モンゴル軍の襲撃:史上最強のモンゴル騎馬軍団vsドイツ騎士団

歴史上、大遠征と呼ばれるものがいくつかあります。アレキサンダー大王の覇業、ナポレオンやナチスのロシア遠征。これらの広大な版図をみると、どれだけ遠方まで彼らが赴いたのか驚かされますが、歴史上には、上記のいかなる遠征とも比べ物にならない大遠征が存在しました。

地球上の陸地面積の25%を征服したと言われるモンゴル帝国です。アレキサンダー大王にしろ、ナポレオンにしろ、通常、彼らの遠征は西から東へ向かうものなのですが、モンゴル帝国はこの流れに逆行してヨーロッパまで侵攻しました。

東は韓国、西はハンガリー・ポーランドまでその版図を広げ、並み居る民族を恐怖のどん底に突き落としました。今回は、アジアの遊牧民とドイツの騎士団が激突した歴史的な一幕について検討していきたいと思います。

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史上最強の帝国、モンゴル帝国のおこり

モンゴル帝国の始祖、チンギスハンは1162年にその生をうけます。もともとは名のある首長の息子でしたが、父親が急死した途端、一族は求心力を失い、幼いチンギスハン(テムジン)は母と兄弟を連れて塗炭の苦しみを味わいます。

彼がいかにモンゴルで勢力を拡大し、のし上がったかについてはここの本道とはずれますので割愛しますが、幼いころからモンゴル帝国を建設するまで、彼はつねに戦争にあけくれ、妻を奪ったり奪われたり、友人に裏切られたり、肉親に裏切られたりと、彼ののちの人格形成をゆがませたであろう悲惨な出来事がいくつも起こっています。1206年、かれはモンゴル帝国を建設しました。

さて、千戸制(今まで部族・血族間で軍事組織がまとめられていたものを、千戸ごとにまとめ、戦闘組織を作った)をひき、モンゴル帝国内の軍事行政制度を整え、いよいよ国内基盤が確固たるものになると、チンギスハンは征服事業に乗り出します。手始めに隣国の西夏(現在の回族自治区)を傘下に収めると、1211年には当時の中国の王朝である金に対して侵攻を開始、5年足らずでこちらも傘下に収めます。

チンギスハン

チンギスハン

次いで、ようやくチンギスハンの目は西に向けられるようになりました。もともと、この時点でチンギスハンは西への遠征事業を行うつもりはなかったとも、実は中央アジアを支配下に置く気まんまんだったとも言われていますが、当時のホラムズ王国はオトラルで、モンゴルの使節団がスパイ容疑をかけられて殺害される、という事件が勃発。チンギスハンは賠償金を要求するも、ホラムズ王国はさらにつっぱね、というか再び使節団を殺害し、チンギスハンを激怒させます。

1219年、チンギスハンは大軍(とはいえホラムズより少数)を組織して西方への侵攻を開始。オトラルの町は怒りに満ちたモンゴル軍の手によって囲まれ、数か月の攻防戦ののち、陥落、モンゴル使節団を侮辱した知事は体中の穴という穴から溶けた銀を流し込まれて殺されたとのことです。

ホラムズ王国滅亡までの過程で、サマルカンドをはじめとする中央アジアの都市は木っ端みじんに粉砕されました。蔵書は焼かれ、住民は凌辱され、殺され、町は焼かれ、ただし職人だけが有価値だとして助命されました。

アフラシヤブ(元サマルカンド)の遺跡

アフラシヤブ(元サマルカンド)の遺跡

写真出典ウィキペディア

この当時のモンゴル軍ほど、軍の機動性の重要性を体現した軍隊はなかったのではないでしょうか。平地での戦いは兵の数によって決まると言われていますが、圧倒的な機動力は、敵軍を各個撃破することを可能たらしめます。また、モンゴル軍にあって、他の文明国が重んじていたような道徳観念は一切通用せず、捕虜をおとりに使ったりとやりたい放題でした。

そんなわけで、文字通りホラムズ王国は壊滅、チンギスハンと血に飢えたモンゴル軍はヨーロッパへ着実にその歩(馬)を進めます。

チンギスハンの死とモンゴル帝国のヨーロッパ遠征

さて、この遠征の段階でチンギスハンは死去しています。悪魔のような災禍をユーラシア各国にもたらしたチンギスハンといえども人の子、病気には勝てませんでした。

通常、独裁者が死ねば大国は後継者争いで分裂するのが世の常です。ところが、用意周到なチンギスハンは生前に後継者を指名、特段大きな後継者争いも起こらず、遠征は継続され、いよいよ舞台は中央アジアから東ヨーロッパへ移行します。

このヨーロッパ遠征を指揮したのはチンギスハンの孫、バトゥで、例のごとくその軍勢の規模は少数ながら、機動力とユーラシア各国に張り巡らされた情報網を武器にヨーロッパの奥深くに侵攻していくことになります。1230年代後半にはロシア、ウクライナ領土へ侵攻を開始、もともと内部の動乱で国家として不安定だったキエフ大公国はこの攻撃を受けきれずに滅亡します。

