ビスマルク政権下でのドイツ:社会保障政策とビスマルク体制

ヴィルヘルム2世、ビスマルク、モルトケ、ローンなど、政治家、軍人、多くの有能なリーダーたちの手によって、ドイツ統一は成し遂げられました。しかし、歴史はそこでは終わりません。自らつかんだその地位を、保ち続けることが国家には必要なのです。

今回は、ビスマルクの行ったドイツ統一後の外交・内政的な政策についてまとめていきます。

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ビスマルクの内政

まずは、ビスマルクの行った国内政策について見ていきましょう。ビスマルクの目的は、ドイツ帝国を、つまりはドイツの君主制を維持することです。そのための障害はたくさんありました。まずは、統一されたばかりのドイツ国内の宗教問題です。

もともと、プロイセンは北ドイツの国家で、南ドイツにはカトリック信者が多数いました。このカトリック教徒を弾圧するためにおこなわれたのが「文化闘争」で、これによりカトリック教会と敵対します。

しかし、ビスマルクの想像以上にカトリック教会の抵抗は根強く、ビスマルクもこれは割にあわないと踏んだのか、結局妥協し始めます。というのも、ビスマルクの目指す君主制のドイツ帝国存続にとって、カトリックなどよりも大きな敵が、ドイツ国内には存在し、そちらとの戦いを優先しなくてはならなかったからです。

その最大の敵は、労働者です。労働者自体が敵というより、社会主義に感化され、政権の打倒をたくらむ武闘派の労働者たちです。

もともとユンカー(地方貴族)出身のビスマルクは社会主義者を快く思っていませんでしたが、1878年、何者かがヴィルヘルム1世の暗殺をたくらむと、ビスマルクはこれを社会主義者の犯行だとし、さっそく喜んで社会主義鎮圧法を制定します。これはのちに、ヴィルヘルム2世が即位したのち、ビスマルクを失脚させるための口実に使われました。

ビスマルク

ビスマルク

さて、国家の目的とはなんでしょうか?国家を存続させることです。社会主義運動によってロシア帝国が崩壊し、ソビエト連邦になったり、南アメリカがスペイン人の征服を受けて滅亡したりと、内的、外的要因はあれど、その体制を保てなくなってしまったら、国家は国家でなくなります。

ドイツ統一という最初の目的を成し遂げたビスマルクの次の目的は、国家を存続させることです。国内の不平不満が高まれば、彼らは赤色テロに走り、国家を内部から脅かしかねません。また、それが直接政権を打倒せずとも、国内が不安定になれば、他国の侵略を受けやすい形になり、どのみち面白い結果にはなりません。

というわけで、倫理的ではなく、合理的に考えて、国内の不安分子は少ないほうが良いのです。その考えに基づき、ビスマルクは「社会保障」を充実させることにします。

労働者が政権打倒を企て、内政が混乱するのは、彼らがにっちもさっちもいかなくなってからです。ですので、そうした「失うもののなくなった労働者階級」が革命戦士化するのを避けるために、社会のセーフティネットを作り、彼らを命に関わるような貧困から救済してあげる必要があるのです。

テロは、常に弱者が強者に立ち向かう、抗弁するための一つの手段ですので、そうした不満がでないよう、ぎりぎりのところで彼らを保護する必要があります。例えば、当時は炭鉱などで落盤事故も多発、労働者は常にケガや病気の恐怖と戦う必要上がりました。そんな中、1883年には疾病保険、1884年には労働者災害保険、そして1889年には老齢・廃疾保険が誕生、これらは、世界初めての社会保険となります。

先ほどの「社会主義者弾圧法」と合わせ、このビスマルクの社会保障政策は、飴とムチ政策(Zuckerbrot und Peitsche)と言われています。

ビスマルク体制の完成

続いて、外交のほうはどうでしょうか。

ドイツ統一の過程で行われた普仏戦争は、ドイツ・フランス間に大きな禍根を残しました。その原因の一つが、普仏戦争後にフランスからドイツに割譲されたアルザス=ロレーヌ地方です。ドーデ―の小説「最後の授業」の舞台にもなった地方です。

