日露戦争その1:ドイツと日英同盟を取り巻く世界情勢

今を遡ること110年ほど前、日本とロシアの間で戦争が勃発しました。ヨーロッパからしてみればそれは小さな局地戦にすぎませんでしたが、これにロシアは敗北、東進の野望はついえることになります。

この日露戦争は、日本とロシアの間で行われたものですが、実際には欧米列強の思惑が入り乱れた外交ゲームの様相を呈していました。今回は日露戦争を通じて、当時のドイツを取り巻く環境に目を向けていきましょう。

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日露戦争開戦前夜の世界情勢

外交の鉄則は「敵の敵は味方」です。20世紀初頭、国家間のパワーバランスは当時、絶妙な塩梅で均衡を保っていました。昨日の敵が今日の味方に転じたとしてもなんら不思議ではなく、逆に相手を貶めるためには権謀術数を駆使します。この原則は古今東西を通じ、どの外交場面にも適用することができる理論で、これを卑劣、汚いと呼ぶのはあまりに純真無垢な発想でしょう。

1900年前後のアジア情勢

さて、まずは当時のアジア情勢を見てみましょう。1894年の日清戦争で、日本は眠れる獅子とうたわれる清を撃破しました。実際には眠れる獅子でもなんでもなかったわけで、安堵した欧米列強は一斉に清を分割しはじめます。ここまで、欧米は南アメリカ、オセアニア、東南アジア、アフリカなどを植民地化してきましたが、ついに最後のブルーオーシャンだった東アジアにその触手を伸ばし始めたわけです。

日本が日清戦争でなにをしたかったかと言うと、目的の一つは朝鮮を支配下におさめることです。朝鮮半島は日本の目と鼻の先ですので、ここを他の国にとられると本土の防衛上ものすごく厄介です。地政学的に朝鮮半島は悲惨な場所にあります。現在でも、中国とアメリカに挟まれ、外交的にはお互いの機嫌を損ねないよう、蝙蝠のような恰好をとらなくてはいけないのですから。

日清戦争の勝利で、日本は遼東半島を得ます。これにより日本の朝鮮統治がぐっと近づくことになり、日本の東アジアの植民地政策の主導権を握るかに思えましたが、これを面白く思わない勢力がいます。同じく、東アジアに領土を拡大したいロシアです。

「日本による遼東半島所有は、清国の首都北京を脅かすだけでなく、朝鮮の独立を有名無実にし、極東の平和の妨げとなる。従って、半島領有の放棄を勧告し誠実な友好の意を表する」

以上のように、要するに日本が遼東半島を征服するのは、東アジアの平和を損なう行為だとして、正義の使者であるロシア・ドイツ・フランスは日本に勧告します。あくまで、ロシアは極東の平和を守るために、中国から日本を撤退させるのだ、という名目です。

St. Petersburg hatte den Chinesen Schutz vor den “japanischen Affen” (Zar Nikolaus II.) versprochen, 1898 aber Port Arthur gepachtet.

「サンクトペテルブルグのロシア政府は、中国人に対し日本の猿(ニコライ2世による日本の蔑称)の手から中国を守ることを約束し、そのくせ1898年には旅順を租借した」

(引用元:http://www.stern.de/politik/geschichte/russisch-japanischer-krieg-wie–affen–die-armee-des-zaren-besiegten-3294360.html

このように、直後にロシアもドイツも清国の植民地支配を強化しているので、「極東の平和」が聞いてあきれますが、ともかくこのころの日本には三国干渉に対抗する力はなく、泣く泣く遼東半島を手放すことになります。これによって、日本の朝鮮統治の話もぐっと遠ざかることとなります。

今度はヨーロッパに目を向けてみましょう。なぜドイツとロシアは手を組んで日本に干渉したのでしょうか?

1900年前後のヨーロッパ情勢

ナポレオン戦争はドイツ国民にナショナリズムの高揚をもたらします。産業革命を経て、1800年代後半にはプロイセンはオーストリア、フランスとの戦争を勝ち抜き、ついに念願のドイツ統一を果たします。これが1871年の出来事で、日本で明治維新がなったころとほぼ同年代です。

普仏戦争でも同様に戦術的天才を見せつけたモルトケは、ナポレオン3世を大いに破り、ついにビスマルクとともに念願のプロイセン統一を果たします。

ドイツ帝国建設時、ドイツには偉大なる政治家ビスマルクと皇帝ヴィルヘルム1世がこれを統治していました。ビスマルクの外交戦略は巧みなもので、フランスを封じ込めるため、フランス以外の欧州各国との協調路線をとります。ビスマルク体制というもので、この体制下、ドイツはしばらく対外植民地獲得の野心を見せずにいました。