そしてついに、バトゥはポーランド方面への侵攻を開始。ここで、歴史上未曾有の邂逅ともいうべき、アジア最強の騎馬隊と、ヨーロッパを異民族の侵略の手から守るべくして立ち上がった、正義のキリスト教軍団の戦いの幕が切って落とされます。

このキリスト教連合には、テンプル騎士団、ドイツ騎士団などが含まれており、ドイツ国民というよりも宗教的な意味合いの大きい軍団で、もともとの役割はエルサレム巡礼をするキリスト教徒の護衛と、異教徒の改宗です。モンゴル軍が去った後には、着実に東のほうで異教徒をキリスト教に改宗させる運動を続けます。

さて、モンゴル軍にヨーロッパ連合軍が立ちはだかった、というと聞こえはいいですが、実際にはただの寄せ集めです。

Zu dieser Zeit ist Europa ein politischer Flickenteppich aus Fürsten- und Königtümern. Nie hat man mit Bündnissen gegen eine Bedrohung aus dem Osten vorgesorgt.

「当時のヨーロッパは、領邦と王国のつぎはぎ絨毯状態だった。かつて、誰も東方からの脅威に団結して備えたことなどなかったのである」

そんなわけで、団結もくそもなく、連合のほうは一方的にモンゴル騎馬隊に蹂躙され、蹴散らされました。特に損害著しかったのが1241年にポーランド・ドイツ連合とバイダル(チンギスハンの孫)率いるモンゴル帝国軍の間でおこなわれたワールシュタット(Wahlstattはドイツ語で死体の山、のようです)の戦いで、文字通りドイツ連合は惨敗、指揮官クラスが3人も殺される大惨事となりました。

ワールシュタットの戦い

ワールシュタットの戦い

出典:https://www.welt.de/kultur/history/article1004656/Mongolensturm-Die-Schlacht-bei-Liegnitz.html

機動力を生かした戦闘のメリットは、相手を包囲殲滅しやすいところです。どんなに相手が多かろうと、前と後ろから挟み撃ちしてしまえば、恐慌状態に陥ります。モンゴル軍の強さは、うまく負けて、相手をこちらの陣地深くにおびき寄せ、その後、両翼から一気に包囲する、というやり方で、今回の戦いでもその戦術がいかんなく発揮されました。

この戦いの結果、モンゴル軍はヴロツラフまで侵攻、町を破壊。地図を見れば分かりますが、ヴロツラフは現在のポーランドの西部の都市で、ドイツまでの距離もそう遠くありません。さらに3日後には電光石火の行軍でバトゥの本隊がハンガリー軍との戦闘を開始、こちらも機動力の優位性を生かして相手を包囲し、殲滅しています。これによって、ハンガリーと、ポーランドの国土の大半がモンゴル軍の手中に落ちました。

モンゴル帝国の1279年の版図

モンゴル帝国の1279年の最大版図

出典:wikipedia

この時点でモンゴル軍の別動隊はトランシルヴァニアを攻略、別ルートからハンガリー侵攻を開始しようとしており、かたやヨーロッパ軍はというと、いまだに内部争いを続けている最中で、モンゴル軍に対して一致団結するようなナショナリズムはまだ到来していませんでした。国家ごとのナショナリズムがヨーロッパに現れ始めるには、ナポレオンの侵略戦争を待ちます。

“In diesem Jahr hörten wir von der tödlichen Niederlage des Christenvolks, vom Auftauchen der Tartaren, von deren Grausamkeit uns die Ohren klingen und unsere Herzen zittern”, schreibt etwa der Chronist der Kölner Benediktinerabtei St. Pantaleon.

「”この年、我々はキリスト教国家の致命的惨敗を、タタール(モンゴル)軍の出現を、残酷無比な行いの数々を耳にし、不安におののいた”、と当時のベネディクト教会の書記であるパンタローネは書き残した」

もはや、誰にもモンゴル軍は止められません。住民が根こそぎ殺され、凌辱されたあのサマルカンドと同じ運命をヨーロッパの各都市もたどるのでしょうか。そして、いよいよモンゴル軍はウィーンに迫ります。、

ところが、ここでようやくキリスト教徒たちの祈りが天に通じたのか、ここでモンゴル帝国の総帥、オゴタイの命運がぱたりとつきます。

さらにヨーロッパ連合にとって幸いなことに、チンギスハンは生前、後継者を指名していましたが、今回のオゴタイの死は突然で、後継者が指名されていませんでした。

というわけで、バトゥをはじめとするヨーロッパ遠征軍も慌てて領内に引き返し、後継ぎを決める会議に参加せざるをえなくなります。もはやヨーロッパ軍との戦争どころではありません。上杉謙信も後継者を指名せずに亡くなりのちに内戦を引き起こしていますし、後継者指名せずに亡くなるとろくなことが起こりません。ヨーロッパのキリスト教国家はこうして天祐によって救われました。

そんなわけで、嵐のようにヨーロッパを蹂躙したモンゴル軍は、嵐のようにヨーロッパから去っていきました。それでも、ポーランドはこれから数十年、モンゴル軍の侵略と内戦に苦しめられることとなり、ドイツ人による東方植民が進められます。この際のドイツ騎士団の東方植民への熱い思いは、700年の時を超えてナチスドイツの東方生存圏の情熱に受け継がれていくのですが、それはまた別のお話です。