ナポレオンとドイツその1:フランス革命とナポレオン戦争の開戦

今を遡ることおよそ250年前、ヨーロッパに一人の英雄、ナポレオンが誕生しました。当時、ヨーロッパは平等という言葉からは程遠く、農奴は領主によって抑圧される封建的なシステムが残っていましたが、ナポレオンの誕生と彼の戦争により、ヨーロッパをとりまく環境は一変することになります。

今回は、ドイツ国民にナショナリズムを植え付けた、ナポレオン戦争の経緯についてみていきたいと思います。

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ナポレオンとその誕生

ナポレオン戦争の戦場の名前を聞くと、いかにその戦いがヨーロッパ全土をまたにかけて行われたかが分かります。その中でもイエナ、アウエルシュタット、ライプチヒなど、現ドイツ領土(当時のプロシア)での戦いも多く行われており、当時のドイツへの影響の大きさが計り知れます。

1769年、ナポレオンはコルシカ島の貧しい貴族のもとに生まれました。もともとはイタリア領土で、ナポレオン自体もイタリア人の血筋をもつのですが、ナポレオンの生まれる数か月前にフランスの領土となりました。ちなみに、スターリンはグルジア(ジョージア)生まれで、ヒトラーはオーストリア生まれです。独裁者と呼ばれた人々の出自がみな、その国自体からやや離れた場所に由来するのは面白いです。

さて、ナポレオンの性格を表す幼少期のエピソードとして、もともとは文学少年で、小説などを自ら書いていたこともあったとのことです。実際、ナポレオンの言葉や行動はロマンチックです。「兵士諸君、ピラミッドの頂から四千年の歴史が諸君を見つめている」や「予の辞書に不可能ということばはない」など、ナポレオンは数多くの名言を生み出しています。男の喜びとは「異民族を殺害し、その屍の前で相手の家族を犯すことである」と言ってのけた徹底したリアリストであるチンギスハンとは対照的です。

要するに、ナポレオンは部下や民衆の心をつかむ術を心得ていました。それが正しいかどうかよりも、英雄にとって重要なのはその言葉が民衆を魅惑できるかどうか、詩的であるかどうかが問題です。政治でも、テレビで長々と実現可能な経済政策を述べる政治家よりも、端的にすぱっと自分の理想を言ってのけるほうが見栄えがよいのと一緒です。

この人心掌握術と理想をナポレオンがプルタコス英雄伝などを通じて密かに学んだのかどうかは知りませんが、陸軍学校でのナポレオンは非常におとなしかったと言われています。士官学校では、ナポレオンは当時もっとも人気のなかった「砲兵」を選択しています。当時の戦争の花形は騎兵で、裏で大砲を引きずって回る砲兵化はあまり見栄えのよいものではありませんでしたが、これをあえてナポレオンは選びます。

どんな英雄でもその能力を生かすような時代に適していなければ埋もれてしまいますが、幸いにも時代の流れは混とんとしており、ナポレオンに味方します。1789年、フランス化革命の勃発です。ナポレオン20歳のときの出来事で、ここで有名なロベスピエールの弟の知見を得る機会に恵まれ、次第に陸軍内で出世の階段を上り始めます。

絶頂へ駆け上る最中のナポレオンには、間違いなく運も味方していました。戦場で矢面にたつ突撃を繰り返しても、彼は致命傷を負うことはありません。これが若いころのナポレオンをして次第に有名にせしめます。一度はロベスピエールの失脚に連座して幽閉されるも、その有能さを買われて陸将として再び返り咲きます。まだフランスは内戦および対外戦争の最中にあったのですから、有能な将軍が登用されるのは当然です。

ドラクロア
(民衆を導く自由の女神:ウジェーヌ・ドラクロワ (Eugène Delacroix))
※ドラクロアの絵画は1830年フランス7月革命のものですが

フランス革命戦争

さて、当時の状況を少しおさらいしておきましょう。1789年、フランスではフランス革命が勃発しました。長くなるので経緯は割愛しますが、要するにこの結果として、フランス国王のルイ16世とその妃であるマリーアントワネットが民衆によって殺害されます。

事件の経過を鑑みれば、革命に至った国民の気持ちも分からなくもありませんが、とりあえずこの事件はヨーロッパ諸国にとって一大事でした。国王とは国を統治する者で、国民とはそれに従うものです。その前者が後者に殺されるなどということは、自然の秩序に逆らう、あってはいけないことだったわけです。

当時のヨーロッパ諸国は王政をひいていましたので、フランスのような民衆の革命が他の国に飛び火するとたまったものではありません。ロシアで社会主義革命がおこったとき、近隣諸国がその活動の飛び火を恐れて出兵したのと同じです。

当時の国王家たちはお互いに親類関係を結んでおり、ましてや今回殺されたマリーアントワネットはオーストリア人です。当然、オーストリアはフランス革命に干渉する大義名分があり、これ以上革命が輸出されないよう、プロイセンと結託して軍事行動を開始しました。

それゆえ、ナポレオンが仕官した当時のフランスをめぐる環境というのはかなり過酷なものでした。国内の基盤は安定しておらず、東西南北を対仏大同盟軍に囲まれています。そんな中、優秀な軍人が重宝され、また出世の階段を駆け上がっていくのは、なにも不思議なことではありませんでした。

さて、こんなに四方を敵に囲まれたフランスですが、他の欧州諸国と違い、国家動員をすることが可能でした。今まで上流階級の仕事だった軍人の仕事を、国民みなに課すことで、当時の欧州では考えられないほどの100万を超える兵力の動員を可能にします。

また、国民の士気も違いました。そういうわけで、圧倒的な兵力を誇り、かつ自らの手で革命を成功させたフランス軍は、王政の下のぬるま湯につかり切っている士気の乏しい同盟軍に負けずとも劣らぬ戦いを続けます。1794年には東にオーストリア軍を、1795年には西にオランダ軍を破り、東西から迫りくる脅威を片づけました。

さて、この時点でフランス軍は当面、一息つける状況でしたが、その手をゆるめず、今度は敵国深くに侵攻していきます。これを果たして侵略というのか、自衛のための戦争というのかは、区別が難しいところでしょう。他国に王政が残っており、大義名分がある以上、放っておいたら敵国はまた力をつけますし、先にたたいておくのが今後のためです。

というわけで、やられる前にやっておこう、という考えのもと、フランス南方のイタリアに駐屯するオーストリア軍を排除すべく、フランスのイタリア遠征が開始されます。ここから、ナポレオンの華々しいキャリアが始まり、それと同時に彼の功名欲のように戦火がヨーロッパ全土に広がっていきます。

続き↓
ナポレオンとドイツその2:エジプト遠征とアウステルリッツの会戦