HUGO BOSS(ヒューゴ・ボス)の歴史とナチスへの協力

The connection between dress and war is not far to seek; your finest clothes are those you wear as soldiers. By Virginia Woolf

「衣装と戦争の関係を見つけるのはそんなに難しくはない、最も美しい衣装はあなたが兵士として着る服なのだから」ヴァージニア・ウルフ

海外ブランドと言えば、イブサンローランやバレンシアガ、アルマーニやバーバリーなど、イタリア、イギリス、フランスなどの会社がぱっと思いつくかもしれません。

ドイツのファッションブランドとして最も成功したものの一つとして「HUGO BOSS」が挙げられます。今では、世界中に100以上の店舗を展開し、1万人以上の従業員を抱える大企業に発展したこの大企業は、1924年、第一次世界大戦後、混乱期のドイツに設立されました。

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ヒューゴ・ボスの黎明期

まず、のちにこのヒューゴ・ボスを設立することとなるヒューゴ・フェルディナント・ボスの生い立ちについて見ていきましょう。

ヒューゴは、1885年にメッティンゲンという南ドイツの小さな田舎町で、5人兄弟の末っ子として生まれました。彼は、18歳のころから商人のもとで紡績などの修行を積み、軍役などを終えると、コンスタンツの織布工場で働き始めます。

1908年、両親の営んでいた婦人用商店を引き継ぐことなり、故郷のメッティンゲンに戻ってきます。この時、彼は23歳。この年、アナ・カトリーナという女性と結婚し、娘にも恵まれるなど、仕事でも、私生活でも順風満帆な日々を送っていました。

しかし、ドイツをめぐる国際情勢は、絶えず予断を許さない状況です。1900年以降、ヴィルヘルム2世の世界政策によってドイツと他国との関係が険悪になり、1914年にはサラエボ事件の発生により、ドイツは第一次世界大戦に巻き込まれていきます。

ヒューゴも、伍長として戦争に駆り出されました。ドイツ兵士だけで200万人近い犠牲者を出し、毒ガスなどの後遺症に苦しめられる者も多数発生しましたが、ヒューゴは無事に終戦まで務め上げ、五体満足で故郷に帰還します。

帰国後、親から引き継いだ彼の会社は経済的になんとか安定しており、1924年、故郷のメッティンゲンにおいて、ヒューゴは、のちのHUGO BOSSの前身となる「仕立て屋ヒューゴ・ボス」を設立しました。

Zunächst spezialisierte sich das kleine Unternehmen auf die Produktion von Hemden und Wäsche. Nach erfolgreichem Ausbau folgen später die Herstellung von Berufs- und Arbeitskleidung, die dem jungen Unternehmer erste Erfolge bescherte

「次に、この小さな会社は、シャツの製造やクリーニングに特化するようになった。この事業戦略が成功すると、次は、仕事用の洋服を手掛けるようになり、この若い会社に利益をもたらした」

第一次世界大戦から帰還したヒューゴは、こうして地元の田舎町に小さな会社を設立、小さいながらも工夫を凝らしつつ、どうにか利益を出してやりくりしていたようです。

しかし、当時のドイツを取り巻く経済状況はお世辞にもよいとは言えません。第一次世界大戦の結果、ドイツには天文学的な賠償が科せられ、ハイパーインフレによって貨幣価値が紙切れ同然になり下がりました。さらに、フランスに賠償金が支払えなくなったために、ドイツ産業の柱であるルール工業地帯が連合軍に占領されたり、と社会は混乱を極めていました。

Im Zuge der Weimarer Zeit, gelang es dem Unternehmer den Betrieb über die katastrophalen Entwicklungen der Wirtschaftsdepression zu retten

「ヴァイマール体制下のドイツ経済の混乱にも関わらず、彼の起こしたこの会社はなんとか経営をやりくりしていた」

そうした混乱期のドイツにあって、ヒューゴは綱渡り状態で経営を続けていたようです。事実、1920年代後半はアメリカの資本投入などもあり、ドイツ経済は一時は持ち直しかけていました。しかし、ここにドイツを絶望のどん底に突き落とす悪夢のような事件、世界大恐慌が1929年に勃発します。この結果、1931年にはヒューゴも破産宣言をし、彼の会社は一時的に倒産状態に陥りました。

ベルリンの取り付け騒ぎ

ヒューゴの会社だけでなく、世界大恐慌は、一時的にたてなおりかけていたドイツの経済を完全に打ち砕きました。失業率は実に「40%」を数え、大企業や銀行がどんどんつぶれていきます。町中は失業者と怨嗟の声であふれかえり、ドイツの未来には誰もが絶望を抱いていました。

