18世紀後半に勃発したフランス革命の影響は、国境を越えて他のヨーロッパ各国に伝播し、欧州の国家と国民のあり方を根本から覆すような一大転機となりました。
その中心的役割を担ったのが、フランスに誕生したナポレオンです。彼はフランス陸軍を率いてスペイン、エジプト、ロシアなど欧州からアフリカまでくまなく遠征し、欧州各国に影響を及ぼします。
今回は、ドイツにとっても一大転機となったこのナポレオン戦争について、簡単にまとめていきたいと思います。
スポンサーリンク
ナポレオン戦争の始まりとドイツの様子
フランス革命は、市民が武力によって絶対王政を崩壊させた市民革命です。これによって、国王ルイ16世は打倒され、断頭台の露と消えることになります。しかし、この事件は、当然フランスだけでは収まりません。
当時、他の欧州各国はみな絶対王政の制度をとっています。フランスのように、国王が市民の革命によって打倒される、などということがあれば、彼らの屋台骨をも揺るがしかねません。フランス革命が成功し誕生したフランスの共和政は、誕生からすでに他国と共存しえない性質を持った国家だったのです。
というわけで、革命の波及を抑えるためにフランスをやっつけたい欧州各国と、革命を波及させたいフランスとの間で戦争が繰り広げられることとなります。このフランス革命戦争の間にめきめきと頭角を現し、のちにフランス皇帝となる男こそが、ナポレオンです。
上述のように、このフランス革命戦争、およびそれに引き続いて勃発するナポレオン戦争の大義名分とは、革命の輸出です。絶対王政によって虐げられている市民たちを革命によって救い出す、というのがナポレオン戦争勃発時の表向きの名目でした。
そのため、ナポレオンが遠征に出かけると、その土地の人々は敵対するどころか、むしろナポレオンに好意的、ということがしばしばありました。それゆえ、ナポレオン戦争前期のナポレオンの対外戦争において、彼らは現地から補給を受けることもでき、身軽に戦場を駆け巡ることができたのです。
さて、このころのドイツの状況はどうでしょう。ドイツがビスマルクとヴィルヘルム2世によって統一されたのは、19世紀後半になってからのことで、このころのドイツは神聖ローマ帝国内の、300以上に分かたれた領邦国家の集まり、といった状態がヴェストファーレン条約以降長らく続いていました。
フランスの革命に干渉する建前で、オーストリアが何度かフランス軍・ナポレオン軍に攻撃を仕掛けるも、オーストリア軍は国民徴兵によって士気鷹揚なフランス軍の前にたびたび敗北を重ね、第三次対仏大同盟の結果引きおこったアウステルリッツの会戦(三帝会戦)ではとうとうオーストリア・ロシア連合は完膚なきまでに叩きのめされます。
この結果、神聖ローマ帝国は名実ともに崩壊し、その代わりに神聖ローマ帝国内の領邦を集めてナポレオンの傀儡国家である「ライン同盟」が成立しました。
さて、そうすると今度は焦ったのは神聖ローマ帝国内でオーストリアに次いで巨大な勢力を抱えていたプロイセンです。プロイセンはこのナポレオンの傀儡国家であるライン同盟にこそ組み込まれませんでしたが、すぐ隣にフランスの傀儡国家が誕生したことは、国家防衛学上の危機以外のなにものでもありませんでした。
このナポレオンのこれ以上の増長と領土的野心を防ぐ目的で、プロイセンはついに対仏大同盟に参戦しますが、士気の高いフランス軍の前に、旧式なプロイセン軍はイエナ・アウエルシュタットの戦いで大敗を喫し、この結果プロイセンもフランスの配下に組み込まれることとなります。
ティルジットの和約というプロイセンにとって屈辱的な条約が結ばれ、プロイセンは大幅に領土を割譲された上に、軍隊の規模を減らされ、二度とフランスに立ち向かえなくなるようにされました。また、同条約によってポーランドが復活します。
この戦いで敗れたロシアもフランスに強調することとなり、イギリスを経済的に封じ込めるための経済政策、「大陸封鎖令」に加担することとなりました。この結果、ナポレオンの名声は内外に轟きました。
ナポレオンの没落とプロイセンの反撃
