In this autumn of 1919, in which I write, we are at the dead season of our fortunes. The reaction from the exertions, the fears, and the sufferings of the past five years is at its height (by John Maynard Keynes, The Economic Consequences of the Peace)
「1919秋、我々は失われた繁栄の時代を生きている。第一次世界大戦を戦った徒労、恐怖、そして苦痛に、我々は支配されているのだ byケインズ」
第二次世界大戦の原因をどこに求めるのか、には所論あります。世界大恐慌、中国を巡る日米の争い、ロシア革命とソビエト出兵、ナチスの台頭、などなど。第二次世界大戦は、こうしたもろもろの歴史のイベントの傍流が重なり合って勃発した出来事ですので、一概に「何が原因だった」というのは難しいと思います。
それでも、多くの歴史家たちの中で共通認識として、第二次世界大戦の原因の本流をつくったと呼ばれる歴史的イベントが存在します。すべての戦争を終わらせる戦争、と言われた第一次世界大戦の戦後処理である、「ベルサイユ条約」です。
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ベルサイユ条約の目的
1914年夏、クリスマスまでには終わると言われた第一次世界大戦が勃発し、実際にドイツの降伏によって終結したのは1918年の秋のことです。この、足掛け5年の戦争によって失われた人命は1000万人とも2000万人ともいわれており、大国は初めての大国間同士の総力戦と、それのもたらした未曾有の被害に震えあがりました。
また、第一次世界大戦のもたらした被害と混乱は人命だけではありません。ロシア帝国はこの戦争によって消滅、共産主義国家が世界に登場し、のちにイデオロギーの対立を招く冷戦の萌芽となります。国家内が戦場となったフランスやその他欧州各国のインフラは寸断され、特に人的被害も大きかったフランスの経済はしばらく停滞することとなります。多くの欧州諸国がアメリカに借金をし、今後世界史の主役の座は欧州からアメリカの手にわたります。
さて、当時の政治家たちは現実的ですので、願うだけで保たれる平和など存在しないことを知っています。というわけで、この未曾有の戦争を戦い抜いた世界の国家たちは、次の一手として「どのように次の戦争を防ぎ、自分たちの権益を保てるか」ということを考え始めます。古くから戦争で人が死ぬことはよくありますが、こうも戦争が徒労に終わるのなら戦争などしないほうがましだと、彼らは気づいたようです。
第一次世界大戦の原因はなんだったでしょうか?フランスvsドイツの場合、半世紀も前にドイツに敗れ、領土を失った普仏戦争が遠因となっています。戦争は禍根を残すものです。ここでドイツから領土を取り返せば、今回敗戦国となったドイツが将来、フランスに再び牙をむくことは目に見えています。では、ここは大人の対応で、ドイツへの戦後賠償を穏便に済ませるべきでしょうか?
残念ながら、1919年の時点で、フランスやイギリスをはじめとする連合国側には、ドイツから賠償金をとらない、という選択肢はありませんでした。まず、フランスとイギリスはアメリカから多くの戦時借款をしており、フランスにいたってはインフラもボロボロですので、現実的にお金が必要でした。
また、当時のフランスやイギリスの国民感情を鑑みるに、これ以上手ぬるい措置で済ませるわけにはいきませんでした。
extremely lenient in comparison with the peace terms that Germany herself, when she was expecting to win the war, had had in mind to impose on the Allies Correlli Barnett
「非常に生ぬるい条約だ。ドイツが戦勝国になったときに、我々にのませようとしていた賠償に比べれば!」byイギリスの歴史家
というわけで、フランスとイギリスは、ドイツが将来彼らに二度と牙をむかないように「徹底的に痛めつける」という選択をしました。
ただ、どうやら後の歴史を見るに、この戦後処理は寛大でもないし徹底的でもない、随分中途半端なものだったようで、結局ドイツの恨みを増幅させました。このドイツのフランスに対する憎悪は、ナチスの台頭という形となって、20年後にはフランスに襲い掛かります。
Der Friedensvertrag von Versailles wird in der heutigen Forschung gleichermaßen als zu hart und zu milde bewertet. Das Vertragswerk erwies sich ohne Zweifel als eine schwere Bürde für die junge deutsche Demokratie. Gleichzeitig waren die Bedingungen des Friedensvertrages aber weniger rigoros ausgefallen, als dies aufgrund der Gegebenheiten möglich gewesen wäre
