ナチス・ドイツの命運を分けた戦い:独ソ戦とバルバロッサ作戦

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今回は、ドイツ史の中でも特に人的被害が大きく、ドイツ敗戦の直接的要因ともなっている、「独ソ戦」についてまとめていきたいと思います。

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第二次世界大戦のハイライト:独ソ戦

歴史上多くの局地戦がありましたが、両軍合わせて2000~3000万人が死亡した大規模な戦役は、恐らくこの独ソ戦だけだと思います。結果的には、この独ソ戦での敗戦がナチス崩壊の原因となっていますし、逆にここで勝利を収めていれば、まったく違う未来が待っていたかもしれません。

第二次世界大戦前夜の外交的な動きに関しては、以下のコラムを参照してください。第一次大戦以降、多額の賠償金にさいなまれたワイマール体制下のドイツは、大恐慌後極度の軍拡路線に突き進み、ナチスが政権を奪取するに至ります。

第一次世界大戦で、ドイツはロシア、フランス、イギリス、アメリカを敵に回しながらも奮戦していましたが、ついに国内での反乱も相まって、降伏を余儀なくされます。ここでのポイントが、第一次世界大戦では、第二次世界大戦のような空爆もありませんでしたし、ドイツ国内への連合軍の侵攻もありませんでしたので、ドイツ国内の被害は限定的で、国民としてはなんで負けたのか分からい、といった状

そこから、欧州外交は日本も交えて二転三転します。まず、そもそも日本とドイツは枢軸国として、アメリカやイギリスに対抗した国と思われていますが、もともとは1936年にドイツと日本の間で結ばれた『日独反共協定』を見れば分かるように、反アメリカではなく、反共産主義(ソビエト)を標榜する同盟でしたし、ヒトラーも共産主義を毛嫌いしていました。ここで世界史でも有名なドイツ外相リッペントロップが登場します。

ところが、1939年、今度はドイツ外交は一転し、独ソ不可侵条約(Deutsch-Russischer Nichtangriffspakt)が締結され、世界を驚かせます。これにより、反共という名目は完全に崩れ去り、ドイツ第三帝国は単なるファシズムとしてみなされるようになります。この時点で、ドイツは日本、ソビエト、ドイツ、そしてスペインにまで連なる大同盟を模索していたともいわれています(実際に、ヒトラーはスペイン内戦でフランコ政権に肩入れをしていた)。

これは、一説にリッペントロップ外相のイギリス嫌いから生まれた構想であるともいわれていますが、定かではありません。更に日本とドイツの歯車はかみ合いません。ドイツは、独ソ不可侵条約を隠れ蓑に、すでに1940年ごろからソ連侵攻を画策していましたが、外交情勢に疎い日本は、1941年4月に日ソ不可侵条約を締結し、南方への進撃体制を整えます。

そして、ドイツが条約を破棄してソ連になだれ込んだのが1941年6月ですので、完全に歩調がかみ合っていません。300万人からなる未曽有の大兵力でもって、ついにナチスドイツの東方生存圏をかけた戦いが開始されました。

Am 22. Juni 1941 eröffnete das Deutsche Reich auf breiter Front zwischen der Ostsee und den Karpaten den Krieg gegen die offensichtlich überraschte Sowjetunion. Der Wehrmacht standen für den propagierten “Kreuzzug Europas gegen den Bolschewismus” 153 Divisionen mit knapp über drei Millionen Soldaten, 3.600 Panzern und 600.000 Motorfahrzeugen zur Verfügung. Hinzu kamen 600.000 Mann aus den verbündeten Staaten Ungarn, Rumänien, Finnland, Slowakei und Italien. Die Rote Armee umfasste 4,7 Millionen Soldaten. Nur knapp die Hälfte von ihnen war allerdings bei Beginn des Angriffs im Westen der Sowjetunion bzw. in den 1939 eroberten ostpolnischen Gebieten stationiert.

『1941年6月22日、ドイツ第三帝国はバルト海とカルパチアを結ぶ前線を突破し、突如として動揺するソビエト軍への攻撃を開始した。ドイツ国防軍はいわば「共産主義を打倒する十字軍」を標榜しており、157の師団と、300万人近い兵士、そして3600台もの戦車と、60万台ものオートバイが動員可能であった。加えて、60万人もの兵士が同盟国であるハンガリー、ルーマニア、フィンランド、スロバキア、イタリアから加わった。一方で、ソビエト赤軍は470万人もの兵士を擁していたが、うち半分は西ソビエト、すなわち1939年にソビエトが制圧した地域に駐留していた。』

この、1941年6月から12月までのドイツ軍の快進撃をバルバロッサ作戦と言います。ここでドイツ軍が取った作戦が『電撃戦』と呼ばれるので、機械化されたドイツ軍の高い機動力を活かし、敵の防衛線に風穴を開けて、そこから一気に敵軍領内になだれ込む、という作戦です。

このドイツ軍の電撃戦の作戦指揮を担ったのがドイツ陸軍の天才、ハインツ・グデーリアンで、第一次世界大戦の塹壕戦での膠着経験から着想を得て、大規模な火力で敵軍に風穴を開ける戦法を思いつきます。この戦法、色々と欠点があり、失敗すると相手に包囲されて全滅させられる恐れもあるのですが、グデーリアンはこの作戦を徹底的に研究し、見事に成功させました。

