日露戦争その2:ポーツマス条約とドイツへの影響

日英同盟の締結によって、東アジアの軍事情勢は一発触発の状況となります。各国の思惑が交錯する外交ゲームの最中で、ついに開戦の火ぶたが切って落とされます。

日露戦争の勃発とアジア情勢

1904年2月8日、日本海軍の旅順港奇襲によって日露戦争は勃発します。

Die deutschen Zeitungen sind voll von Berichten aus diesem unerhörten Krieg – Asien wagt es, Europa herauszufordern

「ドイツの紙面はこの聞いたこともない戦争に関する記事で埋め尽くされた。アジア人がヨーロッパに挑戦した、と。」

正直、開戦当時の日本に対する下馬評はすこぶる悪いです。かたやアジアの小国、たかだか30年ほど前に開国したような未開の民族で、かたやヨーロッパでオスマン帝国を押しのけてぐいぐい領土拡大する、当時最ものりにのっている強力なロシアです。

一方で、大方の予想を裏切り、日本軍は奮闘します。海ではもちろん、陸でもきわどい勝利を拾い続け、中々ロシアの思うようには戦争を主導権を譲りません。理由として、当時の日本軍はこれに負ければ後がないので士気が高いですし、武器も欧州から最新のものを輸入していました。当時は名将と呼ばれる人物も数多く、この辺は司馬遼太郎の「坂の上の雲」で秋山兄弟の活躍などを見ればよくわかると思います(乃木将軍がこき下ろされていてややアンフェアな内容ですが)。

かたや、ロシアの軍隊は本国からアジアの果てまで派遣された軍隊で、当然士気も高くない。こんなアジアの未開の民族に負けることなど無い、と驕りもあります。

ただ、いくら日本側がきわどい勝利を拾い続けていても、限界があります。もともと動員できる兵力が違うのです。ロシアからはシベリア鉄道にのってどんどん追加の兵士が送られてきますが、日本の戦争継続能力はみるみる摩耗されていきます。旅順要塞を攻略するころには、日本側の余力は早くもなくなり始めていました。

ロシア側には、日本軍を粉砕する構想が2つありました。一つは、陸戦で大陸の日本軍を完膚なきまでに叩きのめすこと。ロシア陸軍は数では日本を上回っていますので、包囲殲滅することが可能です。このために、日本軍を大陸の奥深くまでおびき寄せ、これを取り囲んでしまうやり方などがとれます。実際に、本国にはまだ200万を超える陸軍が眠っているわけで、最終的にこれらで満州の日本軍を殲滅することなど造作もないわけです。

もう一つは、ヨーロッパにあるバルチック艦隊を東洋に派遣し、これをもって日本海軍を撃破、日本海の制海権を握ることです。そうすれば、日本側は満州に物資も兵士も送れないので、あっという間に窮地に陥るわけです。

なんにせよ、ロシアは余裕をもって構えていればよいのであり、かたやすでにここまでの戦いで兵力をすり減らし続けた日本は一刻も早く決定的な勝利をおさめ、有利な条件で講和にもっていきたい思いがありました。

ただし、ロシア側にもいくつか懸念材料がありました。ロシア本国の政治情勢がやや不安定になっており、この状況で本当に本国から100万人規模の兵力をアジアに動員できるかは、やや怪しいところだったことです。実際に1905年の冬に、血の日曜日事件が勃発し、国民の不満が高まります(明石元次郎のロシアにおける暗躍が功を奏したとも)。

お互いに決定的な勝利を収めてさっさと戦争を終わらせたいのは同じで、ここにいたり当時最大規模の会戦、奉天会戦が勃発しました。

日露戦争の終焉

奉天会戦におけるロシア軍は36万人、かたや日本軍は満身創痍の24万人です。日本軍はこれに負けるとあとがありません。ロシアにはまだ余力があります。結局、この覚悟の違いと、そして運が戦局を分かちました。

ロシア側の指揮官、クロパトキンは勇猛な日本軍に包囲されることを恐れ、勝手に撤退を始めてくれます。もちろん運だけではなく、今まで勇敢に戦った兵士の手柄でもあります。ともあれ、数で勝るロシア軍が、包囲殲滅を恐れて奉天を引き払うこととなり、ヨーロッパの紙面をまたしても賑わせました。

