5分でわかるドイツの歴史:ドイツ統一のまとめ

今回はできるだけ簡単に、ドイツ統一までの流れをまとめていきたいと思います。

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ドイツ統一の背景

ナポレオン勃発時、ドイツは神聖ローマ帝国という名ばかりの諸侯の集まりでしたが、ナポレオン戦争によってこの神聖ローマ帝国が名実ともに消滅します。ナポレオン戦争以後、ドイツはプロイセンをふくめ300以上の領邦に分裂したままで、足並みがそろっていませんでした。

しかし、ナポレオン戦争がプロイセンを含め、各国にナショナリズムの到来をもたらしました。ナポレオン戦争後、こうしたナショナリズムの高揚を抑えたいオーストリア帝国は、ウィーン体制によって王政の復権を狙います。というのも、オーストリアは他民族国家なので、民族独立運動が発生してしまうと国が崩壊します。

このウィーン体制下では、民族運動や自由主義運動は抑えられ、王政による統治が盤石なものになるはずでした。ところが、1848年、フランスの2月革命を契機に、フランスでは第二共和政がスタート、ウィーン体制は綻びを見せ始めます。オーストリア帝国内部でも相次いで民族運動がおこり、諸国民の春、と名付けられました。

こうして、欧州各国で自由主義、民族自決の動きが高まったものの、ドイツでは、自由主義による統一は果たされませんでした。まず、当時のプロイセン君主であるヴィルヘルム4世は、自由主義の基盤を敷いた憲法を容認しませんでした。そして、君主なしにはドイツ統一など果たせなかったからです。

また、隣のオーストリアも問題でした。当時叫ばれていた「大ドイツ主義」によれば、ゲルマン民族の国家であるオーストリアも含まれた地域がドイツとみなされることになりますが、オーストリアは当時、上述の通り他民族を抱えていますので、そんなことをしたら帝国が崩壊することになるため、当然うんとは言いません。

というわけで、この1848年のフランスの革命運動はドイツの直接的な統一には結びつきませんでしたが、この時期、ドイツでは統一のための基盤づくりが水面下で着々と果たされていきます。ドイツ諸侯の間で締結されたドイツ関税同盟は、ドイツ諸都市の間の貿易、産業を促進し、ドイツの産業革命は軍需を豊かに整えました。そして、1861年、満を持してプロイセン国王の座についたのがヴィルヘルム1世でした。

普墺戦争

ヴィルヘルム1世と、宰相のビスマルクはともにドイツ統一、という目的を共有していました。分裂した状態のドイツを統合するには、こうした求心力を持ったリーダーの到来が待たれていたのです。

まず、倒す敵は上述の通りオーストリア帝国です。プロイセン、オーストリアはともにゲルマン系の、神聖ローマ帝国内の国でしたが、そちらがドイツ統一のイニシアチブをとるのか、という部分で、決して相いれない問題があったからです。

老獪なビスマルクは、巧みにオーストリアを戦争に引きずり込みます。また、プロイセンはオーストリアに比べると小国ですが、すでに軍事の天才モルトケの手によって国内によって鉄道網が配備され、プロイセン軍は迅速な動員体制を可能にしていました。

また、当時の軍制としては新しい、参謀本部からの上意下達制度を、無線網を活用し可能にしていたため、上述の鉄道網と合わせ、迅速に、かつ正確な時間に、兵士を前線に送り込むことが可能になっていたのです。

また、ドイツ関税同盟によってモノの流れがスムーズになったことも、ドイツの軍需産業を後押ししました。武器の質、そして作戦、鉄道網の利用などにより、ドイツはこの普墺戦争に圧勝し、逆に敗北したオーストリア帝国は解体、オーストリア=ハンガリー帝国が成立します。

普仏戦争

続いてドイツが戦わなくてはいけなかったのが、西の大国フランスです。フランスにしたら、隣に強大な統一国家ができることは面白くありませんし、遅かれ早かれドイツにとって戦わなくてはいけない敵でした。

また、ビスマルクはドイツ諸侯が共通の敵に対して一丸となる、という状況を作り上げたかったのです。そのためにも、フランスはおあつらえ向きの対戦相手でした。

ビスマルクはエムス電報事件でフランスを挑発、戦争に引きずり込むと、普墺戦争と同様、巧みな兵士の運用と参謀本部の活用で、終始フランスを圧倒します。結局、フランス軍はナポレオン三世が捕虜となる、という失態を晒して敗北し、ドイツは普仏戦争にも勝利、これによってドイツ統一が果たされました。

この時フランスからドイツに割譲されたロレーヌ地区は、フランスとドイツの間に長い間遺恨を残す結果となり、第一次世界大戦、および第二次世界大戦の遠因にもなっています。

普仏戦争

ドイツ統一後のビスマルク体制

ドイツ統一を果たしたプロイセンでしたが、まだまだやることは残っています。まず、二度の大きな戦争に勝利したものの、これ以上の戦争を戦えるほどの体制はまだ国内には整っておらず、しばらくは内政を安定させるために務めたいところです。

そのために、ビスマルクは戦争が起きないよう、巧みな外交戦術を駆使します。具体的には、将来ドイツに対し一番戦争を起こしそうなフランス以外の国と同盟を結ぶことで、外交的にフランスを孤立させる作戦に出たのです。

このビスマルク体制によって、欧州間の国同士の大きな戦争は、第一次世界大戦まで起こりません。ビスマルク体制は、ヴィルヘルム2世の世界政策によってロシアとの関係が破たんするまで続きます。

ビスマルク

ドイツ統一後の内政

ビスマルクは、外交だけでなく内政にも精を出しました。

統一したばかりのドイツで、南ドイツのカトリック勢力はビスマルクにとって脅威でしたので、これを「文化闘争」という触れ込みで弾圧しようとしますが、こちらは教会側の勢力が強すぎて、結局失敗に終わります。

また、ビスマルクは貴族出身で、また君主制を維持したいと考えていたので、その制度を脅かすであろう社会主義には反対です。そのため、社会主義者鎮圧法でもって、国内の統制を図ろうとしますが、のちにこれがヴィルヘルム2世の治世になって、ビスマルク失脚の原因となります。

もう一つ、ビスマルクがやったことの中で重要なのが「社会保険」の世界で初めての整備です。当時、労働者をめぐる環境はとても良いとはいえず、病気、ケガなどに対する保証はどこにもありませんでした。これは、労働者の貧困の温床になり、ひいては社会主義者をこの世に作り出しかねません。

というわけで、上述の「社会主義者鎮圧法」とあわせ、「飴とムチ」政策として知られています。他方では過激な社会主義者を徹底的に弾圧し、他方では社会保障を充実させ労働者を懐柔する、という方法です。

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