ナポレオン戦争当時、ドイツは現在のような統一国家ではなく、分断された共同体の集まりでした。それが、ナポレオン戦争後のナショナリズムの高揚により、1871年統一されることになるわけです。
ナポレオン戦争時代を、プロイセンの軍人たちはどのように戦い抜いたのでしょうか?今回は、その半世紀後にドイツ統一に至る足がかりを作り上げた誇り高いプロイセン軍人について見ていきたいと思います。
ナポレオン戦争全体の流れに関しては以下の記事を参照ください。
ナポレオンとドイツその1:フランス革命とナポレオン戦争の開戦
ナポレオンとドイツその2:エジプト遠征とアウステルリッツの会戦
ナポレオンとドイツその3:神聖ローマ帝国の滅亡とライン同盟~半島戦争
ナポレオンとドイツその4:百日天下・ナポレオン戦争の終焉とドイツへの影響
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ナポレオン戦争時のプロイセン
ナポレオン戦争勃発以降、フランス軍はオーストリアやロシアを破り、じわじわとその勢力を拡大していきました。特に、1805年に行われたアウステルリッツの戦いで、ナポレオンはロシア・オーストリア連合を完膚なきまでにたたき、オーストリアはその結果対仏同盟から離脱、プロイセンの西側にナポレオンの傀儡国家であるライン同盟が誕生しました。
このことは、プロイセンに危機感をもたらします。すぐそばに親フランスの国家がいきなり誕生したことで、プロイセンは地理的に危うい立場に陥ることとなりました。このことから、プロイセンはフランスに敵対することを決意、イギリスやロシアなどと第四次対仏同盟を結びます。
イエナ・アウエルシュタットの戦いと前進元帥ブリュッヘル
ドイツ、テューリンゲン州にイエナという小さな町があります。人口10万人程度の都市ですが、そこには開校から450年を誇るイェーナ大学があり、由緒正しい学問都市でもあります。
1806年、第四次対仏同盟が締結されると、この小さな学問都市イエナの近郊で、プロイセンの命運を決める戦いが繰り広げられました。「イエナ・アウエルシュタットの戦い」です。
フランス軍9万、プロイセン軍5万と、イエナではもともと数的にもプロイセンが劣る戦いでしたが、アウエルシュタットという別の地域での戦いでもプロイセン軍は数的優位を覆されて壊滅、結局、プロイセン軍は算を乱して敗走していきました。
その中でも、プロイセン軍人としての維持を見せ、撤退しながらもフランス軍に抵抗し続けた軍人たちがいました。シャルンホルストはリューベックで、グナイゼナウはマルデブルグで最後まで抗戦し、弾薬が尽きたところでようやく降伏します。
そしてもう一人、アウエルシュタットの戦いで敗れたのち、ちりぢりの軍隊を撤退させ、盟友シャルンホルストとともにリューベックで徹底的に戦い抜いた軍人がいました。彼こそが、ワーテルローで最終的にナポレオンを一敗地に塗れさせることとなる不屈の将軍、ブリュッヘルです。
Seine russischen und preußischen Soldaten der Schlesischen Armee nannten ihn wegen seines stürmischen, militärischen Vorgehens “Marschall Vorwärts”.
