ドイツ統一その1:ドイツ関税同盟とヴィルヘルム1世の即位

各国のここ数百年の国境線の変遷を見ていると、いかに日本が特殊な環境にあったかが分かります。多少植民地などを獲得したものの、基本的に日本という国は日本という島にすむ日本人によって構成されている国で、議論の余地は少ないです。

ただ、オーストリアやフランスなどの国境を見ていると、とったり奪われたり、民族問題が多種多様に入り組んだりと、複雑な様相を呈しています。今回は、その中でも特に複雑なドイツの統一問題についてみていきましょう。

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ドイツ統一問題とドイツ関税同盟

もともと、ドイツは30年戦争以来300以上の領邦の共同体として、神聖ローマ帝国の体を保っていました。それがナポレオンによってライン同盟が傀儡政権として樹立され、ナポレオン戦争後にはドイツが力を持たないように再びドイツ連邦という寄せ集め国家に戻ります。

しかし、ウィーン体制が1848年以降に崩壊すると、ドイツをめぐる環境は一変します。もともと、1815年ウィーン体制下であっても、ナポレオン戦争を最も間近で戦い、ワーテルローでは勝利に貢献したプロイセンの中では、ナショナリズム台頭の下地は整っていました。

1817年ではドイツで、ナポレオン戦争に従軍した学生による自由主義の主張運動が幕を開けます。他にも何度かドイツ国内では運動があったものの、軍隊などによって鎮圧されてきましたが、ウィーン体制の崩壊と、オーストリア宰相メッテルニヒの失脚により、1848年以降本格的にドイツ統一への流れが加速していくこととなります。

1834年に発足したドイツ関税同盟は、ドイツ統一の下地を作ったとも言われています。当時、ドイツは国家として統一されていたわけではなく、35の主権国家と4つの自由都市(ハンブルグ、ブレーメン、リューベック、フランクフルト)からなる連合国家でした。そのため、国ごとに関税もばらばらで、ドイツの経済・産業の発育に悪影響を与えていました。

そこで結ばれたのがドイツ関税同盟で、関税の廃止と自由通商を促し、ドイツの経済発展を促進することを目的としていました。このことによって、1848年、諸国民の春が勃発し、ドイツが本格的に統一の流れに傾いていったとき、ドイツの産業基盤は十分成熟していた、というわけです。

大ドイツ主義と小ドイツ主義

さて、ドイツ統一にあたって、一つ、乗り越えなければいけない問題がありました。すなわち「ドイツとは何か?」という問題です。これは、単一国家として長らく外界から隔絶されていた日本には生じえないような問題です。

具体的には、「神聖ローマ帝国」の版図をドイツとみなすことにし、オーストリアをその版図に含めよう、という「大ドイツ主義」と、オーストリア抜きでドイツを統一しよう、という「小ドイツ主義」の対立です。

Heiliges Römisches Reich

Heiliges Römisches Reich

(出典:masapedia)

なぜこれが問題なのかというと、オーストリアは当時ハンガリーやチェコなどを含めた多民族国家ですので、ドイツに吸収されてしまうと、帝国としての体を保てずに、こうした他民族の領地をすべて失う羽目に陥りかねないからです。実際に1849年、こうした他民族地域では独立運動が相次いでおり、オーストリアの存続は危うい状況にありました。

というわけで、ドイツ統一は当座オーストリア抜きの「小ドイツ主義」に基づいて行われることとなります。1861年、プロイセン国王ヴィルヘルム1世の即位は、今後のドイツの運命を決定づけることとなります。

このヴィルヘルム1世ですが、1797年の生まれで、ナポレオン戦争の際には現役で、ナポレオンと戦い表彰もされています。あのナショナリズム高揚の歴史的イベントに遭遇しているわけです。

というわけで、目はドイツ統一に向けられていました。宰相に抜擢されたのはビスマルクです。二人の仲がよかったかどうかは諸説ありますが、彼らの目的は一致していました。すなわち「武力によるドイツ統一」です。そのためには、多少の出血はやむをえない、という考えでした。

Die großen Staatsmänner der Vergangenheit haben ihre Politik durchaus nicht immer mit Seidenhandschuhen gemacht. Wie oft wird nicht als Beispiel erfolgreicher „Machtpolitik“ Bismarcks Wort zitiert: „Nicht durch Reden und Majoritätsbeschlüsse werden die großen Fragen der Zeit entschieden, sondern durch Blut und Eisen.“

「過去の政治家たちは、絹の手袋を汚さないような奇麗ごとだけを生業にしていたのではない。ビスマルクの言う”現在我々が直面している問題は、演説や多数決などでは片付かないだろう・・・鉄と血によってのみ、解決することが可能なのだ”という言葉の表している通り、政治家の仕事には軍事的な部分も含まれていたのだ(意訳)。」

この、ドイツ統一のために軍拡が必要であるというビスマルクの演説はあまりに有名です。鉄と血、つまり武器と兵隊によってのみ、ドイツの統一はなされるだろう、という演説で、このことからビスマルクの軍拡は鉄血政策と言われています。

ビスマルク

ビスマルク

(出典:wikipedia)

上述の通り、ドイツ関税同盟によって、すでにドイツの経済・産業的下地はすでにととのっていました。あとは、求心力のあるリーダー、そして兵士の血が流れれば、ドイツの統一はなされる段階にまできていたのです。そして1861年のヴィルヘルム1世の即位と、ビスマルクの宰相就任により、そのドイツ統一の最後のピースが満たされたわけです。

日本は幕末、西郷隆盛や勝海舟をはじめとする多くのリーダーに恵まれました。彼らのうち一人でもかけていたら、明治維新が成立していたかどうかは分かりません。現に、韓国と中国では当時そうしたリーダーを得ることができず、欧米列強の植民地の道をたどることとなっていきます。日本がそうなっていた歴史も十分にあり得たわけです。

ヴィルヘルム1世の即位と、その後のドイツ統一までの流れは日本でいうところの明治維新のような過渡期でした。これを逃せば、ドイツ統一の道は閉ざされていたことでしょう。その際にも、ビスマルクやモルトケといった、世界史を見渡しても超一流のリーダーたちに恵まれたわけです。

こうした、歴史の転換期に優秀なリーダーが生を受けるのは偶然でしょうか、それとも下地が存在するのでしょうか。わたしは、おそらくその両方だと思います。

もちろん、そうした宿命を孕んだリーダーがこの世に生を受けるには天運もありますが、一方で、国家としての下地が備わっていたからこそ、そうした資質を持ったリーダーが育ったのだともいえます。あのナポレオン戦争時代に奮闘し、軍の改革を行ったシャルンホルストやクラウゼヴィッツなどもプロイセンの下地を築き上げてきたのではないでしょうか。

ナポレオン戦争とプロイセン軍人たち

ともあれ、ヴィルヘルム1世とビスマルクのコンビによるドイツ統一への戦いが幕をあけました。