「このベルサイユ条約は、現在の研究でも生ぬるすぎた、という意見と厳しすぎた、という意見が半々である。少なくともこの賠償額が当時の新生ドイツには重すぎる負担だったことは公然の事実であるが、反面、当時の現実的な状況を鑑みて、いくばくか手心が加えられた部分もあるのだ。」
ベルサイユ条約の内容
さて、本題のベルサイユ条約のほうに移りましょう。上述のような部分を反映した条約ですので、いかにドイツの軍事力を恒久的に削ぐのか、が本題です。
1.領土割譲
まず、この戦争の結果ドイツ領の15%程度が削られ、結果としてこれが第二次世界大戦の発生原因を知るうえでかなり重要なウエイトを占めています。まず、50年前の1870年代にドイツがフランスから割譲したアルザス・ロレーヌ地方が再びフランスの手に戻りました。よっぽどこのことが癪に障ったのか、ドイツは第二次世界大戦が勃発、フランスを下すとこの地域を再び自国に取り戻しています。
そして、重要なのが「ポーランド回廊」の割譲です。現在の西ポーランド領になっている多くの都市は、ドイツ騎士団の入植以降、ドイツ系住民がこの当時多く住んでいました。と、いうのももともとこの辺りはドイツ統一前に東プロイセン領土だったところで、そのため今でもいくつかの都市は、ポーランド読みとドイツ読みの使い分けがされています(ダンツィヒ=グダンスクなど)。
この一部が、ポーランドがバルト海に達するために必要だということで、ポーランドに割譲されてしまい、東プロイセンは飛び地となってしまったのです。1939年の第二次世界大戦の原因、ポーランド侵攻のきっかけは、ヒトラーがこのポーランド回廊の部分を取り戻すための戦いでもありました。
他にも、アジア太平洋やアフリカの植民地、こまごまとした領土の割譲はありますが、アルザス・ロレーヌ地域とポーランド回廊の失陥が、のちの第二次世界大戦まで尾を引く重要な出来事となっています。
2.軍備制限
フランスら連合国は、寡兵ながら最後まで自身らを苦しめたドイツ軍の頑強さに身震いしました。というわけで、ドイツが二度と戦争を起こせないように、徹底した軍備制限を敷くことに決定します。この結果、ドイツ軍の兵力は10万人に制限されることとなりました。
また、ラインラント非武装化が掲げられ、ライン川西側50kmまでドイツ軍は軍事行為が行えないこととなります。これらの軍事制限は、ヒトラーが政権を掌握すると次々と破られることとなり、1935年にヒトラーは再軍備制限を、そして1936年にはラインラント進駐をおこないますが、第一次大戦の再来を恐れ、宥和政策を掲げるフランスとイギリスはこれに対しなにもできませんでした。ここでフランスが強硬に対応していたら、世界史には違った未来が待っていたかもしれません。
3.賠償金支払い
経済学者ケインズの非難を浴びた賠償金問題です。上述の通り、ドイツを封じ込めるうえでも、イギリスとフランスの経済を復活させるためにも、賠償金の要求は理にかなったものでした。
最終的にドイツに課された賠償金はドイツ国民総所得の2.5倍という、まさに天文学的な金額で、これをドイツは30年ローンという気の遠くなるような分割支払いで、連合国側に支払い続けることとなり、これが滞るたびに、ドイツの地域や工場が占領される、という、ドイツにとっては詰んだ状況の条約です。
これをドイツ側はなんとか律儀に1920年代の末まで支払い続けますが、世界大恐慌という追い打ちが加わり、最終的にドイツが踏み倒す結果となりました。
ベルサイユ条約とドイツの国民感情
上述の通り、ベルサイユ条約はドイツと連合国間で結ばれた条約ですが、第二次世界大戦の火種となる多くの要因を抱えることとなりました。そして、第二次世界大戦との決定的な違いは、第一次世界大戦の場合、ドイツは戦場になっていないので、国民の多くは、なんで自分たちが負けたのか理解できずにいました。
確かに、1942年にはすでにスターリングラードで大敗を喫し、3年かけてじわじわと敗北への坂道を転がっていった第二次世界大戦とは違い、第一次の場合、ドイツは帝政ロシアを片づけて東側に膨大な領土を獲得、さらに戦争が終結するほんの数か月前まで、パリ目前まで攻勢をしかけていたところです。
負けていないのに、賠償金を払わされる、という理不尽な要求をされていると、ドイツ国民の不満が高まったのもまあ理解できます。実際に、ヒトラーはこの国民感情を利用、第一次大戦の敗因を「背後からの一突き」という、内部の裏切りによって負けたと喧伝することで、国内の反乱分子を粛清するのに一役買いました。
というわけで、第一次世界大戦の戦後体制は、戦後20年もたたないうちにあっさり反故にされ、捲土重来を期すナチス・ドイツがじっくりと牙を研ぐための期間に終わりました。