1812年、ついにフランス軍は未曾有の60万人を動員して、ロシアへの侵攻を開始します。
前回のまでの記事はこちら↓
ナポレオンとドイツその1:フランス革命とナポレオン戦争の開戦
ナポレオンとドイツその2:エジプト遠征とアウステルリッツの会戦
ナポレオンとドイツその3:神聖ローマ帝国の滅亡とライン同盟~半島戦争
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ロシア遠征と焦土作戦
フランス陸軍は当時最強でした。そして、ロシア軍はそのことを熟知しています。彼らはすでに、アウステルリッツの戦いなどで、思う存分痛い目にあっているからです。
「彼を知り己を知れば百戦殆うからず」
孫氏の名言です。ロシアの将軍、クトゥーゾフは相手が強く、自軍が弱いことを知っていました。知っていたからこそ、ナポレオン軍がロシア領土を破竹の勢いで進撃するのを黙って見守っていたわけです。
彼らロシア軍の目的は、自国を守ることです。そのために多少の犠牲が出ることはやむをえません。というわけで、俗にいう「焦土作戦」をロシア軍はつかいます。兵力の温存と退却を繰り返し、次第に相手の兵站が伸びきるのを待つ戦略です。
ナポレオン軍は60万人ですので、当然60万人分の食料と水と武器、それに加え馬を飼育するための莫大な餌が必要です。これをロシアで現地調達するのは不可能なので、ナポレオンは本国から送らせますが、ロシア深くに侵攻すればするほど、鉄道など無い時代、当然補給は難しくなるわけで、その補給部隊を狙ってゲリラやコサック騎兵が襲撃を仕掛けます。
6月に始められた遠征も、ナポレオン軍がモスクワに到達するころには9月になっていました。さすがにナポレオンもモスクワに来れば食料が調達できるだろうと考えますが、ロシア軍はモスクワを焼却、フランス軍には小麦の一粒もやらないように徹底的に自国を破壊します。
モスクワは当時のロシアの首都ですので、これを占領すれば戦争は終わると思っていたのかどうか知りませんが、ナポレオンはサンクトペテルブルグの皇帝に降伏勧告を出します。これが9月の出来事。ここから、ロシア側はのらりくらりと回答を伸ばします、待てば待つほど自国に有利になる状況を知っていたからです。冬将軍の到来です。
結局1か月ほど待っても音沙汰がないので、ナポレオンは本国へ帰還することを決めます。戦争で一番被害が出やすいのは撤退時だとよく言われていますが、今回も撤退は困難を極めました。もともと、占領地の兵士なども混じった混成軍ですし、フランスのためにロシアで死ぬつもりのない兵士が大半です。すでにモスクワの段階で60万の大陸軍は、10万程度にまで減少していました。
出典:http://www.history.com/news/napoleons-disastrous-invasion-of-russia-200-years-ago
ナポレオンの撤退の開始とともに、コサック騎兵の追撃が始まります。さんざん自国を荒らしておいて、自分だけ逃げだすとは甘い、と容赦のない攻撃がフランス軍を追い詰めます。ロシアで11月といえばすでに雪が積もるころで、食料もないナポレオン軍は飢えと寒さとゲリラによる攻撃で壊滅します。
こうなると、すでに軍隊としての体をなしません。相手と戦うことよりも、食べ物を補充すること、寒さから身を守ることが重要になってきますので、戦意もなにもありません。12月、フランス軍が本国に戻るころには、開戦時に60万だった兵力は5000人に減っていたと言われています。
ナポレオンの没落とその後
先の半島戦争とこのロシア遠征でナポレオンの権威は失墜しました。外交の基本は相手に舐められないことです。現在、落ち目のナポレオンを見る限り、諸国はこれを見限るのは今だと判断したのです。
まず、先の条約で国土をがっつり削られたプロイセンがナポレオンに反逆し、やはり長年ナポレオンにやられっぱなしだったオーストリアもこれに続きます。ナポレオンはこれらをなんとか破りますが、それでもロシア、プロイセン、オーストリア、スウェーデンは頑強にナポレオンへの攻撃を続け、1813のライプチヒの戦いでついにナポレオンは敗北します。
この期におよび、ナポレオンがドイツ西部に作り上げたライン同盟が崩壊、ドイツ諸侯は反ナポレオン側につき、今までとは打って変わってナポレオンを追い詰めます。
さらに、イギリス軍が南部からもフランス本国に迫り、すでに連戦続きで余力のないフランス軍はついに降伏を決意。ナポレオンはエルバ島に島流しにあいます。ナポレオンがそこそこの人物であったのなら、おそらくこの一回目の島流しで満足し、島の領主として幸せに余生を全うしたのかもしれません。しかし、彼の野望は大きすぎました。
自分のあとを継いだルイ18世の評判が芳しくないことを聞きつけ、島を脱出してフランスに舞い戻ってきます。ナポレオンの100日天下とワーテルローの戦いです。
最初の記事でも取り上げたとおり、ナポレオンは士官学校時代、もっとも人気のない砲兵化を選択し、砲術を突き詰めたうえで皇帝の座まで上り詰めました。彼の華々しい戦歴は、砲術とともにあったと言えます。この日、ワーテルローの戦いの朝まで、戦場は雨が降っていました。戦場は雨でぬかるみ、砲兵の機動力は一気に低下します。
ナポレオンが皇帝の座まで上り詰めるとき、あらゆる運がナポレオンに味方しましたが、この下り坂の局面では、逆にすべての物事が不運に転じます。ナポレオン軍は当初、プロイセン軍を撃破し、これを追撃すべくナポレオンは部下に追わせます。ところが、ワーテルローの戦場に到着したのは追撃を終えたナポレオンの部下ではなく、壊滅し、逃走したはずのプロイセン軍でした。この追撃を命じなければ、部下が道に迷わなければ、ワーテルローの結果は異なったものになっていたかもしれません。
(Battle of Waterloo, William Sadler)
どっちみち、四方八方に敵をつくっていたナポレオンは、ワーテルローの戦いに勝利したからといって、フランスを再び欧州の盟主の座につかすことは難しかったでしょう。それでも、今まで戦場を華々しい戦術で彩ってきたナポレオンは、最後には惨敗を喫し、今度は二度と戻ってこれないようにセントヘレナという遠い遠い島に島流しになります。
ナポレオン戦争は多くのことをヨーロッパにもたらしました。名ばかりの神聖ローマ帝国は解体され、ドイツにナショナリズムの萌芽が見え始めます。初代ドイツ皇帝のヴィルヘルム1世はナポレオン戦争に参加し、鉄十字章を得ています。また、ワーテルローの戦いの2か月前には、のちにドイツ帝国を作るうえで重要な登場人物となるビスマルクがこの世に生を受けています。
ドイツ統一がなされたのは1871年。ワーテルローの戦いから56年後の出来事です。