劉邦で、戦争で勝ち続けた項羽が最後まで劉邦を屈服させられなかったように、ナポレオンも最後まで、不屈の精神をもつプロイセン軍人たちを服従させることができなかったのです。

ドイツ(プロイセン)・フランス戦役が1813年に勃発すると、ナポレオンはロシア遠征でずたぼろになったフランス軍を即座に再結成させ、リュッツェンの戦いではロシア・プロイセン連合を撃破します。

この戦闘で、プロイセン軍人シャルンホルストは負傷しました。にもかかわらず、オーストリアに援軍を求めるためにプラハまで赴き、その地で客死しています。

Scharnhorst erhielt eine Verwundung am Fuß. Statt diese auszukurieren ging er auf diplomatische Mission, um Österreich für das antinapoleonische Bündnis zu gewinnen. Er erlag seiner Verwundung am 28.06.1813 in Prag.

「シャルンホルストは足に負傷した。治療に専念する代わりに、彼は反ナポレオン同盟を締結させるためにオーストリアへ向かい、結局ケガがもとでプラハにて亡くなった」

この名将の死は、グナイゼナウをはじめとするプロイセン軍人たちを奮い立たせます。さらに、オーストリアもこの死に動かされたのか、ついに対フランス同盟に加入することとなり、ナポレオンは外交的に孤立することとなります。

確かに、ナポレオンは最強でした。しかし、多方面から無数の軍隊に進撃されては、すべてをナポレオンが相手にすることはできませんし、フランス軍の兵士の数にも限界があります。ブリュッヘルは、トラーヒェンブルク・プランという、要するにナポレオンは強いので相手にせずに、他のやつを倒していこう、という非常に泥臭いやり方をとることにしました。

プロイセンもなりふり構ってはいられません、華がなかろうと勝てばいいのです。結果、ブリュッヘルの予想通り、フランス軍はプロイセン、オーストリア、ロシア軍を相手に勝ったり負けたりしているうちに、次第に兵力を消耗し、追い詰められていきました。

こうした作戦を連合軍側にとられると、ナポレオンはたまったものではありません。フランス軍はすでにロシア軍との戦いで兵力をかなり消耗しており、ここにいたって兵士が補充することはありませんので、勝とうが負けようが、兵士が減っていくと状況的には不利になっていきます。

古今東西、国家が戦争に追い詰められて考えることは一緒です。ここで、このじり貧の状況を打開すべく、ナポレオンは乾坤一擲の賭けにでることにします。イエナ・アウエルバッハの戦いのように、敵軍を一網打尽に壊滅させることができれば、フランスは戦争におけるイニシアチブを再度握れることになります。そんな中、連合軍を殲滅するためにナポレオンが赴いたのはライプチヒです。ライプチヒの戦いの幕開けです。

ライプチヒの戦い

ライプチヒの戦い

ライプチヒの戦い

ブリュッヘルが直接対決を避け続けたナポレオンがこの戦場には姿を現しました。この戦いは両軍合わせて50万以上が対峙した、ナポレオン戦争の関ケ原ともいえる戦いで、この戦い次第ではナポレオン側、プロイセン側どちらにも破滅があり得ました。

この戦いは、フランス軍が数的に圧倒的に不利な中で行われています。ナポレオンには自負がありました、寡兵でも、己の用兵術次第では相手を粉砕せしめることが可能である、と。現に、今までのプロイセンやオーストリア軍との戦いを通じて、彼は勝ち続けてきましたし、5年前にはアウステルリッツやアウエルシュタットでは、寡兵であるナポレオン軍が数で勝る連合軍を撃破しています。こうした戦いの再現を、ナポレオンは狙いました。

しかし、当時と比較して違うことがあります。今は亡きシャルンホルストの尽力により、プロイセン軍は軍制改革を行いました。兵は徴兵され、愛国心に満ちています。作戦の指揮系統も、参謀の設置により上意下達が整備されるようになりました。こうした生まれ変わったプロイセン軍との戦いで、ナポレオンは己の天才のみを頼りに軍を指揮します。