そんな暗黒の社会情勢の中、ドイツ国民の一縷の光明のように台頭し始めたのが、国家社会主義ドイツ労働者党、ナチス党です。

HUGO BOSSとナチスの蜜月関係

ナチスが台頭し始めるのは、ちょうどヒューゴが復員し、HUGO BOSSが設立された1924年前後です。1919年以降ヒトラーが台頭し始め、1923年にはミュンヘン一揆が発生、1924年には出獄したヒトラーの手によって「我が闘争」が出版されました。

上述のように、ドイツ経済は1929年の世界大恐慌で完全に崩壊、こうした混乱に乗じ、国民に職をあたえる約束をしたナチス党は、救世主のようにうつったのかも知れません。1933年にはナチスが政権を掌握し、ドイツ国内はナチス一色に染まります。

もともとナチスが台頭し始めたのは、第一次世界大戦末期に革命がおきたバイエルン州で、共産主義勢力に対する反対勢力として、ナチスはバイエルンで急成長を遂げます。さて、このナチスのおひざ元でもあるバイエルン州、ヒューゴの故郷であり、彼の会社があるメッティンゲンからほど近い距離にあります。

彼らのトレードマークでもある軍服の安定供給をもくろむナチスは、このご近所さんでもあるヒューゴの工場に目を付けました。1930年代後半、ヒューゴはナチス党に加入し、これによって大量の受注がヒューゴの元に舞い込むようになり、彼の工場は倒産の淵から一転、急成長を遂げます。

1931 musste Boss als Folge der Wirtschaftskrise Konkurs anmelden. Im selben Jahr trat er der NSDAP bei, die ihm Aufträge für Parteiuniformen verschaffte. Ohne das Parteibuch wäre er nie an Aufträge gekommen, sagte Boss später

「1931年、ヒューゴは破産手続きを行った。それから7年後、彼はナチ党に加入することなり、党員のユニフォームの受注が舞い込んだ。党員手帳なしに、彼はこの受注はあり得なかったと後年述べている」

この提携によって、ヒューゴは名実ともに「ナチスの仕立て屋」に任命されました。ナチス党がドイツ国内をその色に塗り替えていくに合わせて、彼の工場で作られた軍服もまた、彼ら新しいナチス党員の元に届けられていきます。1933年、政権奪取時にドイツ国内で1700万人だった彼らの支持者は、1938年には4400万人、ドイツ国民の99%に膨れ上がります。

ヒューゴの工場から出荷された、ハーケンクロイツの標章のついた茶色い軍服に、こうして新生のナチス党員が次々と袖を通していったわけです。

ヒトラーユーゲント

この、ボスのナチスへの協力が、ヒトラーへの傾倒からきたものか、単に商売としてだったのかは、誰にも分かりません。当時のドイツは、ナチスの協力者でない者が商売をするには非常に難しい環境でしたし、彼の言うように、ナチスへの協力なしにはこの大量の受注は舞い込んでこなかったでしょう。仮に協力を拒んだとすれば、むしろ倒産していた可能性もあります。

ですので、このヒューゴのナチス党への加担自体は、商売に携わったことのある者であれば、そこまで責められるものではないでしょう。ヒューゴ・ボスが戦後、糾弾される原因となったのはその戦時下の工場で行われていた強制労働です。

戦時中のボスの工場

先に断っておきますが、歴史とは勝者が作るものです。フロイトを代表する精神分析家の行った幼少期に関するインタビューでさえも、事実とは異なる供述がされ、児童虐待の事実がでっちあげられた、とのちに言われています。被験者は嘘をついたわけではありません、人間の脳と記憶とはかくも曖昧なものです。

それゆえ、人の語る被害者としての過去の供述、をどこまであてにしてよいのかは見解の分かれるところでしょう。ですので、ここに述べられている供述がすべて真実かどうかは、もはや誰にも証明できない、ということを先に書いておきます。

ヒトラー

1930年代後半、上述の通り、ヒューゴの工場に大量の受注が舞い込むようになり、ヒューゴはどんどん人を増やし、増産体制に入りました。しかし、こうしたヒューゴの工場がフル稼働できた期間はそう長くはありません。1939年、ドイツ軍(とソビエト軍)がポーランドに侵攻を開始し、第二次世界大戦が勃発すると、ドイツの若者たちもまた、戦場へ駆り出されていったのです。

Um den wachsenden Aufträgen nachzukommen, Boss produzierte davor in erster Linie Hemden, wurden dem Handwerksbetrieb ca. 40 Kriegsgefangene und rund 150 Zwangsarbeiter zugewiesen.

「この大量の受注を間に合わせるために、まずはシャツを製造し、そのために、40人近い捕虜と、150人近い強制労働者を動員した」

ヒューゴの工場は即座に人員不足に陥りました。ドイツ軍は各地で連戦連勝を続け、1942年ごろまで進撃を続けます。それに伴い、各地の軍服需要も急増し、彼の工場は少ない人数でフル稼働することになります。そんな中、ヒューゴの工場では、上述のように連合軍側の捕虜や、占領地の強制労働者が駆り出されるようになったのです。

Although Boss’s factory was not part of a concentration camp — and his labourers were not prisoners — the conditions were dreadful.