この時期、極東方面でも動きがあります。1941年6月のドイツの攻撃に呼応する形で、満州に配置されていた80万人の関東軍が『関東軍特殊演習』という名目でソ連国境で大々的な活動を興し、ソ連にプレッシャーを与えます。結局、南方資源の確保が優先的、という軍部内の意見から、日本軍によるソ連への侵攻は行われませんでしたが、ソ連はこのせいで、東方にも兵力を割かなければいけなくなり、その報復措置として日ソ中立条約の破棄がされたと言われています。

そして同時期、日本で活動を行っていたスパイ「ゾルゲ」が、日本軍によるソ連への攻撃はあり得ない、とスターリンに通達し、この東方に配備されていた精鋭たちは独ソ戦線に送られていきます。このころになると、ドイツ軍の兵站が伸びきって、初期のような快進撃はすでに続けられなくなってきました。

元々、フランスをあっという間に降伏させたように、ソ連にも短期決戦でのぞんだドイツ軍でしたが、ソ連軍の反撃が思った以上に熾烈で、さらに思った以上に冬将軍が早く訪れたり、謎に1ヵ月くらい上層部の意見で進撃が遅れたりなど、独ソ戦線は膠着し始めていました。モスクワさえ落とせばソ連は降伏するだろう、とのことでモスクワへの進撃が続けられますが、冬になると満足な補給も行えず、最終的にこの年、ドイツ軍はソ連軍の反撃を受けてモスクワ制圧を諦めます。

In überheblicher Erwartung eines “Blitzsieges” war die Mehrheit der deutschen Verbände nicht mit Winterkleidung und wintertauglicher Rüstungstechnik ausgestattet. Eilig improvisierte Sammelaktionen von Wintersachen und Decken im Deutschen Reich konnten die völlig unzulängliche Ausrüstung der deutschen Soldaten kaum entscheidend verbessern

『電撃戦の成功で思いあがったドイツ軍は、独ソ戦に際して満足な冬服や装備を用意せずにいた。結局、ドイツ軍は慌てて冬の装備品や毛布を用意するのだが、全てのドイツ軍の軍備を改善させるには程遠かった。』

独ソ戦の凋落と、敗戦まで

太平洋戦争にしてもそうですが、結局、国力の少ない日本やドイツが、アメリカやソビエトのような強国に立ち向かうには、短期決戦で出血をしいて、有利な講和に持ち込む以外にありませんでしたが、ドイツはこの最初の半年でソ連を屈服させることができませんでした。広大な領土から続々と兵士が送られてくるソ連と違って、ドイツ軍の国力は限られていますので、限られた戦力でこの先を戦い抜かなくてはいけません。

翌年、冬の終わりとともに、ドイツ軍は当初の目的にはなかった、ソ連の油田地帯、スターリングラード方面への進撃を開始します。当初、スターリングラードは両軍にとってそこまで戦術的に重要な地点ではありませんでしたが、独裁者スターリンの名を冠していることもあり、ソ連はこの地の死守を兵士に要請します。

確かに、このあたり一帯はソ連の工業地帯かつ油田地帯でもあり、この土地を制圧すればソ連に打撃を与えられることは間違いなかったのですが、結局、このブラウ作戦をドイツは南方の戦力だけで行う必要がありました。対して、ソ連軍はこのスターリンの名を冠した都市に、無尽蔵に兵士を送り込みます。

結局、この土地に固執し、ドイツの精鋭部隊を長々とくぎ付けにし、戦力をいたずらに消耗したことが、後々のナチスの命取りになります。補給も無い、異国の地でドイツの第六軍は奮戦しますが、冬が再び訪れ、ソ連軍の包囲を受け、最終的にはスターリングラードのドイツ軍はソ連に降伏し、スターリングラードの戦いは終結、多大な犠牲を蒙ったドイツ軍は何も得るものが無く、この戦いが転換期となり、敗北への道を転がり始めます。

1943年、クルスクの戦いという史上最大の戦いでドイツ軍はソ連軍の反撃を食い止めるべき、起死回生の攻勢にでますが、両者多大な損害を被って痛み分けとなります。確かに、ドイツ軍の方にはティガー戦車など、性能のいい兵器があったのですが、ただ、あとからあとから兵士がわいてくるソ連とは違って、一度兵士を失うと立て直すのが難しいドイツ軍にとってはこの戦いは致命的で、これが結果、独ソ戦線における最後の攻勢となりました。

この時期、イタリア方面からもアメリカ軍の反撃が開始され、ドイツ軍はただでさえ少ない兵力を各地に割かなければならない展開となります。1944年には、西ではノルマンディー上陸作戦が、東ではソ連軍によるバグラチオン作戦が開始されて、完全にドイツ軍は力尽きます。

そもそも、ソ連、アメリカを同時に敵に回してしまった時点で、ドイツも日本も勝ちは見えなかったので、軍事的には勿論、外交的に負けは決まっていたともいえます。ポーランドからソ連領内、ウクライナ、ハンガリー、ルーマニアを含む東欧諸国など、広大な土地が戦場になり、多くの犠牲者が生まれました(2000~3000万ともいわれてるが、詳細は不明)。

歴史にifはありませんが、たとえドイツがモスクワやスターリングラードを陥落させていても、ソ連が降伏したかどうかは怪しいと言われており、どのみち、点と線でしか広大な領土を制圧できない時点で、完全な勝利は難しかったでしょう。

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