哲学に大きな影響を及ぼした精神分析の父、フロイトの生涯と思想

Freud

Es ist, wie man merkt, einfach das Programm des Lustprinzips, das den Lebenszweck setzt. Dies Prinzip beherrscht die Leistung des seelischen Apparates vom Anfang an..  (Das Unbehagen in der Kultur, Sigmund Freud)

「人生に目的をもたらすのは、ただ快感原則のプログラムによるものなのだ。この原則は、魂の乗った機械である我々を奴隷のように支配する」(文化への不満、ジークムンド・フロイト)

19世紀後半、勃興するドイツの影で、オーストリア=ハンガリー帝国は国家としての落日を迎えようとしていました。ろうそくの最後の灯が輝くように、ウィーンでは、芸術や思想の近代でも稀に見る興隆が起きていました。

ホフマンスタール、シュニッツラー、クリムト、など名だたる詩人や画家がこの当時のオーストリアで活動をし、世界史に名を残す作品を世に出しています。こうした諸芸術、文化の華々しい潮流は、その都市の名前にあやかって、ウィーン世紀末芸術と名付けられました。

フロイトが、精神分析学と名付けられた、人間の魂の存在自体を問うことになりかねない学問を発見したのは、ちょうどこの、ウィーンに退廃的な芸術のムードが横行している頃でした。彼の思想は国境を越え、世界の思想史・芸術・文学などに、多大な影響を与えることとなります。

スポンサーリンク

フロイトの生い立ち

厳密に言えば、ジークムント・フロイトはドイツ生まれではありません。1856年、当時のオーストリア帝国のモラヴィアでユダヤ商人の息子として生を受けました。また、同時期、のちに現象学で世界の思想史に大きな影響を与えるフッサールもユダヤ人の息子としてオーストリアに生を受けています。

1860 zieht die Familie nach Wien, wo Freud 1865, ein Jahr früher als üblich, auf das Gymnasium kommt, das er im Alter von 17 Jahren mit Auszeichnung abschließt.

「1860年、彼の家族はウィーンに引っ越し、1865年には、通常より一年早い年齢でジークムントはギナジウムに入学、17歳のときに顕著な成績で卒業する」

この、若い年代から、フロイトは将来の科学者としての片鱗を見せ始めていました。また、彼は文学なども嗜む青年であり、文章に関する読解、および叙述はすでにこのころからお手の物だったと言われています。そして、この若き秀才は、17歳にしてウィーン大学の門をたたきます。

ここで、彼は生理学を学び、特に脳の構造と、心理学を結びつけるような研究をしています。結局、彼はこの脳科学の道からは遠ざかることになりますが、彼はこの時、科学的な手法、思考方法を身に着けたと言われています。

1876 tritt er in das physiologische Laboratorium von Ernst Brücke ein, wo er bis 1882 tätig ist. In diesem Jahr lernt er Martha Bernays kennen und verlobt sich kurz darauf mit ihr. Ohne Aussicht auf eine schnelle wissenschaftliche Karriere entschließt er sich, auch im Hinblick darauf, seiner zukünftige Frau ein gut versorgtes, bürgerliches Leben bieten zu wollen, zur Eröffnung einer Privatpraxis.

「1876年以降、彼はErnst Brückeの研究室に1882年まで勤めることとなる。この年、また、彼はマルタ・ベルナイスと知り合い、すぐに恋に落ちることとなる。科学者として即座にキャリアアップすることが望めないと分かると、彼は、彼の将来の妻をよりよい条件で養っていくため、一般開業医として医院を開くことを決めた。」

この研究室時代に、彼は将来の妻であるマルタ・ベルナイスと知り合います。1883年以降、彼はしばらくウィーンの病院で働く傍ら、コカインの研究をし、1886年には、念願の彼の医院を開業すると同時に、このマルタ・ベルナイスとの結婚を果たしました。ちなみに、この10年後に生まれる娘のアンナは、父と同じく、のちに有名な精神分析学者となります。

1902 wird er zum ordentlichen Titularprofessor ernannt und sammelt erste Schüler um sich. Mit Alfred Adler, Max Kahane, Rudolf Reitler und Wilhelm Stekel wird die Psychologische Mittwochsgesellschaft gegründet, aus der 1908 die Wiener Psychoanalytische Vereinigung hervorgeht. Freuds Ideen und Schriften erfahren zunehmend öffentliche Anerkennung.

