第一次世界大戦とドイツその1:サラエボ事件と戦争の勃発

1909年10月、ハルビンで一国の元首相が暗殺される事件が勃発しました。
首相の名は伊藤博文、刺客の名は安重根、韓国の憂国の士であり、かつテロリストです。

俺を撃ったりして、馬鹿な奴だ (伊藤博文)

サラエボ事件前夜の国際情勢

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サラエボ事件

伊藤博文の命を絶ったこの一発の銃弾によって、一国の命運がまさに決定づけられました。韓国の独立を維持していた伊藤博文が亡くなり、大日本帝国は韓国併合を断行します。1910年、暗殺からわずか1年後、世界地図から韓国の名前が消え、韓国は今後35年間、日本の統治下に置かれます。

1914年6月、一発の銃弾が、今度は一国どころではなく、世界中の多くの国と人の命運を変えようとしていました。この銃弾の結果、世界地図から四つの帝国と1000万人以上の命がこの世から消滅しました。サラエボ事件と、それによって引き起こされた第一次世界大戦の勃発です。

1914年6月28日

An diesem heiligen Tag also begrüßt Sarajevo den Todfeind Serbiens. Er kommtn im offenen Wagen, das Verdeck zurückgeschlagen, in Generalsuniform, den Stulpenhut mit dem grünen Federbrusch auf dem Kopf, siene Gemahlin neben ihm, ganz in Weiß.

「この聖なる日に、サラエボはこのセルビア人の宿敵であるオーストリア皇太子を迎え入れた。彼は、幌の空いた自動車に乗ってやってきた。軍服を着て、折り返しのついた帽子の頭の部分には緑の羽飾りをつけ、妻の横に並び、真っ白な服装であった。」

(引用:Geo epoche Der Erste Weltkrieg)

この運命の日、オーストリア皇太子夫妻は、サラエボを視察のために訪れます。サラエボを含むボスニア・ヘルツェゴビナは、セルビアの民族主義者が標榜する大セルビア主義にとって、オーストリア=ハンガリー帝国の支配下から解放しなくてはいけない地域です。

オーストリア皇太子フランツ・フェルディナント

オーストリア皇太子フランツ・フェルディナント

そんな歴史的な緊張地帯であるサラエボをこのオーストリア皇太子夫妻が訪れたのは、セルビア王国にとって象徴的な日でもありました。キリスト教の祝日である聖ヴィトゥスの日であり、かつセルビアがオスマントルコに破れ、セルビアが長い事その支配下に置かれる原因ともなるコソボの戦いが生じた日です。このことは、セルビア人の神経を逆なでするのに十分な理由でした。

Das Automobil des Thronfolgerpaares.. passiert die Positionen der ersten beiden Verschwörer, ohne dass etwas geschieht. Offenbar hat die jungen Burschen der Mut im letzten Augenblick verlassen. Der dritte Posten ist Cabrinovic. Er zündet eine Handgranate und wirft sie in den Wagen des Erzherzogs.

「皇太子夫妻の車が、最初の二人の謀反人の待ち構えているところに差し掛かったが、何事もおこらなかった。明らかに、彼らは最後の瞬間になって怖気づいていたのだ。三人目の謀反人はチャブリノビッチ、彼は手りゅう弾に火をつけ、大公の車に投げ入れた」

(引用:Geo epoche Der Erste Weltkrieg)

皇太子夫妻に護衛はいませんでした。計画では、セルビア人側の謀反人は7人ですが、最初の2人はなにもアクションを起こしません。車が3人目のチャブリノビッチの前を通りかかったところで、騒動の発端が開かれたのです。

Die Bombe fällt auf das zurückgeschlagene Verdeck und rollt von dort auf das Pflaster, wo sie explodiert

「手りゅう弾は車の幌にぶつかって、そのまま歩道の上まで転がり、そこで爆発した」

(引用:Geo epoche Der Erste Weltkrieg)

この刺客の手りゅう弾は、オーストリア皇太子を殺傷することはありませんでした。代わりに、後続の車のお供の者がケガをします。チャブリノビッチは失敗を悟り、毒を煽って自殺しようと試みますが、これも失敗、警察に取り押さえられます。

