第一次世界大戦後のワイマール体制下の経済とナチスの台頭

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Hitler’s movement has been lifted to victory by 17,000,000 desperate people; it proves that capitalist Germany has lost faith in decaying Europe which was converted by the treaty of Versailles into a madhouse but was not provided with strait jackets.

「ヒトラーへの熱狂は、絶望に駆られた1700万人の大衆によって巻き起こされたものだ。この事実は、資本主義国家としてのドイツが、すでに腐りはてたヨーロッパへの信頼を失ったことをしめす。ドイツは、ベルサイユ条約によって拘束服を着用せぬまま、狂気の館へと変貌を遂げた。」by トロッキー

何かが発生する際には、基本的には何か原因が伴うものです。第二次世界大戦の原因は「1939年のドイツによるポーランドへの侵攻」ですが、そこに至るまでには紆余曲折がありました。

なぜドイツはポーランドに侵攻したのか?なぜドイツは軍国主義に舵を切らなければいけなくなったのか?こうしたなぜを突き詰めていくと、ベルサイユ条約や第一次世界大戦、もっとさかのぼれば普仏戦争や神聖ローマ帝国、ドイツ騎士団の話にまで遡ることになります。

そこまで遡らなくとも、最低でも「第一次世界大戦後の世界の状況」さえ押さえておけば、ある程度の世界史の流れは見えてきます。今回は、そんなベルサイユ条約から世界大恐慌、第二次世界大戦までのドイツの流れをダイジェストで見ていきたいと思います。

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ナチスの台頭とベルサイユ体制

まずは、ドイツでナチスことNationalsozialisumsが台頭するまでのヨーロッパの流れを見てみましょう。このナチス台頭までの流れは、そもそも1914年に勃発した第一次世界大戦と切っても切り離せません。

第一次世界大戦で、ドイツはロシア、フランス、イギリス、アメリカを敵に回しながらも奮戦していましたが、ついに国内での反乱も相まって、降伏を余儀なくされます。ここでのポイントが、第一次世界大戦では、第二次世界大戦のような空爆もありませんでしたし、ドイツ国内への連合軍の侵攻もありませんでした。

むしろ、第二次世界大戦と違い、敗戦の半年くらい前までドイツは戦局を有利にすすめていました。東部戦線ではロシアが革命によって崩壊、ドイツ軍はフランスに軍隊をフル動員し、パリまであと少しのことろまで迫っていたのです。というわけで、ドイツ国内の被害は限定的で、国民としてはなんで負けたのか分からい、といった状況でした。この敗戦の原因をドイツ革命に見出したいナチス党はのちにこれを「背後からの一撃」と形容します(つまり、ドイツが弱かったから負けたのではなく、卑劣な市民の裏切りによって敗れたのだと)。

第一次世界大戦の終結とドイツ革命

にもかかわらず、ドイツに課せられたのは連合軍による多額の賠償金と屈辱的な軍事的制約でした。この、ドイツへの戦後賠償は、隣国であるフランスがかなり気合を入れておこなっており、ルール占領など、長らくドイツをいじめにはいります。普仏戦争以降、ドイツに苦汁を舐めさせられ続けたフランスにとっては、ドイツには二度と起き上がってほしくなかったのです。

In eine nahezu ausweglose Krise geriet die Weimarer Republik, als nach einer geringfügigen Verzögerung der deutschen Reparationsleistungen französische und belgische Truppen am 11. Januar 1923 das Ruhrgebiet besetzten.

『フランスとベルギーの軍隊が、1923年の11月、取るに足らない賠償金の支払いの遅れによってドイツのルール地方を占領した時には、ヴァイマール共和国(ドイツ)は袋小路に陥っていた。』

これが俗にいうルール占領です。ちなみに、この時の常軌を逸した額の戦後賠償は経済学者のケインズによって非難されており、ケインズは第二次世界大戦後(中)のブレトン・ウッズ協定で、このときの教訓(ドイツをいじめてナチスが台頭した)を踏まえて新しい戦後の経済プランを考えています。