当初のフランス革命戦争、およびナポレオン戦争の大義名分は「革命の輸出による市民の圧政からの解放」でしたが、ことここに至り、次第に戦争は侵略戦争の雰囲気を帯びるようになってきました。当初は各地で英雄としてあがめられていたナポレオンも、今度は「侵略者」として今まで味方であったはずの市民から抵抗を受けるようになっていきます。
綻びが見え始めたのはイベリア半島です。スペイン独立戦争ではイギリスの支援を受け、ゲリラ化した市民を相手にフランス軍は苦戦、市民を殺戮する泥沼の戦争と化します。
さらに、ナポレオンのスペインでの苦戦をみて、今度はロシアが大陸封鎖令を無視して離反。このロシアへの懲罰として、ナポレオンは大陸軍60万人を従えてロシアへの遠征を決行します。この遠征軍にはプロイセンの兵士が加わっていますが、一方で、プロイセン軍の一部の軍人たちは、ナポレオンに抵抗するために故郷を離れ、ロシア軍に加わっています。
ナポレオン軍はロシアの領土奥深くまで侵攻し、ついにはモスクワを占領しますが、ロシア側の焦土作戦により、フランス軍には食料も水も手に入らないようになり、だんだんとナポレオンは追い詰められていきます。さらにこの年、例年よりも早く冬が到来したことから、ナポレオンはついにロシア討伐を諦め、撤退を開始します。
この撤退するナポレオンを、今度はロシア側のパルチザンが執拗に追撃、結局、60万の大陸軍のうち、生きてフランスに戻れたのは5000人だけだったという話です。
イベリア半島、ロシア遠征でのナポレオンの敗北は、今までナポレオンにいいようにやられていた他の欧州諸国を奮い立たせました。第六次対仏大同盟が成立すると、プロイセンも、ブリュッヘルやシャルンホルストら名将を呼び戻し、これに加わります。
ナポレオンは確かに戦争の天才でしたが、プロイセン軍はナポレオン本体との戦闘を避け、他のフランス軍を各個撃破していくスタイルに移行しました。これにはナポレオンもどうしようもなく、ロシア、オーストリア、プロイセン、イギリスからなる連合軍に対し、次第にナポレオンは押し戻されていきます。
そして、1813年10月、ライプチヒの戦いで形勢逆転の望みをかけ、ナポレオンは寡兵で連合軍に挑みますが、この戦いに破れ、ついに連合軍のフランスへの侵入を許します。結果、フランスはついに降伏、ナポレオンはエルバ島へ島流しになりました。
ワーテルローの戦い
ところが、ナポレオン戦争のもたらした被害があまりに甚大で、各国の思惑があまりに入り乱れていたので、その戦後処理であるウィーン会議は紛糾します。この、大国の足並みのそろわないところを見て悟ったナポレオンは、島から不死鳥のようにフランスに舞い戻り、再起をかけて軍を編成、連合軍に挑みます。
ナポレオンの思惑では、大国がまだ準備ができきっていない間にこれらを各個撃破できれば、またフランスにチャンスがある、という魂胆だったのでしょう。手始めに、ナポレオンはプロイセン軍を破ります。
ところが、この破られたプロイセン軍にとどめを刺すために、ナポレオンは3万の兵士に追撃をさせます。これがナポレオンの命取りになりました。このプロイセン軍を追いかけに行ったフランス軍はプロイセン軍を捕捉できず、結果、この3万という兵を欠いたナポレオンはワーテルローの戦いで敗れ去ることとなります。
ナポレオンは二度と再起しえないよう、エルバ島よりもさらに離れた小島、セントヘレナ島に島流しとなり、そこで生涯を終えることとなります。
ドイツへの影響
上述の通り、ナポレオン戦争の結果、まず名実ともに神聖ローマ帝国が消滅しました。プロイセン軍は一時期ナポレオンの傘下に入りましたが、そこで軍制改革を行い、最終的にはナポレオンを破る功労者となります。
この結果、ドイツ国内にナショナリズムの高揚が生まれました。結局、絶対王政が再度復活したこと、オーストリアが以前強い権力を持ち続けていたことなどから、その場でのドイツ統一には至りません。
しかし、このプロイセンの軍制改革、ナショナリズムの高揚は、小さな種となって、50年後、ヴィルヘルム2世とビスマルクのもとでドイツ統一という奇跡を果たすに至ります。