その国、その都市にはそこを代表する建造物=シンボルが存在します。フランスであれば凱旋門やエッフェル塔、ニューヨークであれば自由の女神のように。そして、こうした都市の顔となるような建造物をドイツ語でdas Wahrzeichenと言います。
ドイツのシンボルは何か、とドイツ人に問うと、誰もが口をそろえて答えるのが「ベルリンのブランデンブルグ門」です。歴史的なイベントの舞台にもなったこの門について、今回はまとめていきたいと思います。
スポンサーリンク
Brandenburger Torの歴史
ブランデンブルグ門の歴史を知るためには、プロイセンの首都、ベルリンの歴史を知る必要があります。
Um 1688, in der Zeit von Friedrich Wilhelm, kurz nach dem Dreißigjährigen Krieg und ein Jahrhundert bevor das Brandenburger Tor gebaut wurde, war Berlin eine kleine befestigte Stadt vom der Form eines Sterns. Zugang gab es nur durch eines der mehrere Toren: das Spandauer Tor, das St. Georgen Tor, das Stralower Tor, das Köpenicker Tor, Neues Tor oder das Leipziger Tor. Relative Ruhe, eine Politik der religiösen Toleranz und der Status als Hauptstadt des Königreichs Preußen erleichtert das Wachstum der Stadt.
「1688年、まだ30年戦争が終わったばかりの、ブランデンブルグ門が作られる100年も前のこと、フリードリヒ・ヴィルヘルムの時代には、ベルリンは星の形をした武装都市であった。ベルリンに立ち入るためには、Spandauer門, St. Georgen門などのうちいずれかを通って入る必要があった。その頃のベルリンは比較的平穏で、また、宗教にも寛容であったこのプロイセンの首都は、そのころ、発展を遂げていった。」
もともと、ベルリンは戦争に備えて要塞化された都市でした。他の多くのドイツの都市が星型であるように、ベルリンも同様に、敵の侵入を防ぐための防御に適した形をしていました。ベルリンの都市部に入るためには、門を通らなければいけないつくりになっており、有事の場合には門を閉め、敵の侵入に備えたわけです。
ただ、ブランデンブルグはこのころに作られたわけではありません。
Das Brandenburger Tor war kein Teil der alten Befestigungsanlagen. Jedoch war der Vorgängerbau des Brandenburger Tores eines der 18 Tore in der Berliner Zollmauer, die in den 1730er Jahren errichtet wurde
「ブランデンブルグ門は、このような要塞の一部ではなかったが、その前身となる部分がつくられたのは1730年代のことであり、18あったベルリン関税門の一つであった」
ブランデンブルグの前身となる門の一部が作られたのは1730年代になってからです。このころ、上述のような戦争のための防御向けの門という形式は廃れはじめ、代わりに税関用の門が作られるようになります。ブランデンブルグ門も、当初はそのうちの一つとして作られました。
Gebaut wurde das Brandenburger Tor zwischen 1788 und 1791 und ersetzte nach seiner Fertigstellung die früheren einfachen Wachhäuser in der Zollmauer.
「ブランデンブルグ門の工事は1788年から1791年にかけて行われた。完成ののち、関税門にあった既存の簡単な見張り台の代わりの勤めを果たすようになる」
本格的にブランデンブルグ門が今の形になるのはこの18世紀後半の工事のときです。この時以降、ブランデンブルグ門はドイツの歴史の生き証人として、200年以上ベルリンを見守ることとなります。
Nach der preußischen Niederlage 1806 in der Schlacht von Jena-Auerstedt, war Napoleon der Erste, der das Brandenburger Tor nach seinem Siegeszug verwenden und nahm die Quadriga mit nach Paris
「1806年、プロイセンがイエナ・アウエルシュタットの戦いで敗れると、ナポレオンは彼の凱旋のために利用され、挙句の果てに馬車の像をパリにもっていかれた」
門の完成からわずか20年も経たないうちに、さっそくブランデンブルグ門は歴史の重要なイベントを見届けることになります。ナポレオン率いるフランス軍がプロイセン軍を大いに破ったため、プロイセンはナポレオンの配下に置かれます。
ちなみに、この際の馬車とナポレオンの小話は、岩倉使節団がビスマルクと会談した時にも用いられています。
その8年後にナポレオンが敗れると、この強奪された馬車の像はパリからベルリンに再び持ち帰られ、無事再度主人の手元に据えられることになりました。この平和の象徴として作られた像は、こうして、戦争のたびに凱旋のためのシンボルとして用いられるようになったのです。
やがて、プロイセンではナショナリズムが高揚し、19世紀後半にはビスマルクとヴィルヘルム1世の手によってドイツ統一が生じます。ドイツがフランスを普仏戦争で破り、ドイツ帝国の統一が果たされると、再びこのブランデンブルグ門で戦勝パレードが行われます。こうして、プロイセンの首都から「ドイツ帝国」の首都となった後も、ブランデンブルグ門はドイツの歴史を無言で見守り続けるのです。
Mit dem Aufstieg der Nazis wurde das Brandenburger Tor als Parteisymbol verwendet.
「ナチスの台頭とともに、ブランデンブルグ門はナチスのシンボルとして用いられるようになった」
こうして、プロイセンの顔としての歴史を持つブランデンブルグ門は、アーリア人の、そしてナチスの誇りとして、終戦を迎え連合軍の空襲で破壊されるまで、ナチスによって政治利用され続けます。
戦争が終わると、4年後に、ドイツは東西に分裂し、朝鮮戦争に象徴されるように米ソ間の冷戦がはじまりました。また、空襲で破壊されたブランデンブルグ門は1957年、ようやく東側の主導で再建されましたが、その手には、ドイツのシンボルである鉄十字ではなく、オリーブの枝が握らされることとなりました。
1961年8月、度重なる西ドイツへの亡命者を防ぐため、突如として東ドイツ政府によって『ベルリンの壁』が設立されます。全長156kmにも及ぶ長い壁によって、多くの家族が離散させられました。
その東西ベルリンを隔てるちょうど国境の真ん中に、ブランデンブルグ門は残ります。厳戒な警備によってその周りを固められ、ベルリンの象徴はもはやだれも立ち入ることができない無人地帯となります。
それから冷戦が終わるまで、世界の情勢はめまぐるしく変化します。1975年にはベトナム戦争が終結し、南北ベトナムが統一されます。それから2~300万人と言われる犠牲者を出した、クメールルージュが崩壊し、カンボジアの内戦が終結します。
欧州でも冷戦の水面下の動きが繰り広げられます。1968年にはプラハの春が、1980年代にはゴルバチョフによるペレストロイカが行われます。
そして、1989年に東欧革命がもたらされると、東欧の民主化の動きが高まります。そんな中、1989年11月に、ベルリンの壁は市民の手によって破壊されました。それと同時に、ブランデンブルグ門も再び解放され、多くの人によってその場で祝賀されました。
ブランデンブルグ門の今
パリ広場の一角にあるこの門は、今では多くの祭りやイベント等で使われます。
2006年には、ワールドカップのための大規模な祝賀会がここで催されましたし、毎年年末になると、年越しの花火があげられます。
隣には、5つ星ホテルの『Adlon』が並んでいて、観光の中心としても有名です(シングルで一泊3~400ユーロくらいです)。