ナポレオンとドイツその2:エジプト遠征とアウステルリッツの会戦

前回に引き続き、ヨーロッパ全土を戦火に巻き込んだナポレオン戦争についてまとめていきます。

ついに、フランス軍はイタリア北部に駐屯するオーストリア軍に対する対外戦争を開始しました。

前回の記事↓
ナポレオンとドイツその1:フランス革命とナポレオン戦争の開戦

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ナポレオン戦争の開始

ナポレオンのイタリア戦役が開始された1796年、ナポレオンは30歳で、まだまだ若い指揮官です。また、フランス軍は前回説明した通り、国民から徴兵された軍隊で、華々しい衣装も騎馬隊もありません。そのみすぼらしい軍隊に向かってナポレオンはこう言い放ちます。

兵士諸君、裸だ、食べ物はない。政府は諸君に何も与えてくれない。私は諸君を世界で最も肥沃な平原に連れて行く。諸君はそこで、名誉・栄光・富を得るであろう

実際に、ナポレオン軍はものすごい身軽でした。以前、チンギスハンの記事でも書きましたが、車も飛行機もない時代、身軽である、というのはとてつもないアドバンテージです。孫氏の「兵は拙速を尊ぶ」という言葉が表している通り、多少粗があっても相手が準備する前にたたいてしまえばいいわけで、これをナポレオンは重視しました。

ちなみに、対外戦争で問題となるのは兵站です。4万とも5万ともいわれている軍隊の兵站をまかなうのは並大抵のことではありません。大抵、それゆえ食料などを運ぶために行軍が遅れるのですが、ナポレオンは手軽です。なぜ手軽だったかというと、フランス軍は現地の民衆を味方につけ、そこで食料をもらっていたからです。

フランス側は「民衆を開放する」ことをスローガンにかかげます。われわれフランスは王政の撲滅に成功したのだから、近隣諸国で同じようにふんぞり返った国王の元で不自由な生活を送っている農奴は一緒に革命しようぜ、というわけです。これは、確かに封建制度の下で長らく苦しめられていた諸国の農奴にとってはいい響きです。そのため、初期のナポレオンの遠征は外地でも味方をつくり、それが有利に働きます。

地の利を得たナポレオン軍は、このイタリア遠征でイタリア北部を押さえつけていたオーストリア軍を駆逐します。これで、南方からフランスがオーストリア軍によって脅かされる心配はなくなりました。

前回も書きましたが、侵略戦争と自衛戦争の境目はえらく曖昧で、今度はナポレオンはエジプトに遠征に行きたいと言い出します。エジプトは当時イギリスの交易の中継地で、これをぶった切ればアジアからイギリスに向かう交易路が途絶え、経済的にイギリスがダメージをこうむる、という理論のもとにナポレオンはエジプト遠征を主張します。

この辺は認識の違いで、昨今の歴史認識問題もそうですが、攻め込まれた側からしたら侵略戦争で、攻め込む側からしたら自衛戦争です。横から見るのと縦から見るのと形が違うようなものです。

さて、島国である、ということは防御側にとってアドバンテージです。のちにヒトラーもイギリスには手が出せずに、ナポレオンと同じ考え方で、イギリスの経済活動能力を奪う名目で日本にインドを攻撃しろと言います。ナポレオンも、イギリスに上陸してこれを制圧するのは不可能であると考え、経済的に能力をそぎ落とす方法を考えたわけです。

プラスして、ナポレオンの英雄的功名心もこのエジプト遠征を後押ししたと言われています。ナポレオンのあこがれるアレキサンドリア大王も、同じくエジプト遠征に成功しています。

こうしてナポレオンのごり押しで始まったエジプト戦争ですが、開戦当初こそ現地民を味方につけて勝利を収めたものの、イギリス海軍の英雄、ネルソンにナイルの海戦でフランス海軍は大敗を喫し、補給路と退路が断たれると、次第に雲行きが怪しくなります。

イギリスも馬鹿ではないので、相手の弱点を熟知しています。遠征軍の弱点は補給路で、その補給路を自軍の強みである海軍で破壊してしまえば身動きが取れません。そうすると今度はフランス軍は現地で無理やり物資を徴発するようになり、現地民の反感を買います。次第にナポレオンのエジプト遠征軍の旗色は悪くなってきました。