「1902年には、正規の教授としての肩書を得て、初めて生徒を集めた。このころ、アドラーなど他の心理学者らとともに、水曜会を設立し、そこから1908年にはウィーン精神分析協会が発足した。このころから、フロイトのアイデアは世に知られるようになっていった」

1890年ごろから、彼は精神分析学の本格的な研究に着手します。これはおそらく、彼のウィーン時代の専門である生理学の経験が生かされているのでしょう。

彼の研究の、そして精神分析学の目的は、生理学に着想を得たように、人間の心理を機械のように分析することでした。ここに、神の介在する余地はありません。彼曰く、人間は、「無意識に操られる魂を持った機械」なのです。

こうした彼の唯物的な思想は、のちに多くの問題をもたらします。例えば、ユングも当初フロイトの弟子として彼を支えますが、ユングの思想はやがて神秘論的な方向に傾斜していき、フロイトの機械論的な思想からは多くの離反者を出すようになります。

一つ、このころの面白い話で、ユングとフロイトが神秘論的な討論をしているとき、フロイトがユングに向かい、「そんなに神秘論を論じるなら、証拠を出せ」といったところ、ユングの後ろでポルターガイスト現象が起こり始めたとかいう、嘘か本当か分からない話も残っています。

要するに、フロイトのこうした神への冒涜ともとれる先鋭的な研究は、多くの批判者を生みました。また、フロイトの理論は、多くの部分で「性」と関連しており、特に、女児は男根を崇拝しているという極端な理論は男尊女卑であるとして、のちにカレン・ホーナイなどフェミニストによる批判を受ける原因になっています。

Beim Ausbruch des Ersten Weltkrieges 1914 nimmt Freud zuerst eine patriotische Haltung an, die sich aber bald, auch aus Angst um seine Söhne Martin und Ernst,
die sich freiwillig zum Kriegsdienst gemeldet haben, ändert.

「第一次世界大戦が勃発した当初、フロイトは愛国主義的な立場をとるが、彼の息子たちが自ら戦争に志願すると、彼らへの不安からか、その態度を変化させた」

20世紀に入り、ヨーロッパをめぐる歴史は着実に動き始めていました。1914年、サラエボ事件を皮切りに、第一次世界大戦が勃発します。第一次世界大戦は、近代戦争の悲惨さを凝縮したような戦争で、過酷な塹壕戦ではまるでトウモロコシの穂のように歩兵がパタパタと殺されていき、毒ガスなどによって兵士に多くの後遺症をもたらしました。

戦争神経症患者の写真

ヴェルダンとソンムの塹壕戦

戦後になると、フロイトはこうした過酷な戦場で精神を病んだ「戦争神経症」の患者を治療するようになり、戦争と死、というテーマの着想を彼は得ます。1920年に彼の表した「快感原則の彼岸」以降、彼の著作には死の欲動、すなわちタナトスの思想が色濃く表れ始めるようになるのです。

1920年以降は、彼にとって過酷であると同時に、彼の功績が認められた時代でもありました。1924年には名誉市民に選ばれ、1926年にはアインシュタインなど国内外の著名な学者からフロイトの70歳の誕生日を祝う祝電が届きます。

1931年には、ウィーン医師協会によってフロイトは名誉会員に任命され、彼の功績はこうして、国内外に認められるようになったのです。一方、オーストリアには戦争の足跡が近づき始めていました。

1933 übernehmen die Nationalsozialisten die Macht; der Bücherverbrennung im Mai fallen auch Freuds Werke zum Opfer.

