第一次世界大戦序章:大戦前夜の各国の思惑と大戦の原因

1914年6月28日、初夏の晴天の下で、オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子とその妻が暗殺されるサラエボ事件が発生します。これをきっかけに、世界を戦火に巻き込む第一次世界大戦が勃発することとなります。

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第一次世界大戦の原因

上述の通り、直接的な原因はサラエボ事件による皇太子の暗殺ですが、それ以前にすでに、ヨーロッパ、とくにバルカン半島をめぐる各国の情勢は、すでにぎりぎりまで張られた糸のように緊張し、いつちぎれてもおかしくない状態でした。

第一次世界大戦は、その名が表す通り、世界中を舞台に繰り広げられた戦争です。そのため、戦争の原因には、いくつもの要因が複雑に絡み合っており、どうしてこの「ぎりぎりまで緊張した糸」の状態に陥ってしまったのか、を理解するためには当時の歴史的な背景を抑えておく必要があります。

各国の思惑から、第一次世界大戦の原因をまとめます。

ロシアの思惑

まずは、第一次世界大戦の重要な登場人物で、かつこの戦争によって最も悪い方向に国の運命が傾いてしまったロシア帝国から見ていきましょう。なにせ、ロシアはこの戦争の結果勃発する革命運動によって、皇帝一族が皆殺しにあい、200年続いたロシア帝国はこの世から消滅してしまうのですから。

ロシアの19世紀後半から20前半にかけての領土的野心は、南と東に向けられていました。すなわち、バルカン半島と中国を含む東アジアです。後者のほうは、日露戦争で日本に敗れたため挫折します、よって、ロシアはバルカン半島から南下を企てる戦略をとらざるをえませんでした。

バルカン半島は、もともと19世紀までオスマントルコの占領下にありましたが、オスマントルコが勢力を弱めていくにつれ、ロシアはバルカン半島攻略をすすめます。この際に、ロシアが唱えたのが「汎スラヴ主義」で、スラブ人によるバルカン半島の復権を、同じスラブ人の国家であるバルカン諸国に訴えたのです。

一方、このバルカン半島の支配に対して、ロシアの障壁となるのがオーストリア=ハンガリー帝国です。

オスマントルコが勢力を弱めたため、1878年のベルリン会議によって、ボスニアはオーストリア=ハンガリー帝国の管理下におきます。さらに1908年に同地区を併合したことで、彼らはバルカン半島に多かれ少なかれ支配力を持つようになってしまいます。これは、汎スラヴ主義によってバルカン半島を解放したいロシアにとって、面白くはありません。

また、オーストリアは当時、ドイツと同盟を結んでいます。民族的にも、オーストリア、ドイツはともに「ゲルマン民族」ですので、ロシアに対抗する「汎ゲルマン主義」を唱えています。さらに面白くないことに、ドイツの3B政策(ベルリン、バグダット、イスタンブールを結ぶ鉄道の完成)は、明らかにロシアの利権と相反するものです。

ここにあって、ロシアの敵はオーストリア、ドイツ、そしてドイツとの接近を見せるオスマントルコ、という形になります。彼らが、ロシアにとっての仮想敵国である以上、ロシアは他の国を味方につけなければなりません。敵の敵は味方、ということで、ロシアはフランスやイギリスと接近、英国、フランス、ロシアによる「三国協商」が結ばれるようになるのです。

フランスの思惑

ドイツとフランスは普仏戦争で戦い、この結果、フランスはアルザス=ロレーヌ地方を失い、また、ドイツによって屈辱的な多額の賠償金を課せられていました。フランスは、将来的にこの地区をなんとしても取り返したいと思っており、同時に普仏戦争の汚名を濯ぎたい思惑があります。

割譲されたアルザス=ロレーヌ地域

割譲されたアルザス=ロレーヌ地域

また、ヴィルヘルム2世の積極的な帝国主義は、フランスの植民地利権と真っ向から相反するものでした。特に、フランスが大きな利権を持っていたモロッコで、ヴィルヘルム2世は現地国民を刺激するような言動を繰り返します。事ここに至り、フランスの堪忍袋の緒が切れました。これをモロッコ事件と呼びます。

フランスはイギリスと同盟、ドイツを何としてでもやっつけ、アルザス=ロレーヌ地方を奪還し、二度と海外植民地にちょっかいが出せぬよう、叩き潰しておく必要が出てきたのです。