エジプト遠征で発見されたロゼッタストーン

旗色が悪くなると、今まで押されっぱなしだったオーストリア軍が本国フランスを目指して進撃を開始します。イギリスもこれに乗じます。そうするともはや遠征どころではなく、ナポレオンはさっさとフランスに引き返し、ここでクーデターを起こして政権を奪取、ここからナポレオンは独裁者として君臨するようになります。

余談ですが、上述の通りエジプトのフランス軍は退路を断たれていたので、ナポレオン一人がフランス本国に戻ったような形です。当然、そのほかのフランス軍はエジプトに取り残され、のちにエジプト軍に降伏しています。

ナポレオン戦争の拡大

前回も説明した通り、フランスをめぐる国際情勢は最悪です。そんな中、国民が求めているのは強いリーダー、戦争に勝てるリーダーですので、多少理屈がむちゃくちゃでもナポレオンはクーデターに成功し、権力を掌握しました。

ここから、ナポレオンの快進撃が始まります。目下の敵はイタリアを奪還したオーストリア軍で、ここから再びイタリア戦役を開始、マレンゴの戦いでオーストリア軍を破り、その半年後にライン方面での戦線でも戦況を優位にすすめると、オーストリア軍は戦意を喪失し、オーストリアはフランスに有利な条件で講和条約を結びます。この時点で、フランスに敵対する勢力は海を隔てたイギリスだけとなりましたが、そのイギリスともアミアン条約を結び、ヨーロッパに平和が一瞬だけ訪れることとなりました。

アルプスを越えるナポレオン

アルプスを越えるナポレオン

(ジャック=ルイ・ダヴィッド)

だんだん、ナポレオンは調子に乗り始めます。1804年、ナポレオンは皇帝の座に着き、皇帝が世襲制であることを認めさせます。もともとは革命の輸出と平等を標榜していただけに、これに失望した者も多かったようです。ベートーベンはナポレオンにあやかって「英雄」という曲を作曲していましたが、これに激怒して紙面を破り捨てた、とも言われています。

翌年、イギリスとの戦争が再開されます。もともとお互いの利害のために短期的に講和をしていただけで、フランスにとってイギリスは宿敵ですし、なんとか屈服させたい相手でもありました。

フランスはイギリス上陸を画策し、これに対してオーストリアとロシアがイギリスを支援するため、第三次対仏大同盟が形成されます。この同盟と戦役はのちのドイツに大きな影響を及ぼすことになります。

このナポレオンのイギリス上陸の野望を、イギリス海軍の英雄ネルソンは打ち砕きます。世にいうトラファルガーの海戦で、ぼろくそに破れ、事実上イギリス上陸は不可能になります。フランスの東部戦線が手薄なことを発見したオーストリア・ロシア連合は、東側からフランスを攻撃します。ここに至り、1805年12月2日、世に名高い「アウステルリッツの会戦(三帝開戦)」が幕を開きます。

Der 2. Dezember war für die Franzosen bereits ein besonderes Datum, da ihr Kaiser genau an diesem Tag im Vorjahr gekrönt wurde. In der Nacht auf den Tag der Schlacht ging Napoleon durch das Lager und wurde von seinen Soldaten gefeiert. Zahlreiche Augenzeugen berichteten später, dass der Kaiser zutiefst gerührt war.

「12月2日は、フランス人にとってすでに特別な日であった。なぜなら、ちょうど一年前、皇帝が冠帯された日でもあるのだから。夜から会戦の日にかけ、ナポレオンは軍の幕舎を赴き、兵士たちに祝福された。のちに多くの人が語るところによると、彼は心の底から感激していたように見えるという」

この会戦は教科書のお手本ともいうべき完璧な用兵術を用いたフランス軍の完勝でした。

アウステルリッツの戦い

アウステルリッツの戦い

(出典:上記サイト)

オーストリアはこの敗戦によって戦争継続能力を無くし、絶望的な講和条約を結びます。ロシア軍も、これに破れ、自国へ下がっていきます。なお、この敗れたロシア軍の中に、のちにナポレオンに苦汁をなめさせるロシアの英雄、クトゥーゾフとバグラチオンが含まれています。

ここから、ドイツの命運が動き始めます。

続き↓
ナポレオンとドイツその3:神聖ローマ帝国の滅亡とライン同盟~半島戦争