結果、ナポレオンはこの戦いに敗れました。プロイセン側の被害も少なくありませんが、ナポレオンが目的を達成できずに、プロイセンが目的を達成した、という意味で、プロイセン側の拙いながらも勝利と呼べるでしょう。

ライプチヒの戦いは、ナポレオンが正面対決で完敗を喫した初めての戦いともいえます。半島戦争や、ロシア遠征は、戦略的な部分もありましたが、ライプチヒでは、ナポレオンが生まれ変わったプロイセン軍によって戦術レベルで敗北を喫したわけです。

この戦いによって、ライン同盟、すなわちドイツ国内のナポレオンの傀儡国家は崩壊し、ナポレオンはドイツを失陥します。ドイツはナポレオンから解放されたわけです。

連合軍は勢いにのってフランスに侵攻し、ついにナポレオンは失脚、エルバ島に島流しになります。

ワーテルローの戦い

それでも、ナポレオンとの戦いが完全に終結したわけではありませんでした。プロイセンの将軍、グナイゼナウは気づいていました、島流し程度ではナポレオンはあきらめないだろう、と。彼はナポレオンを処刑することを声高に唱えますが、結局連合軍の措置は穏便で、ナポレオンは島流しにあいます。

ナポレオン戦争後、会議は踊る、されど進まずの語源ともなったウィーン会議が行われ、同盟軍の話し合いは遅々としてすすみません。そんな中足並みのそろわない同盟軍の噂を聞きつけ、グナイゼナウの予想通り、ナポレオンはエルバ島からフランスに舞い戻ってきました。ヨーロッパの覇権をかけて、ナポレオンは不死鳥のごとく再度連合軍に挑戦します。

プロイセンは前進元帥ブリュッヘルを司令官に据え、ナポレオンに挑みます。ウィーン会議で同盟軍の足並みのそろわないうちに、ナポレオンは単独でプロイセン軍を叩くことにしました、これがリニーの戦いで、ブリュッヘルはここで再び敗北を喫しています。

これにより、プロイセン軍は撤退します。しかし、敗北を認めたわけではありません、ブリュッヘルは負傷しながらも、指揮権をグナイゼナウに委任し、ナポレオンと戦い続けることを厳命します。ワーテルローの戦い、すなわちナポレオンの決定的な破滅の2日前のことです。

ナポレオンは、このリニーの戦いで敗れたプロイセン軍を全滅させるべく、グルーシーという将軍に追撃を命じます。戦争の常道では、追撃で相手を一気に叩くことができます。ここでプロイセン軍を壊滅させることができれば、プロイセンは連合から離脱し、再びナポレオンが天下を握る可能性もこの場面ではありました。

この命令が、ナポレオンの命運を分かちました。グルーシーが率いたのは33000人、これは結局プロイセン軍を捕捉できずに、ワーテルローに間に合いません。代わりに、プロイセン軍が戦場に到着することとなり、この差がワーテルローの戦局を決定づけたと言われています。

プロイセン軍は、ここにおいてかつての指揮系統がぼろぼろなプロイセン軍ではありませんでした。ブリュッヘルは負傷しつつもプロイセン軍を指揮、リニーの戦いで破れたプロイセン軍が2日後には戦場に到着する、という見事な指揮をやってのけます。指揮系統の軍制改革を行ったのは、2年前に足を負傷して戦死したシャルンホルストです。

ワーテルローの戦い

ワーテルローの戦い

プロイセン軍人の根性と意地が、最終的に用兵の天才ナポレオンを追い詰め、ついには破り去ったのです。ワーテルローで再度敗れたナポレオンに再起はあり得ませんでした、エルバ島からさらに離れたセントヘレナ島へ流され、そこで一生を終えることとなります。

プロイセンは、この戦争を通じて多くの改革を行い、またナショナリズムが高揚することとなりました。この戦争の立役者であるブリュッヘルは1819年に亡くなり、グナイゼナウはクラウゼヴィッツとともに1831年にポーランドで死去しており、1813年に亡くなったシャルンホルストと並んで、その後のプロイセンの歴史に関与することはありません。

しかし、彼らが残したプロイセン軍人の精神は脈々と受け継がれ、1871年のドイツ統一をプロイセン国民にもたらすこととなります。ワーテルローの戦いから56年後のことでした。