第一次世界大戦後のワイマール体制下の経済とナチス・ドイツの台頭

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ドイツの歴史を語る上で欠かすことのできない『ナチス』と『第二次世界大戦』の歴史についてです。

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ドイツの歴史を学ぶ

歴史を学ぶ、というのはどういうことなのでしょうか。一つには、過去の事象を現在や未来に活かすような意味合いがあります。生物学者のジャレド・ダイヤモンドが言うのは、インカ帝国がスペインに全く太刀打ちできなかった一つの要因は、彼らが歴史の事象を知らなかったために、のこのことスペイン軍のだまし討ちにあってしまったことだと言っていました。

また、現在起きていることを、表面的にではなく、断続的に理解することができる、といった意味でも歴史は役に立ちます。日本のメディアでは(まあ、ドイツも大概ですが)、パレスチナやISの泥沼化を触れたとて、その原因や成り立ちまで深く追及することはありません。

ナチスや日本軍に関しても、一概に『軍部が台頭して、勝手に大戦を起こした、軍部が全て悪い!』とひとくくりにするのではなく、なぜ彼らが台頭したのか、という土壌を少し、探り返してみる必要があります。

日本の歴史も面白いのですが、かなりセンシティブですし、このブログの主旨とは離れてしまうので、今回はナチスの台頭と衰退までを追っていくことにします。

ナチスの台頭とベルサイユ体制

まずは、ドイツでナチスことNationalsozialisumsが台頭するまでのヨーロッパの流れを見てみましょう。このナチス台頭までの流れは、第一次世界大戦と切っても切り離せません。

第一次世界大戦で、ドイツはロシア、フランス、イギリス、アメリカを敵に回しながらも奮戦していましたが、ついに国内での反乱も相まって、降伏を余儀なくされます。ここでのポイントが、第一次世界大戦では、第二次世界大戦のような空爆もありませんでしたし、ドイツ国内への連合軍の侵攻もありませんでしたので、ドイツ国内の被害は限定的で、国民としてはなんで負けたのか分からい、といった状況でした。

にもかかわらず、ドイツに課せられたのは連合軍による多額の賠償金と屈辱的な軍事的制約でした。この、ドイツへの戦後賠償は、隣国であるフランスがかなり気合を入れておこなっており、ルール占領など、長らくドイツをいじめにはいります。

In eine nahezu ausweglose Krise geriet die Weimarer Republik, als nach einer geringfügigen Verzögerung der deutschen Reparationsleistungen französische und belgische Truppen am 11. Januar 1923 das Ruhrgebiet besetzten.

『フランスとベルギーの軍隊が、1923年の11月、取るに足らない賠償金の支払いの遅れによってドイツのルール地方を占領した時には、ヴァイマール共和国(ドイツ)は袋小路に陥っていた。』

これが俗にいうルール占領です。ちなみに、この時の常軌を逸した額の戦後賠償は経済学者のケインズによって非難されており、ケインズは第二次世界大戦後(中)のブレトン・ウッズ協定で、このときの教訓(ドイツをいじめてナチスが台頭した)を踏まえて新しい戦後の経済プランを考えています。

この時期の混乱は歴史の教科書などでも有名ですが、戦後の賠償金により絶望的なインフレーションがドイツ国内を襲い、卵一個買うのに何万枚ものお札を荷馬車に詰めて持って行かなくてはいけない写真などが見受けられます。戦後のドイツはまさに混沌としていました。

それから、ドイツは賠償金も支払いつつ、持ち前の産業力を生かして経済の立ち直りに勤めます。1920年代後半には、早くもドイツ経済は復興の兆しを見せ始めていました。ただし、ここで更なるアクシデントがドイツ経済を襲います。

