第一次世界大戦とドイツその5:ロシア革命とブレスト=リトフスク条約

So, with the crash of artillery, in the dark, with hatred, and fear, and reckless daring, new Russia was being born.”
― John Reed, Ten Days that Shook the World

「大砲の炸裂する漆黒の闇の中、憎しみと恐怖と、そして向こう見ずな勇気とともに、今、新しくロシアが生まれようとしていた」世界を揺るがした10日間 ジョン・リード

東部戦線でドイツ軍と対峙する強大なロシア帝国は、内部から崩壊しようとしていました。

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ロシア革命の下地

もともと、ロシア帝国は皇帝崇拝の思想のもとに保たれていた国でした。要するに、皇帝は民衆の味方であり、どんなに苦しいことがあろうとも、皇帝だけは私たち労働者を救ってくれると、いわば現人神のような尊敬の念を持たれていました。

ところが、1905年、第一次世界大戦勃発から遡ること10年前、日露戦争も終盤に差し掛かるころ、サンクトペテルブルグでこのロシアの屋台骨を揺るがす事件が勃発します。民衆のデモを皇帝側が武力で弾圧した、血の日曜日事件です。

12.000 Soldaten hatten Stellung bezogen, um den Marsch zu unterbinden. Sie eröffneten das Feuer, töteten etwa 200 Menschen und verletzten 800 weitere. Das Entsetzen über die Gewalt war ungeheuer. “In diesem Augenblick war der Mythos vom guten Zaren endgültig zerstört”, sagt Historiker Figes.

http://www.stern.de/politik/ausland/russische-revolution–auf-das-lange-siechtum-der-monarchie-folgt-der-zaehe-siegeszug-lenins-7412358.html

「12000人の兵隊が、彼らのデモを阻止するために徴収された。彼らは民衆に向かって発砲し、200人の民衆が死亡し、800人がケガをした。この暴力による民衆のショックは大きかった。”この瞬間、皇帝は民衆の味方だという神話が打ち砕かれた”」

このデモ隊は、あくまで平和的なもので、民衆は非武装でした。戦争によって苦しんでいる民衆を、貧困の現状を、われらの救世主であるはずの皇帝に知ってもらおう、という名目のもとで行われたものでした。にも関わらず、帝国側は無情にもこの非武装の民衆に向かって発砲、民衆の300年間抱き続けたロシア皇帝への幻想は、この銃声とともに覚まされることとなります。

それから10年後の第一次世界大戦、ロシアの状況は日露戦争当時と変わりません。指導部の無茶な作戦により、バタバタとロシア兵が全線で死んでいきます。物資は徴収され、生活必需品の値段は高騰、民衆の生活は限界に達していました。

ところが、国内政治を取り仕切っているのは、どこの馬の骨か知らない怪僧ラスプーチンと、その彼と姦通の噂まである、敵国ドイツから嫁いで来た妃アレクサンドラです。すでに、帝国の権威は落ちるところまで落ちている状況でした。

ラスプーチン

この相次ぐ敗戦と、政治の腐敗により、ロシア帝国はもはや内と外から崩れかけた建物のようになっていました。ついに民衆の限界が飽和点を迎え、起こるべくして起きたのがこの1917年の2月革命です。

2月革命と10月革命

1917年2月、いよいよ戦争の影響で食料が手に入らなくなった市民により、サンクトペテルブルグでパンを求めるデモが発生、これが次第に収集のつかないほど大きくなっていったことが発端です。ここで、警官が市民に向けて発砲したものだから、事態は一層混乱、デモはモスクワなど他の大都市にも飛び火していきます。

革命時の赤の広場

帝国の持つ貧困と労働者という歪な社会構造が、結局、内側から腐りきった帝政の屋台骨を打倒することとなりました。この混乱を抑えることができず、ニコライ2世は退位を求められ、ロマノフ王朝は300年の歴史に幕を閉じます。

この混乱の最中でも、ロシアの臨時政府は戦争を継続させますが、レーニンなどの指導により、今度はボリシェヴィキによる労働者のためのソビエト革命(10月革命)が発生、ロシア国内はさらに混乱を極めます。また、この混乱の最中で、ニコライ2世は家族もろとも処刑され、ニコライ2世の血筋はこの世から消滅しました。

Der britische Historiker Orlando Figes fasste die Ideen von Nikolaj und der letzten Zarin Alexandra so zusammen: “Es war ihre Tragödie, dass sie just in dem Moment, als Russland ins 20. Jahrhundert eintrat, versuchten, es ins 17. Jahrhundert zurückzubringen.”