「1933年、ナチスが政権を奪取した。5月に焚書が行われ、フロイトの作品たちも犠牲となった」

第一次世界大戦後の混乱期に、ナチスが台頭、1933年には政権を奪取します。「非ドイツ的」とみなされた書物たちはこのナチスの政権奪取に伴って焼かれることになり、ユダヤ人であるフロイトの作品もこの対象になりました。

ナチスの焚書

また、ナチスの魔の手はユダヤ人である彼の身自身にも迫ってきます。1938年にはゲシュタポによって娘が拉致される(その後解放された)という事件が起き、ついにフロイトはイギリスへの亡命を志します。

ここが、彼の最後の地となりました。最晩年の重要な書である『モーセと一神教』を書き終えた後、オーストリアに残る同胞ユダヤ人の過酷な運命を看取ることなく、かれは1939年、イギリスで息を引き取ります。

フロイトの思想と無意識

彼が現代思想に持ち込んだ最大の功績は、平たく言うと「無意識」の発見です。マルクスが資本主義上の剰余価値を発見したように、フロイトは人間の「無意識」という闇を発見しました。

この主張は、ダーウィンの進化論同様、これまでの宗教の見方からは逸脱した発見です。フロイトの言っていることがすべて正しいとすると、我々を操っているのは、機械的な『無意識』というシステムだということになってしまうからです。

簡単にかみ砕いたやり方で、「無意識」がどのように我々の行動に影響を与えるのか、見ていきましょう。

例えば我々がある重要な会議に出席しているとします。貴方は司会者です。とても緊張しています。皆の前でマイクをもって、これから『会議を始めます』と言わなければなりません。

そこで、あなたの口をついて出た言葉はなんでしょうか?あなたは、はからずとも『会議をはじめます』ではなく、緊張のあまり、『会議を終了します』と言ってしまいました。

フロイト曰く、これはあなたの『深層心理』だということです。極限の緊張状態にあって、あなたは自分さえも知らない『無意識』の望んでいる『こんな会議さっさと終えてしまいたい!』という感情が、とっさに出てしまったというのです。

むろん、無意識は『無』意識なので、我々には見えませんし、もちろん精神分析家にも見ることはできません。ただそれは、このような『言い間違い』や、あるいは『夢』のような自由連想の形をとって、我々にその姿を語り掛けてくる、というのです。

無意識を発見したフロイトは、その起源を幼少期に見出しました。幼少期、例えばあなたには怖い父親や、教育熱心な母がいました。彼らは、超自我という、自らを律する存在と化して、大人になってもあなたを無意識に支配しようとします。

またフロイトは、無意識を徐々に『性』に結び付けることに傾倒しはじめます。すなわち、女性の見る『馬』の夢は、男根の象徴であり、彼女は欲求不満である、と。

彼の極端な男根崇拝は、当然世の中の賛否を呼びましたし、幼少期の研究に関しても、いくつもの『虐待』の証言が、のちに虚偽や記憶違いであったことが判明しています。

彼の研究は、1世紀を経て数多くの批判にさらされ続けてきましたが、決してそのことは彼の功績をふいにするわけではなく、むしろそれだけセンセーショナルな発見だからこそ、こうして今でも多くの学者の議論の的になっているのです。

日本で読めるフロイトの本

フロイトの思想を手軽に理解する入門書です。

フロイトの前期の研究の焦点である、「夢」と「潜在意識」の関係についてまとめられています。

どちらかといえば、心理学というより哲学に近い内容で、精神分析入門のようなライトな入門書を読んでから取り掛かったほうが良いです。

フロイト最晩年の作品で、スキャンダラスな彼の作品の中でも、特に神を冒涜するレベルのスキャンダラスな内容です。

幼児期の自我の形成、そしてエディプス・コンプレックスや去勢コンプレックスなどの概念が登場します。