ドイツ統一その2:普墺戦争とオーストリア帝国の黄昏

19世紀初頭にヨーロッパ中を戦火に巻き込んだナポレオン戦争は、各国にナショナリズムの高揚をもたらしました。ドイツも例外ではなく、ウィーン体制下でも、着実にドイツ統一への礎が作られていきます。そしてヴィルヘルム1世の即位をまって、ドイツの統一運動が一気に軌道に乗りました。

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外交戦争と普墺戦争への準備

さて、プロイセンの国王であるヴィルヘルム1世も宰相であるビスマルクも、ドイツ統一のために軍事行動はやむを得ない、という考えで一致し、軍拡が始まります。仮想敵国はオーストリアです。ドイツ統一にあたって、どちらが主導権を握るのか、という問題が残されており、オーストリアとの衝突は遅かれ早かれ避けられない問題でした。

このころのプロイセンの状況を見ると、もともとドイツ関税同盟でドイツの産業的基盤は充実しており、このころにはクルップという重工業が武器輸出により力をつけ、ドイツの軍需産業を盛り上げるけん引役になります。

一方、オーストリア国内はイタリア統一戦争に破れ、ハンガリーなど民族運動の盛り上がりにより不安定です。勢いは間違いなくプロイセンに利がありそうですが、オーストリアとて大国、侮れません。

また、この状況下、ビスマルクは戦争を仕掛けたくてしょうがないのですが、戦争には大義名分が必要です。また、プロシアをめぐる国際環境もいいとは言えません。西にはフランスが控えており、ドイツが統一され、自分の隣に巨大な勢力が出現することを当然面白く思いません。

ですので、仮にプロシア単独でオーストリアに勝つことができるとしても、後ろからフランスに襲撃される危険性が残っており、それを払しょくできない限り戦争を起こすべきではない、というビスマルクの考えでした。しかし、こうした外交上の問題を、ビスマルクは巧みに交渉することで一つ一つ解決していきます。いつしか、プロイセンがオーストリアと戦争をおこしても、オーストリアに味方する国はほとんどなくなっていました。

そんな中、いいタイミングでデンマークがドイツ人移民の多い地域を武力で弾圧するシュレスヴィヒ-ホルシュタイン問題が、1863年に勃発します。この地域のドイツ移民の援助を名目に、プロイセンは出兵することとなるのですが、ビスマルクはオーストリアに共同出兵をもちかけます。一緒にデンマークをやっつけて、一緒にこの地方を統治しようぜ、という名目です。

デンマークは小国ですので、プロイセンとオーストリア連合の前にあっては敵ではありません。あっという間に蹴散らされて、シュレスヴィヒはプロシア領に、ホルシュタインはオーストリア領になりました。

ここで、両者に紛争の火種を作ることにビスマルクは成功します。ここでオーストリアを挑発すると、あっさりオーストリアはそれに乗り、プロイセン領に侵攻、戦争の口実を与えてしまいます。こうしてビスマルクは嬉々として戦争に乗り出しました。

普墺戦争の勃発

この当時、プロイセン軍に有利に働いたものが二つあります。一つ目は、上述のクルップをはじめとする最新鋭の軍需産業(後装式のライフルなど)で、もう一つはモルトケが敷設を進めた電信網と鉄道網です。これにより、プロイセン軍は電撃的に軍を移動させることが可能になっていたわけです。

ドイツを統一に導いた参謀総長モルトケの生涯

クルップ砲

クルップ砲

(出典:国立国会図書館、博覧会)

軍が即座に動かせる、というのは軍にとって最大のメリットの一つです。軍を維持するのには食料がかかりますし、行軍が一日延びればその分費用がかさみます。また、当時のヨーロッパ情勢は、昨日の敵は今日の友、といった状況で、いつどこから背後を脅かされるのか分かった物ではありません。

そういう状況で、大軍を左から右へ動かせる鉄道網を保持したプロイセンがいかに有利であったかは想像がつくと思います。

こうした利点を活用し、プロイセン軍は戦線を有利に進めます。そしてケーニヒグレーツの戦いで決定的な勝利をオーストリア軍に対して収めると、普墺戦争の帰趨は決します。ケーニヒグレーツでは20万人規模の大軍同士が激突し、オーストリア軍はプロイセン軍の倍以上の死傷者をこうむりました。

普墺戦争

普墺戦争

(出典:wikipedia)

大国オーストリアは破れ、プロイセンが勝利しました。最終的に戦争は7週間で終結しました。このことは、プロイセンがドイツ統一の主導権を握った、ということにほかならず、ドイツ統一の重要な第一歩が踏まれたことになります。

この勝利により、プロシア側への影響を見てみると、北ドイツ連邦が成立することとなります。これは、のちの普仏戦争後にドイツとなる国家の礎です。一方、破れたオーストリアは、大国としての体裁を保っていけるかも怪しい状態でしたので、とりあえずドイツ人とマジャール人に標準を絞って、帝国を維持することにしました。オーストリア=ハンガリー帝国の成立です。

ところが、こうしてプロイセンが着実に富国強兵の道を歩み、国力をつけていくことを面白く思わない国があります。お隣のフランスです。フランスからしてみたら、隣に大国が出現するのは安全保障上の観点からあってはいけないことです。本来であればオーストリアとプロイセンが戦ったときに、後ろからプロイセンを攻撃すべきだったのですが、ナポレオン3世はビスマルクの老獪な外交戦術によって言いくるめられ、参戦できませんでした。

フランスとの戦争は、ドイツ統一を悲願とするヴィルヘルム1世とビスマルクにとって避けては通れない最後の砦です。ここに、ドイツ統一の最後の1ピース、普仏戦争が開幕します。