イギリスの思惑

フランスと同じく、イギリスも自国の利権が侵害されるのは面白くありません。当時、イギリスもフランスも、海外に大きな植民地帝国を築いています。これを積極的に奪いにくる勢力は、まだ海外植民地を持たず、ヴィルヘルム2世のもとで躍起になって植民地獲得のための船を建造しているドイツです。

人間、何かを得ることよりも、何かを失うことに対しては心理的に激しい抵抗を示します。彼らの利害は一致、新参者のドイツがわれらの利権を侵害する以上、先に叩きのめしておかなくてはいけません。上述の三国には、それゆえ、お互いにドイツをさっさとやっつけたい思惑が一致していました。

イギリスは、当座東アジア進出の野望を諦めたロシアとは一時的に友好関係を築くことにし、バルカン半島ではお互いの利害を尊重します。こうして、上述の通り三国協商が成立しました。

トルコ・ブルガリアの思惑

バルカン半島は、19世紀までオスマントルコの勢力下にありましたが、トルコが勢力を弱め、ロシアが介入してくるに至り、勢力が空白下、一種の戦国時代状態に陥ります。バルカン戦争が1912年、1913年に勃発します。

トルコの英雄エンヴェル・パシャ

トルコの英雄エンヴェル・パシャ

第一次バルカン戦争では、トルコがバルカン諸国と対峙、トルコは破れ、バルカン半島を完全に失陥します。第二次バルカン戦争では、第一次バルカン戦争でバルカン諸国に割り振られた国境線に不満を唱えたブルガリアが、他のバルカン諸国を相手に戦争をしかけ、破れました。

この、第一次・第二次バルカン戦争の敗北者であるオスマントルコとブルガリアは、次第に接近するようになります。また、このバルカン半島に禍根を残している二国は、ドイツにとって仲間に誘いやすい状況にありました。ロシア・スラブ族とのバルカン半島での戦争が避けられない以上、味方は多いほうがいいです。というわけで、ブルガリアとトルコは、ドイツの敵であるロシアの敵、という理論で中央同盟国側に参戦しています。

オーストリア=ハンガリー帝国・セルビアの思惑

オーストリア=ハンガリー帝国は、一枚岩ではありません。他民族によって形成されている国家で、中でもスラブ族が、支配民族であるゲルマン、マジャール族を上回っています。というわけで、ロシアの唱える「汎スラヴ主義」が実現してしまうと、帝国が自壊する恐れを秘めています。

特に、1878年のベルリン会議で管理下に置いたボスニア・ヘルツェゴビナは危うい環境下にありました。まず、隣国のスラブ族国家であるセルビアが、ロシアの後押しで力をつけており、ボスニアの内部にも多数セルビア人が居を構えています。ボスニア地区がオーストリア帝国の支配を受けるのは、セルビア人からしたら当然面白くありません。

この状況をヴィルヘルム2世は以下のようにあらわしています。

unvermeidlichen Gegensatz von Slawen und Germanen

「避けがたいスラブ民族とゲルマン民族の対立」

逆に、オーストリアからしてみたら、ボスニアをオーストリアの手から解放したいセルビアや、バルカン半島の諸民族たちの動きは恐ろしいものがあります。この、オーストリアとセルビアの政治的な因縁が、バルカン半島の火薬に火をつけ、第一次世界大戦の引き金をひくことにつながっていきます。

ドイツの思惑

最後に、この大戦で最も中心的な役割を担うこととなるドイツの思惑です。ヴィルヘルム2世の世界政策は、ドイツの植民地獲得の遅れを取り戻すためのもので、それゆえ、世界各国て他国の利害と衝突していました。

上述の通り、フランスやイギリスはすでに当時、強大な植民地帝国を築いており、ドイツが新しく植民地を獲得しようとしたら、彼らの利権を侵害する結果になるのは目に見えています。それゆえ、フランス、イギリスとヴィルヘルム2世の政策は初めから衝突を孕んだものでした。

そして、ドイツはバルカン半島を目指します。上述の3B政策で、これはロシアとバルカン諸国の神経を逆なでする結果になります。結局、ロシア、イギリス、フランスがドイツに敵対するのは避けられないので、ドイツは、ブルガリア、トルコなど、敵の敵を仲間に誘って、同盟を広げていきます。

ここまでが、第一次世界大戦前夜の各国の思惑です。上述の通り、その中の「セルビアvsオーストリア」の対立が、この火薬庫のごとき欧州情勢の中で火を噴きます。