割譲されたアルザス=ロレーヌ地域

割譲されたアルザス=ロレーヌ地域

フランスは間違いなく将来、このアルザス=ロレーヌ地方を取り返そうと、ドイツに報復を企てるに違いないと、ビスマルクは気づいていました。フランス一国ならまだしも、他の大国がフランスと手を結んで、ドイツに多方面から戦争をしかけるようになったら厄介です。そうならないためにも、ビスマルクはフランスを外交的に封じ込めるように、フランス以外の国と、先手を打って仲良くしておくことにしました。

そのためには、ヨーロッパの軍事バランスが保たれていることが重要です。ある国同士が戦争を始めたら、どちらかがフランスやドイツに援助を要請するでしょう。そうすると、ドイツとしても傍観するわけにはいかず、戦争に引き込まれることになります。

そうならないためにも、ヨーロッパは平和である必要がありました。ドイツ統一のために策を弄して戦争を企てたビスマルクは、今度はドイツの秩序のためにヨーロッパの平和のために奔走します。

その中でも、特にビスマルクはロシアとの関係を重視します。ドイツにとって一番あってはならないのが、東からロシア、西からフランス、と、二大強国に挟み撃ちにあう状況です。

フランスが仲間になる状況は望めない以上、ビスマルクはロシアとの同盟関係をまず第一にいろいろ工夫を凝らすのですが、そんな中、ヨーロッパの軍事バランスの崩れそうな事件が勃発します。帝国ロシアと、瀕死の病人オスマントルコの間に勃発した露土戦争です。

1877年に勃発した露土戦争は、ロシアの圧勝に終わり、オスマントルコはバルカン半島を失陥します。しかし、これ以上ロシアが力をつけてしまうとバルカン半島が戦火に巻き込まれ、とても厄介ですので、ビスマルクは「正直な仲買人(ehrlichen Maklers)」というコンセプトのもと、戦後処理に当たります。これが露土戦争の戦後処理である1878年のベルリン会議です。

Tagelang zerbrach sich Bismarck den Kopf, um die Formel zu finden, die niemand verletzen und doch den Frieden retten würde.

「長い間、ビスマルクは頭を悩ました。どんな口上で、誰も傷つかないやり方で平和を保てるかを思案しなくてはいけなかったのだ」

仲介事は、誠実でなくてはいけません。そうでなくては恨みを買います。ビスマルクは、ロシア、オーストリアなど、戦争の当事者たちの恨みを買わぬよう、そしてバルカン半島に禍根を残さぬよう、慎重に会議を進めます。

ベルリン会議

ベルリン会議

この、欧州の「正直な仲買人(ehrlichen Maklers)」であることは、ヨーロッパの平和を、ひいてはドイツの平和を保つためのビスマルクの基本戦術でした。歯車を操る職人のように、ビスマルクは巧みに関係国の利害を読み取り、それぞれ絶妙なバランスで納得するように、交渉を行っていくのです。

こうしたビスマルクの努力が実り、1870年代、1880年代、ドイツをめぐる国際情勢は平和でした。また、ビスマルクは他の大国の利益を必要に侵害しないよう、海外植民地の獲得についても消極的です。多少はドイツも植民地を増やしますが、できるだけ、イギリスなどを刺激しないようなやり方で、ひっそりとおこなっていきます。

そんなビスマルクの芸術作品ともいえるヨーロッパの「ビスマルク体制」は、ビスマルクが失脚し、ヴィルヘルム2世が親政をおこない、帝国主義路線をまい進し始めるまで続きました。

Die Nachfolger Bismarcks wußten mit dem Begriff des ehrlichen Maklers wenig oder gar nichts anzufangen, und so geriet Deutschland mehr und mehr in das Räderwerk der Koalitionen, ohne Möglichkeit, in den Gang dieser Räder selbst einzugreifen.

「ビスマルク以降のドイツの政治家は、この誠実な仲介人である術をあまり、あるいはまったく心得ていなかったため、仕舞にはドイツ自身が、歯車を外から操るのではなく、逆に操られる歯車の中に巻き込まれていってしまった」