しかし、上述の通りドイツは遅れて統一された国家です。当時、イギリスもフランスも海外に植民地を持っていましたが、ドイツは持っていません。これは経済的にも軍事的にもかなりのディスアドバンテージです。19世紀後半から、次第にドイツは植民地獲得の野心を見せはじめ、ヴィルヘルム1世が崩御し、ヴィルヘルム2世の時代になると、その野心は顕著になります。

1890年代、ヴィルヘルム2世の政策は、海外植民地の獲得に向けられていました。まず、バルカン半島を制圧したいドイツの野心はロシアと衝突し、ビスマルク体制は早くもほころびを見せ始めます。さらに、ドイツはオスマン帝国と接近し、3B(ベルリン、ビザンティン、バグダット)政策の青写真を描くと、イギリスの3C政策と対立することになります。

ドイツは急速に産業力をつけ、そして野心を見せ始めたことから、他の欧州各国ににらまれることとなります。ドイツとしては、西からフランス、東からロシアに睨まれているこの状況はよろしくありません。この、四方を敵に回す状況を避けたかったためにビスマルクは外交政略に奔走したのですが、ヴィルヘルム2世がしっちゃかめっちゃかにしてしまいました。

さて、ロシアは何がしたいのでしょう。ロシアの政策はとにかく「南(オスマン帝国・バルカン方面)」や「東(満州、朝鮮)」に勢力を拡大していくことです。特に東アジアでのイニシアチブを握るために、ロシアは不凍港(冬でも凍らない港)が欲しくてほしくてたまりません。

ロシアは南下政策をとるためにはドイツと敵対することになります。正直、ドイツにとってもロシアにとってもこの戦争は不確定要素が大きく、できれば避けて通りたい道です。ここで、ヴィルヘルム2世はロシアがドイツ向けている目をそらすために、東へ目をそらさせる作戦に出ます。これが、三国干渉時のヨーロッパの外交情勢です。

ヴィルヘルム2世はここで、黄禍論を主張します。以前も書きましたが、ロシアもドイツも以前モンゴル帝国のために苦汁をなめています。我々白人の権益を守るために、黄色人種を一緒にやっつけよう、という理論を展開します。

三国干渉によって日本が遼東半島を手放すと、ロシアもドイツも嬉々として清の分割に乗り出します。1897年、ドイツは膠州湾を租借し、青島に多額の投資がなされることとなります。ロシアも遼東半島南部の租借権を獲得し、朝鮮半島内では親露派が台頭し始めます。

さて、ここでロシアに満州・朝鮮まで勢力拡大されてしまうと困る国があります。当時栄光ある孤立路線をとっていたイギリスです。イギリスにとって、世界情勢は混とんとしていてくれたほうが助かります。一つでも頭の抜けた国が出てきてしまうと、それによってイギリスの地位が脅かされてしまうからで、理想はみんなで足を引っ張り合ってくれることです。

ところが、ロシアがこのままだと東アジアでイニシアチブを握りそうです。欧州列強の中で、唯一自国の首都からアジアまで陸路でこれるのはロシアだけですので、確かにロシアはアドバンテージがあります。ただし、イギリスも直接ロシアと戦争をしたくはありません。フランスがロシアと同盟していますし、これらを敵に回すのは避けたいわけです。

日英同盟の締結

ここで、日本は朝鮮半島を制圧したい、邪魔者はロシアである。イギリスはロシアの領土拡大を防ぎたい、とそれぞれにとってロシアが厄介者であることが分かります。1902年、ついにイギリスは栄光ある孤立、を断念し、東洋の小国である日本との同盟を結ぶにいたります。

日本に火中の栗を拾いに行かせるイギリス

日本に火中の栗を拾いに行かせるイギリス

当時最大の海洋帝国を築いていたイギリスにとって、火中の栗を拾う国は弱小のほうがいいです。あまり強い相手を援護してしまうと、自分の地位を脅かされることになりますので。日本にとっても、イギリスは頼もしい同盟国で、お互いにウィンウィンの同盟だったといえます。

ちなみに、日英同盟の内容としては、1対1の戦争の場合、直接干渉はしないというもので、一国でも相手側にたって参戦したら、イギリスが助っ人に加わる、というものです。当時想定されていたのはロシアvs日本ですが、ロシアは当時フランスと同盟を結んでおり、このフランスがロシア側にたって参戦したら、イギリスがフランスを背後から攻撃するよ、という頼もしい同盟です。

同盟締結から2年後、日本の命運をかけた日露戦争が勃発します。