日本に残ったドイツ人捕虜たち:坂東収容所の生活

1914年、サラエボ事件によって第一次世界大戦が勃発すると、戦火はアジアへも拡大します。当時イギリスと同盟を結んでいた日本は、日英同盟を口実にドイツに宣戦布告、中国大陸における権益を拡大するため、ドイツの租借地である青島要塞の攻略に乗り出します。

青島要塞陥落とともに5,000人のドイツ人が日本軍の捕虜となり、日本の捕虜収容所に送られることとなりました。今回は、この大戦中の二国間の奇妙な関係に関してまとめていきたいと思います。

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第一次世界大戦の勃発と日本の参戦

1914年7月に開始された第一次世界大戦は、ドイツ参謀の企図していたシュリ―フェン・プランが早々に頓挫したこともあり、欧州では塹壕を挟み、血を血で洗うような凄惨な攻防戦が4年にわたって続けられることとなりました。

さて、この第一次世界大戦の勃発から遡ること20年前、1894年、日本は日清戦争において当時の清国を下し、リャオトン半島を獲得しました。ところが、当時のドイツ、ロシア、フランスの干渉によって、折角戦争の結果勝ち取ったリャオトン半島(遼東半島)を清国に変換することとなります。

参照:https://ameblo.jp/kitatyu79/entry-12023404306.html

その三国干渉からおおよそ10年後、1904年に勃発した日露戦争で日本はロシアを下し、三国干渉の恥を濯ぎます。そしてこの度、1914年、欧州で世界大戦が勃発したことで、いよいよ仇の片割れであるドイツを中国大陸から駆逐するチャンスが回ってきたのです。

この当時、日本はイギリスと日英同盟を結んでおり、参戦する大義名分はそろっていました。イギリスはこれ以上アジア地域で日本に勢力を拡大してほしくないので難色を示しますが、結局イギリスもドイツで手いっぱいで、これ以上敵を増やすわけにもいかず、日本の大戦への参戦を許可します。

こうした背景のもと、のちに「火事場泥棒」といわれ、日本の国際的孤立を間接的にまねくこととなる、日本の対独参戦が中国大陸においておこなわれようとしていました。

青島要塞の攻略

もともと青島は、1897年に三国干渉によってドイツが中国に恩を売り、その見返りとして租借した山東半島の都市です。この天然の良港を、ドイツは産業的、軍事的に発展させ、要塞化していました。

青島要塞の地図

参照:http://www.qingdaojs.org/qd-nihonjinkai/gekkanqingdao/1405/page24.html

さて、今回の日本軍の目的はこの青島要塞の攻略です。ドイツ軍の守備隊が約4000人であるのに対し、日英連合軍の戦力はおおよそその十倍、欧州戦線で手いっぱいのドイツ軍には極東に援軍を派遣する余裕があるわけもなく、はなから勝負の見えた戦いでした。

ただ、日本側としたら、日露戦争のときの旅順攻略戦のような出血をしたくはありません。先に要塞付近まで大砲などを集中させ、砲撃を加え、防御陣地を無力化し、最後に兵隊を突撃させる、という、日本としては珍しく兵站を重視した慎重な作戦に出ました。

準備を念入りにするので、当然時間がかかります。世論は当時の司令部を腰抜けと揶揄しますが、当時の攻撃側の被害をおさえるにはこれがベストなやり方だったと思います。結局、援軍も来ないですし、弾薬も尽き、これ以上戦っても無駄だと分かっているドイツ軍の司令官、アルフレート・マイヤー=ヴァルデックは、日本軍の砲撃後1週間で降伏します。

弾薬が尽きても玉砕せよと命じられたスターリングラードのドイツ兵や太平洋の孤島の日本の守備兵と比べると、同じ世界大戦とはいえ、まだこのころはぎりぎりのところでヒューマニズムを尊重する余裕が保たれていたように思えます。

というわけで、ドイツが20年の歳月をかけて培った青島要塞はたった1週間で日本軍によって攻略されました。捕虜となった5000人近いドイツ兵士と市民たちは、その後、日本の捕虜収容所へと送られることとなりました。

捕虜収容所での生活

のちの太平洋戦争の際の日本には、自国民すら食うものがないので捕虜をもてなす余裕などありませんでしたが、この第一次世界大戦の際の日本の参戦は部分的で、国内のインフラも無傷だったため、それゆえドイツ捕虜への待遇も、割とよいものでした。

実際に、ドイツ側の文献をいくつか読んでみても、この際の日本でのドイツ捕虜の扱いに関しては「基本的には」好意的に書かれています。

Die Aufnahme durch die japanische Bevölkerung war im allgemeinen freundlich. Deutsche Zivilisten, die in Japan lebten, blieben die ganzen Kriegsjahre über in Freiheit und wurden nur in ihren wirtschaftlichen Aktivitäten eingeschränkt.