「ボスの工場は、ナチの強制収容所内にあったわけではないが、そして労働者たちは囚人であったわけでもないが、その状況は過酷を極めた」

アウシュビッツのような収容所の目的は「ユダヤ人の絶滅」でしたが、あくまでヒューゴの工場の目的は「軍服の製造」でした。アウシュビッツのようにはなから「殺すこと」を目的とした収容所ではなかったとはいえ、その労働環境は劣悪だったようです。以下、いくつかの体験談を抜粋しました。

One former Boss labourer, a 17-year-old Pole called Jan Kondak, was forced to work in the factory from 1942 to 1945.He recalls the hygiene being very poor. ‘In the barracks there were lice and fleas.’ He describes the food as insufficient given the hours they had to work. During air raids, the workforce was not allowed into shelters, but had to stay in the factory.

「労働者のうちの一人は17歳のポーランド人のジャンという少年で、彼は工場で1942年から1945年まで働かされた。彼は、当時の劣悪な衛生環境を思い出し、口にした。”バラックには虱とノミがわんさか居た”。彼はまた、当時の食事が、労働時間に対し全く足りなかったことも述べており、連合軍による空襲の際ですら、彼らは防空壕には逃げられず、工場に居続けなくてはいけなかった」

Another labourer, Elzbieta Kubala-Bem, recalls being rounded up the Gestapo from her town in Poland in April 1940, and forced to work at Boss at the age of 19.She remembers the medical facilities as woeful. ‘There was no special treatment for children and pregnant women,’ she says, ‘and there was no way to visit a doctor. If we had a disease, we had to treat ourselves.’

「他の労働者の事例を見てみよう。エリザベータは1940年の春にゲシュタポによってポーランドの町から徴収され、19歳の時にボスの工場で働かされた。彼女は、当時の医療設備が劣悪だったことを思い出す。”子供にも、妊婦にも特別な治療は施されなかった”。”医者を訪ねる術はなく、もし病気にかかりでもしたら、自分で自分自身を看病するしかなかった”」

The most poignant story is that of a Polish woman called Josefa Gisterek, who was sent to work at Boss in October 1941. In December, Josefa fled back home to help her father raise her siblings, but she was captured by the Gestapo and sent to Auschwitz and Buchenwald, where she was dreadfully beaten. However, when Hugo Boss found out where she was, he used his contacts in the Nazi party to get her returned to Metzingen. Although his motivation for trying to save her isn’t clear, he did seem to feel some responsibility for his workforce. But when she returned, the factory foreman worked her mercilessly, and she had a breakdown. Josefa was finally given three months’ leave, and allowed to see a doctor, but on 5 July 1943, she gassed herself with an oven.

「最も胸を打つ体験談は、ジョセファというポーランド女性のものである。彼女は1941年10月にボスの工場に送られた。12月になると、彼女は彼女の兄弟を育てている父親を助けるため、故郷へ逃亡するが、ゲシュタポにつかまり、アウシュビッツに送られた。そこで彼女は死ぬほど殴打されたものの、ヒューゴ・ボスが彼女の消息を知ると、契約書の内容を盾に、彼女を再びメッティンゲンの工場に連れ戻すことに成功した。ヒューゴボスが、彼女を救うためにしたことかどうかは定かではないが、多かれ少なかれ彼は彼の従業員に対し責任感を感じていたのだろう。しかし、工場に連れ戻されたジョセファは、工場監督によって馬車馬のごとくこき使われ、しまいには体に変調をきたしてしまった。彼女は3ヵ月の休暇をもらい、医者へ行くことを許可されるが、最終的に1943年7月5日、オーブンでガス自殺した」

この、ヒューゴボスによる強制労働は1945年戦争が終結するまで続きます。また、戦争期を通じ、ポーランドやフランスの労働者が上述のように「奴隷さながら」に働かされた、として、1999年にはアメリカの弁護士がヒューゴ・ボスを訴えています。

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戦後と現在

1945年5月に、ナチスが崩壊しドイツ第三帝国は終焉を迎えます。それとともにHUGO BOSSとナチスの蜜月関係も終わりました。

アメリカ軍は、HUGO BOSSに『ナチスに協力した罪』として、彼の会社に当時の金で$70,000という過酷な制裁金と事業停止を課します。それから3年後の1948年、彼は失意のうちに63歳で亡くなりました。

しかし彼の死とともに、HUGO BOSSの社運がついえたわけではありませんでした。その後、彼の娘婿のEugen Holyが事業権を継承すると、1950年代に発表したメンズスーツが好評を博し、その後息を吹き返します。

その後も、F1との提携や、男性用香水や時計の販売など事業を拡大していき、ドイツでもっとも名の知れたファッションブランドとなりました。

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