1929年の世界恐慌です。諸説ありますが、私の意見では、この1929年の世界恐慌こそが、ドイツと日本を第二次世界大戦へ駆り立てた決定的な一撃です。ここでイギリスやフランスといったようないわゆる『(植民地を)持つ国』が取った政策が『ブロック経済』と言われる、自国の植民地内で経済を完結してしまおう、という動きですので、後から先進国の仲間入りをしたような日本や、戦後賠償に喘ぐドイツは、ここで締め出しをくらうと、完全に国内経済が逼迫する状況にありました。

せっかくたてなおりつつあったドイツ経済は、瞬く間にここで崩壊します。

Anfang 1931 waren in Deutschland bereits fünf Millionen Menschen als arbeitslos registriert. Das soziale System der Weimarer Republik war den Folgen der Wirtschaftskrise nicht gewachsen. Verelendung, Resignation und eine allgemeine Katastrophenstimmung prägten das Alltagsleben von breiten Bevölkerungsschichten.

『1931年初めのドイツ国内における失業者はすでに500万人にものぼった。ワイマール共和国(ドイツ)の社会システムは、この危機的状況に到底太刀打ちできるものではなかった。零落、諦念、そしてあらゆる破滅的なムードが、この時期のドイツ国民全体に広がっていた。』

この時期、ドイツは最後のあがきとして独墺関税協定を成立させようとしますが、ここで再びフランスが反発してオーストリアの融資を引き揚げ、ドイツおよびオーストリア経済の命運は尽きることとなります(というわけで、第一次世界大戦から第二次世界大戦までで、フランスは相当の恨みをドイツから買ってしまいました)。

こうした混沌とした状況の中、ドイツは共和体制を維持できなくなり、ついには1933年のかの有名なナチス党による『政権掌握』を迎えることになるのです。

ナチスミュージアムの展示

ナチスミュージアムの展示

ナチスの台頭と戦前のドイツ経済

国民にとっては、すでに共和政は破綻したも同然の制度でした。ほとんど全国民が分けのわからない賠償金の支払いやら、世界恐慌やら、連合国の理不尽な仕打ちに耐えてきたわけですので、ナチスは新しい救世主としてえらくもてはやされました。

ここからのナチスの政策に関しては、諸説あります。例えば、反ユダヤ(経済市場からのユダヤ人の締め出し)・過度のナショナリズムなどです。自国民意識高揚のデモンストレーションだと言う専門家もいますし、私もその意見に賛成です。

第一次世界大戦とその後の戦後賠償で失ったプライドを取り戻そう、という反動ではないでしょうか。この辺で、どこからともなく『アーリア人』という概念が登場し始めますが、そもそも最近では、生物学的にアーリア人、という概念自体が胡散臭いと言われています。

この時期の経済政策、労働政策としては、公共事業にとにかく労働者を雇用しよう、というもので、表面的にこれでドイツの労働状況は大幅に改善しました。

Massive Rüstungswirtschaft und vorgeschriebene Arbeitsdienste senkten die Zahl der Erwerbslosen von sechs auf knapp eine Million 1937. Die “totale” Durchdringung von Wirtschaft und Gesellschaft durch Wirtschaftslenkung und Zwangsorganisation der Arbeiter und Angestellten diente noch einem anderen Zweck: Sie schuf die Voraussetzungen für den geplanten Krieg.

『ナチスの大規模な軍備と労働奉仕は、1937年にはドイツの失業者の数を600万人から100万人以下に改善させた。もっとも、経済統制と労働者・勤労者の強制的な編成の社会と経済界への徹底には、別の意味が込められていた。すなわち、戦争への下地作りである。』

この時期のナチスの経済政策については、賛否両論あります。軍需拡大やアウトバーン創設によって多くの雇用を創出し、大恐慌からの脱出に一役買った、と言う人もいますし、雇用創出はあくまで表面的なもので、構造的にドイツ経済は限界に来ており、それが戦争の引き金になった、というものです。

この時点で、恐らくナチスドイツに引き返す道は無かったと思います。政権獲得からわずか6年後、第一次世界大戦終戦からわずか20年後に、行き場を失ったドイツ軍はポーランドに侵攻を開始し、第二次世界大戦が勃発します。

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