第一次世界大戦とドイツその2:シュリーフェン・プランの発動とタンネンベルグの戦い

1914年6月のサラエボ事件を契機に、ドイツはフランスとロシアに宣戦布告、欧州は戦火につつまれていくこととなります。

その戦火の中心役を担うドイツは、ここに至り、大胆な戦略プランを企図していました。シュリーフェン・プランの発動です。

スポンサーリンク

シュリーフェン・プラン

シュリーフェン・プランの起源は、ドイツ統一戦争時に活躍したモルトケ元帥にさかのぼることができます。彼の存命時から、ドイツにとって、もっとも頭を悩ませる問題であったのが、西にフランス、東にロシアという二大強国を相手に、同時に戦争が起きてしまうことです。

この状況に陥らないように、外交的に腐心したのがビスマルクら政治家で、陥ったときのことを想定し、手を打ったのがモルトケと、それに続くドイツの軍人たちです。特に、モルトケの構想であった両面作戦を具体的にしたのが、後任の元帥であるシュリーフェンでした。

The success of battle today depends more on conceptual coherence than on territorial proximity. Thus, one battle might be fought in order to secure victory on another battlefield.
— Schlieffen, 1909

「昨今の戦いは、領地的な近さによってよりも、むしろ概念的な一貫性によって成否が定められる。ゆえに、一つの戦場での戦いは、もう一つの別の戦場での勝利を確保するために行われるべきだ シュリーフェン」

彼の構想は、両面を一度に相手にするのは不可能なので、戦争勃発とともに全力でフランスを叩き、返す刀でロシアをやっつける、というものでした。ロシアの領土は広大で、鉄道網も発達していないので動員まで時間がかかる、そのすきに、フランスを電光石火でやっつけよう、という、かなり相手を低く評価したプランです。

さて、1914年8月、ドイツはフランスとロシアに宣戦布告をしました。こうなってしまえば、シュリーフェン・プランにのっとって、ロシアの準備が間に合う前に、フランス方面に軍隊を総動員し、けりをつけてしまわなければ、背後からロシアに襲われ、ドイツは危機に陥ります。

この、一刻の猶予も辞さない中、ドイツはベルギー国境に殺到、ここを通過してフランス領内になだれ込もうとします。

ところが、この「ベルギーを素通りし、フランス領内に侵攻する」プランには、いきなり綻びが生まれてしまいました。ドイツの目論見では、ベルギーは強大なドイツ軍を、形式上は反抗を示すだろうが、実際には素通りさせてくれるだろう、というものでしたが、現実では、ベルギー軍はドイツ軍に対し激しく抵抗します。これにより、ドイツ軍の動きは遅延し、フランス軍に準備する時間を与えてしまいました。

さらに、シュリーフェン・プランでは想定していなかった齟齬が東で発生します。予想では一ヵ月半かかるはずのロシア軍の動員が速やかに終えられ、40万人の大軍でもって東プロイセン領に攻撃を開始しはじめたのです。ドイツ軍は開戦から一ヵ月も立たないうちに、東にロシア、西にフランスという敵に挟まれる、ビスマルクが最も恐れていた事態に直面することになりました。

タンネンベルグの戦い

ここから、視点を東に移しましょう。ドイツ軍がベルギーでもたもたしているうちに、ロシア軍は迅速に東プロイセン地区に侵攻を開始します。8月17日、宣戦布告からわずか2週間後のことでした。

Schneller als es der deutsche Generalstab erwartet hatte, besetzten 1914 zwei russische Armeen weite Teile Ostpreußens.

「ドイツ参謀本部の予想を超えた速さで、1914年、ロシアの2軍団が東プロイセン領を侵攻した」

40万人(1つの軍団につき20万)のロシア軍に対し、ドイツ軍がこの時東プロイセンに動員できたのはわずか15万人です。開戦当初、東部戦線のドイツ軍はこのロシアの大軍によって蜘蛛の子を散らすごとく蹴散らされ、東プロイセンを瞬く間に失陥しようとしていました。この時の司令官は更迭され、新たにヒンデンブルグとルーデンドルフが指揮官として着任します。

ヒンデンブルグとルーデンドルフ

ヒンデンブルグとルーデンドルフ

ここで、ヒンデンブルグは大胆な賭けに出ました。

Zwar stand die 1. russische Armee (Njemen-Armee) im Norden nur einen Tagesmarsch entfernt, da die Deutschen jedoch den russischen Funkverkehr entschlüsselt hatten und daher die Operationspläne des Gegners kannten, stellte Hindenburg als Sicherung nur eine Kavalleriedivision auf.

「ロシアの1軍団(20万人ほど)がわずか1日ほどの距離の北に配置されているにも関わらず、ドイツはロシア軍の無線を傍受し、彼らの指揮情報を知っていたため、ヒンデンブルグは予備役として、彼らに対してはたかが騎兵一個師団だけを配置した」

ロシア軍は大軍ですが、2個の軍団に分かれています。この当時、ドイツ軍にはホフマンという有能な参謀がおり、彼は日露戦争にも従軍し、ロシア軍の弱点を見抜いていました。彼は、この2個軍団の指揮官は、お互いに仲が悪いことを知っていたのです。

ホフマン

ホフマン

ドイツ軍はさらに無線を傍受、北側に配備されたロシア軍が、別の軍団を助けるために動くことはないだろう、という結論に至りました。そうすれば、目下、ドイツ軍の敵は残る20万人の第二軍団となり、15万人のドイツ軍からしても、絶望的な戦力差ではありません。

結局、この無線傍受による情報の差が、ドイツ軍とロシア軍の命運を分かちました。古来より戦争の原則は「各個撃破」です。いくらたくさんの兵士を動員しようとも、実際にその戦場で、抗戦する兵士の数が少ない状況でたたけばいいのです。ロシア軍40万のうち、20万は動かないことが見抜かれている以上、ドイツ軍の相手は、たかが20万です。

この軍団を別個に攻撃するため、ドイツ軍はこの第一軍に全力をもって強襲し、これを壊滅させると、続いて北側に位置する第二軍に息つく暇もなく襲い掛かります。

Nie zuvor in der Kriegsgeschichte wurden so viele Soldaten nach einer Schlacht gefangen genommen

「一回の戦いでこんなに多くの兵士が捕虜になるなど、聞いたことが無い」

ロシア軍は92000人の捕虜を出し、このタンネンベルグの戦いに惨敗し、ドイツ方面への攻勢は頓挫しました。

一方のドイツ軍は、戦術レベルでは圧勝したものの、このロシア軍の脅威に備えるため(結果論ですが)、フランス方面から2個軍団を引き抜いて、東部戦線へ向かわせるというミスをおかしてしまいました。これにより、西部戦線での決定打を欠いたドイツは、戦争初期でフランスを屈服させることが不可能となってしまいます。

こうして、戦争は泥沼の塹壕戦に突入していきます。