この時期の混乱は歴史の教科書などでも有名ですが、戦後の賠償金により絶望的なインフレーションがドイツ国内を襲い、卵一個買うのに何万枚ものお札を荷馬車に詰めて持って行かなくてはいけない、という笑えないジョークのような写真などが見受けられます。第一次世界大戦後のドイツはまさに混沌としていました。

子供たちは栄養失調に苦しみ、国内の自殺率は歴史上類を見ない異常な値を示します。年金受給者の暮らしはインフレの影響で破綻し、暖房代どころか食事代も払うことができません。

また、30人以上殺してカニバリズムを行ったカール・デンケや、ハノーファーで24人の男を快楽目的で殺戮してまわったフリッツ・ハールマン、強姦と殺人を繰り返したフリードリッヒ・シューマンなどみなこの第一次世界大戦後の混乱期に事件をおこしています。このころのドイツ国内は悪鬼羅刹のごとくシリアルキラーが蠢めく、まさしく世紀末の様相でした。

それでも、ドイツは賠償金も支払いつつ、持ち前の産業力を生かして経済の立ち直りに勤めます。1920年代後半には、早くもドイツ経済は復興の兆しを見せ始めていました。ただし、ここで更なるアクシデントがドイツ経済を襲います。1929年の世界恐慌です。

世界大恐慌の発生

アメリカのウォール街を発端に発生した恐慌は、世界経済を奈落のどん底に叩き落しました。1918年以降かろうじて平和を保っていた世界も、これによって戦争への坂道を転がり始めます。ではなぜ、遠いアメリカで起きた恐慌がドイツや世界の経済をこうも破滅させたのでしょうか?

それを知るには、当時の世界経済の状況をやや描写する必要があります。第一次世界大戦はイギリス、フランス、ドイツなどヨーロッパの先進国を中心に戦われた戦争でした。彼らの4年に及ぶ総力戦の結果、欧州の産業、経済はずたぼろになります。

そんなヨーロッパの状況をしり目に台頭し、世界経済の覇者として新たに君臨したのがアメリカでした。アメリカは、第一次世界大戦ではイギリス、フランスへ多くの借款を貸し付け、かつ軍需の輸出で大儲けします。

詳しい説明は別の記事に譲りますが(詳細は本記事末の「アメリカの経済構造から分析する世界大恐慌の原因」の記事リンクを参照ください)、第一次世界大戦後のアメリカは、これまでにないような好景気に見舞われ、市場にはマネーがじゃぶじゃぶ溢れかえる状況になります。

アメリカで溢れかえったマネーは、流れ流れてヨーロッパの復興需要にも充てられるようになり、これが欧州の市場を潤します。つまり、当時の世界経済は、アメリカに依存している状況でした。

この状況で、アメリカの歪な好景気が破裂します。これによって今まで欧州を潤していたアメリカマネーも引き潮のように流れ去ってしまい、欧州経済も絶望的な状況に陥ります。

さて、ここで各国は自国の経済、産業を守るための努力をします。アメリカのニューディール政策、イギリス・フランスのブロック政策、などなど。ところが、イギリス・フランスのおこなったブロック政策は、いわゆる彼らのように広大な植民地帝国を保持して初めて可能な芸当でした。遅れて列強入りした日本や、植民地を持たないイタリア、第一次世界大戦で植民地を失陥したドイツらは、このブロック経済政策を真似したくても真似できません。

Anfang 1931 waren in Deutschland bereits fünf Millionen Menschen als arbeitslos registriert. Das soziale System der Weimarer Republik war den Folgen der Wirtschaftskrise nicht gewachsen. Verelendung, Resignation und eine allgemeine Katastrophenstimmung prägten das Alltagsleben von breiten Bevölkerungsschichten.