http://www.stern.de/politik/ausland/russische-revolution–auf-das-lange-siechtum-der-monarchie-folgt-der-zaehe-siegeszug-lenins-7412358.html

「イギリスの歴史家、Orlando Figesは以下のように要約する。”ニコライ2世とその妻アレクサンドラの悲劇は、この20世紀に差し掛かろうとしているさなかに、あろうことか、ロシアを17世紀に連れ戻そうとしたことだ”」

事ここに至り、ロシアはドイツと戦っているどころではありません。1918年から1922年にかけ、ロシア内戦が発生、ボリシェヴィキは国内の反革命勢力を相手に血で血を洗う戦闘を開始します。そんなわけで、ドイツにとって最も厄介な相手の一つであったロシアは、勝手に自滅しようとしていたのです。

ブレスト=リトフスク条約

ロシア帝国は廃屋のようにガラガラと音を立てて崩れ落ちようとしていました。まず、ウクライナがこの混乱に乗じてロシア臨時政府とボルシェビキの双方を国内から駆逐、11月には独立を宣言します。

ロシアとしてはウクライナが独立するのもまずいですし、さらにウクライナがドイツら中央同盟軍と手を結ぶとさらにとんでもないことになります。慌ててウクライナへの軍事介入を開始し、12月にはウクライナ・ソビエト戦争が勃発します。

ロシア・ウクライナ戦争時のキエフ

それと並行して、ボリシェヴィキは中央同盟軍との講和を画策します。上述の通り、国内の混乱によって、ロシアはもはやドイツとの戦争どころではありません。ところが、この期に及んでボリシェヴィキ指導者のレーニンは「まあ、お互いにいい戦いしたんだし、ロシアからドイツへの賠償も領土割譲もなしでいいんじゃない?」と非常に虫のよい条件をつきつけ、ドイツを激怒、というか呆れさせます。

ウクライナ・ソビエト戦争でウクライナを大半手中に収め、すでにウクライナはロシアに歯向かう気力はないだろう、とたかをくくっていました。この虫のよすぎる交渉に業を煮やした中央同盟軍は、ウクライナと単独講和、ウクライナを味方にロシアへなだれ込みます。

ロシア側は、油断していたのか、そもそも国内の混乱でそれどころではなかったのか、条約の交渉中だからドイツ軍は進撃してこないと思っていたのか、どうだか知りませんが、この中央同盟軍・ウクライナの反撃に全く対応できず、ミンスクを失陥、サンクトペテルブルグ近くまで中央同盟軍の侵攻を許す形となります。今までの膠着がなんだったのか、と思うくらいの、まさに、竹を割るかの如く進撃です。

レーニンはここに至り、ようやく慌てて中央同盟軍との停戦交渉を再開、誰がどう見てもボロボロのロシアがここから巻き返すような状況には見えませんので、歴史上稀に見るような一方的な条約が中央同盟軍とロシアの間で結ばれ、ロシアは広大な領土を失陥し、挙句の果てに賠償金の支払いも命じられます。この条約を「ブレスト=リトフスク条約」と言います。

ドイツが割譲した地区

これにより、熾烈を極めた東部戦線は終結します。これより以降は、連合軍によるロシア革命の介入であったり、ロシアとウクライナの戦争の再開であったりと、本大戦と関係がなくなるので詳細は割愛します。皮肉なことに、フランスを片づけてからロシアを片づける、というシュリ―フェンプランとは真逆に、先にロシアのほうが片付いてしまいました。

大戦のクライマックスが近づいています。これで、ドイツ軍は東部戦線に展開していた大部隊を西部戦線に送り込むことが可能になるはずでした。

ところが、条約的にはドイツ側の圧勝だったのですが、戦略的に見ると、少し勝ちすぎました。というのも、割譲されたロシアからの領土を保持するためには、そこに兵士を駐屯させ、現地の治安維持にあたらせる必要があります。ボードゲームのように、相手から勝ち取った領土が無条件で自国のものになるわけではありません、むしろそれを維持することのほうが厄介なのです。

というわけで、ドイツ側は、確かに西部戦線に兵士を送れる余裕ができたものの、すべての兵士を一気に、というわけにはいかず、輸送はあくまで限定的なものでした。100万の兵士が、この獲得した領土を保持するために、東部戦線に残されたのです。

この東部戦線に氷づけになった100万の精鋭ドイツ兵士が西部戦線に現れなかったことが、ドイツ帝国の最後の命運を定める「春季攻勢」に、ひいてはこの大戦自体の帰結に大きく影響してきます。