ただ、日本軍にはこれを追撃する余力がない。追撃してくる相手軍をおびき寄せ、殲滅するのはナポレオン戦争でも使われたロシアのお家芸です。満身創痍の日本軍はこれ以上陸地での戦争を続けられません。一方、ロシア側も、上述のように国内情勢が不安定なので、できればこれ以上戦争はしたくない。ここで、ロシアの希望であるバルチック艦隊が日本海に到着します。これをもって日本海軍を叩ければ、陸地で勝利しなくても、補給路を断たれた日本軍の未来はなくなるからです。

ここで、ロシア軍の誰もが、バルチック艦隊が黄色いアジア人の軍隊を完膚なきまでに叩きのめしてくれることを期待していました。

Es war ein begrenzter Krieg zwischen nur zwei Mächten, weit ab vom üblichen Weltgeschehen. Aber doch hat er die Geschichte mehr verändert als viele größere Kriege: Vor 100 Jahren wurde mit der Seeschlacht von Tsushima der russisch-japanische Krieg am 27. Mai 1905 entschieden – und die Basis für zwei Revolutionen gelegt, von denen eine die Welt erschütterte.

「この戦争は単なる二国間の戦争であり、それも世界情勢から離れたところで戦われた。にもかかわらず、この二国間の戦争は、他の大きな戦争よりも、歴史の趨勢を動かす力をもっていた。100年前、1905年5月27日に対馬沖でおこなわれた海戦は、この日露戦争の命運を決定づけた。そして、世界を大きく揺さぶることとなる、のちの二つの革命の下地も。」

前の記事でも書いたように、この戦争は欧米列強からしてみればアジアの小国とロシアの間で起きた局地戦です。にもかかわらず、現在、当時のマスコミはこのアジアの小国に正義の鉄槌をくだすべくヨーロッパから派遣されたバルチック艦隊と、東條平八郎率いる連合艦隊の戦いの成り行きを、かたずをのんで見守っています。

「本日天気晴朗なれども波高し」

という当時の状況を端的に知らせる秋山真之の打電は名文とうたわれています。1905年5月27日、このアジアの小国とヨーロッパの大国の間で行われた海戦の帰趨は、アジアの小国の歴史的な圧勝で幕を閉じました。ロシア軍の誇るバルチック艦隊は見るも無残に消滅し、司令官のロジェストヴェンスキーは負傷して日本軍の捕虜になりました。

この勝因についてはいろいろ言われていますが、全部挙げていると記事の内容から逸脱するので詳しく書きません。将軍の質、練習の成果、士気、日英同盟、すべてが日本海軍に味方したうえでの勝利だったと言えます。

結局、制海権を握り、日本を屈服させるというロシアの構想は日本海の藻屑と消えました。ここで、お互いに戦争を続ける力もなく、これ以上日本にもロシアにも勢力を伸ばされては困るアメリカの仲介のもと、ポーツマス条約が締結され、戦争は終結します。

日本海海戦

日本海海戦


東城鉦太郎『三笠艦橋之圖』

日露戦争後のドイツ・欧州情勢への影響

日露戦争での敗北の結果、ロシアの東アジア進出の野望は打ち砕かれました。これによって、せっかくヴィルヘルム2世がロシアの目を東アジアにむけさせた努力が泡と消え、ロシアの目は再びバルカン半島に向けられることとなります。

このことは、欧州の火薬庫と言われるバルカン半島情勢の緊張を一気に高まらせます。オスマントルコ、オーストリア、そしてドイツはこのバルカン半島の利害をめぐってロシアと対立し、わずか10年後には第一次世界大戦が勃発することとなり、日露戦争を指揮したロシア皇帝ニコライ2世には悲劇的な結末が待ち構えています。

ドイツ語では『Der Erste Weltkrieg』です。ドイツ、オーストリア、オスマントルコの同盟軍と、イギリス、フランス、ロシア協商軍とのあいだに戦われた戦争で、4年ほど続き3~4000万人とも言われる犠牲者がでました。

ロシアのアジアにおける野心が潰えたことはイギリスを安心させました。前々から結ばれていた露仏同盟に乗っかる形でイギリスも同盟し、イギリス・ロシア・フランスによる三国協商体制が引かれます。この仮想敵国はドイツです、ロシアの目がヨーロッパに再び向けられただけでなく、かえって日露戦争の結果、自分の敵が増えてしまう結果となりました。

第一次世界大戦前夜のヨーロッパ各国の思惑

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