他の謀反人たちは、その犯行現場を離れ、散り散りになります。現場は騒然としたものの、すでに警察が駆けつけており、皇太子はそのすきに市役所に到着しました。要するに、セルビア人グループによるオーストリア皇太子暗殺は、未遂に終わりました。

プリンツィプ

ほんの些細なことが、命運を分かつことがあります。セルビア人の手りゅう弾による皇太子暗殺は未遂に終わりましたが、代わりに、彼の同伴の者がこの襲撃によってケガをし、病院に運ばれました。

そのころ皇太子は、市役所で市長の歓迎を受けていたころですが、それが終わると、お供の者を見舞うために、病院へ向かうことを決します。この決断が、彼の命運を分かちました。

皇太子を乗せた車のルート変更

皇太子を乗せた車のルート変更

皇太子が現場を離れた時点で、すでに謀反人たちには、皇太子がどのルートを通るのか予測はできていません。ここからの歴史を変える一打は、まさに運命のいたずらによってなされます。

Dem Fahrer ist die Änderung der Route nicht mitgeteilt worden. Er biegt, wie ursprünglich vorgesehen, von der Uferpromenade in eine schmale Straße ein, die in die Innnenstadt führt. Der neben ihm sitzende Provinzgouverneur befiehlt ihm, zurückzusetzen. Für eine Sekunde kommt der Wagen zum Stehen. Diese Sekunde entscheidet über Österreichs Schicksal.

「このルート変更は、運転手には知らされてなかった。彼は、まるであたかも初めからそのように定められた運命であるように、岸辺のプロメナードから、町の中心へと通じる小さな道を曲がった。彼の隣に座っていた州知事は、彼の後ろに座るように伝えた。このため、車はいったん止まることとなる。この数秒が、オーストリアの命運を分けた」

(引用:Geo epoche Der Erste Weltkrieg)

しかし、ちょうどその道には、最後の刺客であり、民族主義者黒手組の一員、プリンツィプがいました。彼は暗殺失敗後のどさくさに紛れて市内から立ち去り、食事をとっていたところです。そして、ちょうどその小道で、皇太子の車は、席を変えるために一度停止します。

ガヴリロ・プリンツィプ

ガヴリロ・プリンツィプ

プリンツィプは皇太子を認めました。計画にはない、皇太子のルート変更が、皇太子を彼のもとへ導いたわけです。そしてプロンツィプはゆうゆうと近づいてきて、運命の引き金を引きます。

Princip zieht den Revolver und schießt zweimal. Eine Kugel trifft den Erzherzog in den Hals, die andere dessen Frau in den Unterleib.

「プリンツィプは、リボルバーの引き金を二回引いた。銃弾の一つは皇太子の首を貫き、もう一つは彼の妻の下腹部を貫いた」

(引用:Geo epoche Der Erste Weltkrieg)

戦争を告げる号砲がバルカン半島に響いた瞬間です。皇太子夫妻は病院に運ばれますが、死亡が確認されました。この皇太子暗殺のニュースは瞬く間に世界を駆け巡り、ドイツのヴィルヘルム2世のもとにも届けられます。

皇太子暗殺の場面

皇太子暗殺の場面

ヴィルヘルム2世は、オーストリア皇太子フランツ・フェルディナントの個人的な友人でもあり、暗殺の2週間前にも会合を果たしています。その、良き友人である皇太子が、身重の妻ゾフィーとともに卑劣な弾丸によって暗殺されたことは、この移り気な皇帝を激怒させます。もはやセルビアのスラブ人を許すことはできない、とオーストリアに対し強く主張します。

オーストリアも今回ばかりは黙っていられません。黒幕はセルビア政府、暗殺の実行犯の武器はセルビア政府から支給されたものだと突き止めると、ドイツの後ろ盾を得たオーストリアはセルビア政府に対し、宣戦布告に等しい苛烈な最後通牒を行います。

結局、交渉は決裂、最後通牒の回答期限である7月25日を迎えると、皇太子を暗殺されて怒りに満ちたオーストリアは7月28日にはセルビアに宣戦布告、同盟国であるドイツもシュリーフェンプランを発動し、8月1日は軍を総動員、ここに、第一次世界大戦の火ぶたが切って落とされました。