「日本人によるドイツ捕虜の扱いは概して友好的であった。日本に住むドイツ市民は、経済活動をやや制限されはしたものの、基本的に戦時中も自由を許された。」

彼らは捕虜ですので、もはや敵ではありません。戦時協定に従って、捕虜たちの身柄は収容所で日本なりに丁重にもてなされました。

ただ一方では、こうした「快適な捕虜たち」というのは余りに美化されすぎた話であり、実際には、多くのトラブルが勃発した、とも言われています。文化の差異を鑑みるに、トラブルはつきものです。

Post an die Gefangenen wurde manchmal mutwillig vernichtet, und Pakete wurden mitunter ausgeraubt. Auch Sprachprobleme führten zu allerlei Mißverständnissen und Komplikationen. Offiziere wurden in separaten Häusern untergebracht, teilweise wohl, um konspirative Pläne zu unterbinden, teilweise aber auch, um sie besserzustellen. Der sich nach dem Krieg bildende Mythos von der »gemütlichen Kriegsgefangenschaft «in Japan war daher nicht immer voll gerechtfertigt

「捕虜への手紙はたびたび理不尽にも拒否され、荷物も往々にして収奪された。言語面での障壁も、たびたび誤解や不平をもたらした。将軍たちは別の収容所に隔離された、優遇する目的もあれば、反乱を未然に防ぐ目的もあった。それゆえ、戦後どこからともなく言い伝えられた“快適な捕虜たち”の神話は、必ずしも正しいとは言い切れないだろう」

現場レベルではある程度の齟齬が生まれたとはいえ、一応日本政府は彼らを極力丁重にもてなそうとしていなのは事実でもあり、ベッドも日本人サイズからドイツ人サイズに作り替えたりなど、日本側の努力のあとが見受けられます。

結局、上述のようなトラブルはどこでも起こりうるもので、それらが暴行や刃傷沙汰に及んでいない以上、第二次世界大戦の捕虜たちの命運と比べるとよっぽどましでしょう。

そんなわけで、ドイツの捕虜たちは日本に点在する捕虜収容所に収容され、そのうち多くは「坂東収容所」という徳島にある捕虜収容所に移送されました。上述のようにトラブルもあったようですが、やがて、ドイツ人たちはこの捕虜収容所での生活を満喫し始めます。

たとえば、手に職を持っているものはそれを利用して道具を作ったり、教室を開いたりと、こうして日本に上手く順応した捕虜たちは、戦後も日本に残ることになります。

Die Japaner unterhielten eine Kantine, in der die Gefangenen einkaufen konnten, soweit sie über finanzielle Mittel verfügten. Außer den Spenden von deutscher Seite erhielten die Gefangenen den gleichen Sold wie japanische Soldaten. Ihre Finanzen konnten die Gefangenen mitunter durch Arbeit in den umliegenden Orten oder durch den Verkauf eigener Produkte aufbessern.

「日本人は食堂を営んでおり、財布のひもの許す限りで捕虜たちは買い物が楽しめた。ドイツ政府からの給料の支給以外にも、彼ら兵士たちは日本の兵隊たちと同じように給料をもらっていた。ドイツ人たちは、そこで仕事をしたり、作った物を売ったりして小銭を稼いでいた。」

ちなみに、映画「バルトの楽園」でも描かれているように、この時期、捕虜収容所でオーケストラが営まれ、日本で初めてドイツ人たちによってベートーベンの第九が演奏されたとのことです。

戦後と両国へもたらされたもの

1918年、ドイツ将軍ルーデンドルフの攻勢空しく、衆は寡に敵せず、イナゴのように湧いて出てくるアメリカ軍の援軍の前に、ドイツ帝国は押し返され、国内の反乱も相まって、ついに終戦を迎えます。

これによって、約4年近く抑留されていたドイツ人捕虜たちの祖国への返還が行われ始めました。戦後、祖国に帰ったドイツ人の中には、この経験によってアジア文化に興味を持ち、翻訳を始めたり、文化を伝統したりするものが現れました。

また、上述の通り、一部のドイツ人たちは手に職を持ち、日本の文化になじんだのか、171人もの捕虜たちが、戦後も祖国に戻らず、そのまま日本に滞在し続けることにしました。そうしたドイツ人たちによって、ドイツの菓子や肉料理が伝達され、今も「フロインドリーブ」や「ローマイヤ」のように彼らの会社が残されています。

また、最大の捕虜収容所であった徳島は坂東捕虜収容所近くには、捕虜の手によってつくられたドイツ橋や、博物館のドイツ館などが今でも残されています。

第一次世界大戦を境に、ドイツと日本は国際的な孤立を深めていきます。戦後、日本はドイツの中国領土を獲得。しかし、対華二十一か条にみられるようなあからさまな中国大陸進出の野心をアメリカとイギリスに警戒された日本は、後に満州事変から泥沼の日中戦争・太平洋戦争へ踏み込みます。

一方のドイツは、第一次世界大戦で天文学的な賠償金を課せられ、経済的に破綻。暗黒のワイマール体制下でナチスの台頭を招き、狂ったように第二次世界大戦に突入します。

日本に残ったドイツ人捕虜たちの一部は、帰化し、日本で終戦を迎えています。ドイツと日本、彼らの二つの故郷が第二次世界大戦で焦土と化し、崩壊していく様を、彼らはどんな気持ちで見つめていたのでしょうか。

この本は当時の様子がよく伝わり、映画「バルトの楽園」とともにおすすめです。