「彼のシレジア軍のロシア、プロイセン兵士たちは、彼の嵐のような行軍にあやかって、彼のことを”前進元帥”と名付けた」
彼はもともとプロイセンの生まれではありません。当時スウェーデン領で生まれましたが、プロイセン軍に捕虜になったのち、プロイセン軍に身を投じています。
ナポレオンの進撃とティルジットの和約
ナポレオン戦争当時、プロイセン軍は職業傭兵を使っており、フランスのように民族意識はありません。それゆえ、忠誠心も高くなく、戦争に敗れれば兵隊はちりぢりになります。
イエナ・アウエルシュタットの戦いに敗れると、プロイセン全土はフランスの支配下に置かれますが、当時のプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世はケーニヒベルグに向かい、ロシア軍とともにフランス軍を迎え撃つ準備をします。
上述のブリュッセル、シャルンホルスト、グナイゼナウも、国王の待つケーニヒベルグまで駆け付け、ともにフランス軍に対し抗戦する覚悟で臨みました。
(写真出典:wikipedia)
そんな中、ロシア・プロイセン連合と常勝ナポレオン軍の間に発生したのがアイラウの戦いです。今までオーストリア、プロイセン、ロシアを相手に連戦連勝だったナポレオンですが、ここではプロイセンの名将シャルンホルストの活躍で、危うく負けそうになります(最終的に援軍が到着したため痛み分けに終わっていますが)。
このことは、プロイセン軍人の間に、ナポレオンは決して無敵ではないことを知らしめました。
その後のフリートランドの戦いでナポレオンは再び圧勝し、結局プロイセンは屈辱的なティルジットの和約を結ばされ、これにより、プロイセンは大幅に領土を縮小させ、国力は一気に低下することとなります。
しかし、アイラウの戦いでプロイセン軍がナポレオンに一矢報いたことは大きな自信となりました。
プロイセンの軍制改革
臥薪嘗胆の故事の表す通り、古来、戦争に負けて国が強くなった例はいくらでもありますし、その逆もしかりです。当時のプロイセンも、まさにこの状態でした。フランスに大きく国土を削られ、軍隊は消耗し、ボロボロの状態です。しかし、国が存在している限り、負けではないのです。
ナポレオンがポーランド夫人マリア・ヴァレフスカを愛人にし、大陸封鎖令をひいて公私ともども絶頂の最中にいる最中、プロイセン軍人たちは淡々と復讐の刃を研いでいました。
(写真出典:wikipedia)
まず、プロイセンのおこなったのは「敗因」の研究です。フランス軍にあってプロイセン軍になかったもの、なぜ数に勝るアウエルシュタットで敗れたのか、こうした原因をドイツ人お得意の「批判的」な目線でもって研究し尽くします。
この中で上述のシャルンホルストによって作られたのが「参謀本部」です。シャルンホルストは家柄の低い家の出身で、それゆえ出世も難しい立場にいたのですが、そんな身分の差別など気にしない、前進元帥ブリュッヘルの抜擢などもあり、軍制改革を行う立場に任命されました。
この軍制改革には、第四次対仏大同盟で最後までフランスに徹底抗戦を行ったグナイゼナウや、のちに「戦争論」で有名になるクラウゼヴィッツなども含まれていました。この中で、プロイセン軍に「参謀」の設置や、平民からの徴兵制度などが決められることとなり、のちのプロイセン軍の躍進に繋がっていきます。
ところが、そんな軍制改革をおおっぴらにやっていたので、ついに有頂天のナポレオンもプロイセンが次第に力をつけ始めていることに気づき、ストップをかけます。彼にとってはプロイセンが強大になってしまっては困りますので、ヴィルヘルム3世を恫喝しました。
結果、ヴィルヘルム3世はシャルンホルストらに軍制改革をストップするように言い渡しました。シャルンホルストらは当初、フランスを見限ってロシアを同盟することを国王に進言します。彼らは自分たちの行った改革に自信がありました。ロシアと手を結べば、今ならフランス軍を叩ける、俺たちに任せてくれ、と。
しかし、国王の意思が変わらないことを知ると失望します。シャルンホルスト、グナイゼナウ、ブリュッヘルなど改革派はその地位を追われ、一部の将校は亡命したり、ロシア軍に身を投じたりしてナポレオンと戦うことにします。
こうして1812年、同盟国であるプロイセン軍を道連れに、ナポレオンを破滅に追い込むロシア遠征が始まりました。
続き↓
ナポレオン番外編その2:プロイセンの反撃とワーテルローの戦い