『1931年初めのドイツ国内における失業者はすでに500万人にものぼった。ワイマール共和国(ドイツ)の社会システムは、この危機的状況に到底太刀打ちできるものではなかった。零落、諦念、そしてあらゆる破滅的なムードが、この時期のドイツ国民全体に広がっていた。』

この時期、ドイツは最後のあがきとして独墺関税協定を成立させようとしますが、ここで再びフランスが反発してオーストリアの融資を引き揚げ、ドイツおよびオーストリア経済の命運は尽きることとなります。というわけで、第一次世界大戦から第二次世界大戦までで、フランスは相当の恨みをドイツから買ってしまいました。ドイツも普仏戦争でフランスの恨みを買っていたのでお互い様ですが。

こうした混沌とした状況の中、ドイツは共和体制を維持できなくなり、ついには1933年のかの有名なナチス党による『政権掌握』を迎えます。ナチスの台頭は単に自然発生的なものではなく、このように、第一次世界大戦後のフランスによる報復と、世界の経済事情などが折り重なって生まれたものです。

ナチスの台頭と戦前のドイツ経済

国民にとっては、すでに共和政は破綻したも同然の制度でした。ほとんど全国民が分けのわからない賠償金の支払いやら、世界恐慌やら、連合国の理不尽な仕打ちに耐えてきたわけですので、ナチスは新しい救世主としてえらくもてはやされました。

ここからのナチスの政策に関しては、諸説あります。例えば、反ユダヤ(経済市場からのユダヤ人の締め出し)・過度のナショナリズムなどです。ユダヤ人への迫害は、単に自国民意識高揚のデモンストレーションだと言う専門家もいます。

第一次世界大戦とその後の戦後賠償で失ったプライドを取り戻そう、という反動ではないでしょうか。この辺で、どこからともなく『アーリア人』という概念が登場し始めますが、そもそも最近では、生物学的にアーリア人、という概念自体が胡散臭いと言われています。

この時期の経済政策、労働政策としては、公共事業にとにかく労働者を雇用しよう、というもので、表面的にこれでドイツの労働状況は大幅に改善しました。

Massive Rüstungswirtschaft und vorgeschriebene Arbeitsdienste senkten die Zahl der Erwerbslosen von sechs auf knapp eine Million 1937. Die “totale” Durchdringung von Wirtschaft und Gesellschaft durch Wirtschaftslenkung und Zwangsorganisation der Arbeiter und Angestellten diente noch einem anderen Zweck: Sie schuf die Voraussetzungen für den geplanten Krieg.

『ナチスの大規模な軍備と労働奉仕は、1937年にはドイツの失業者の数を600万人から100万人以下に改善させた。もっとも、経済統制と労働者・勤労者の強制的な編成の社会と経済界への徹底には、別の意味が込められていた。すなわち、戦争への下地作りである。』

後から世界史を振り返ればなんとでも言えますが、めちゃめちゃな経済状況の中、失業者を600万人から100万人に軽減できる政党が現れたら、どこだろうともてはやされると思います。

この時期のナチスの経済政策については、賛否両論あります。軍需拡大やアウトバーン創設によって多くの雇用を創出し、大恐慌からの脱出に一役買った、と言う人もいますし、雇用創出はあくまで表面的なもので、構造的にドイツ経済は限界に来ており、それが戦争の引き金になった、というものです。

なんにせよ、表向きだけでもどん底のドイツ経済が復興して見えたのは事実であり、この際、ナチス党がドイツ国民の救世主のように映えたのではないでしょうか。同時期、日本でも経済的な行き詰まりから、五・一五事件(1932年)、二・二六事件(1936年)などが立て続けに起こり、軍部の暴走を抑えられない分水点に達していました。

この時点で、恐らくナチスドイツにも、日本にも、引き返す道は無かったと思います。戦争を正当化するつもりはありませんが、仮に日独を、戦争を始めたという理由で倫理的に「悪い国」だと糾弾したいのであれば、子供が栄養失調で飢えて苦しむさまを、家族がわずかな金のために売春婦になり下がることを、生まれたての赤子を貧困を理由に口減らしする状況を、黙って見過ごすことが、果たして「良い」ことだったのでしょうか。

国家の目的は、世界平和を守ることではなく、「国民を飢えさせないこと」です。そして、国内では職を失った人々が飢えと貧困に苦しんでいる以上、彼らは家族同然の国民を守るために、もはや外に向かって破滅的に膨張するしかありませんでした。

第一次世界大戦終戦からわずか20年後、ついに膨れ上がったドイツ国民の不満が炸裂するかのように、ドイツ軍はポーランドに侵攻を開始します。ドイツと日本にとって悲惨の一言に終始する第二次世界大戦が勃発しました。