プロイセンの偉大な元帥:近代ドイツの立役者モルトケの生涯

Volksgerichtshof, Helmuth James Graf v. Moltke

今でこそ、戦争は機械が冷徹に行うもののように思います。マッハで空を飛ぶ飛行機であったり、海底深く沈降する潜水艦であったり、あるいは街を一瞬で焼き尽くす原子爆弾であったり、と。

プロイセン王国の興隆した時代は、まだ騎士と古風な戦術な入り混じった時代でした。本格的に飛行機や戦車が登場し、無辜の一般市民が戦火に巻き込まれるようになるのは、第一次世界大戦以降です。

この、近世と近代の戦術が入り混じる時代、プロイセン帝国の危機にあって、様々な戦いで勝利をもたらし、今や『近代ドイツ陸軍の父』とうたわれるモルトケは、1800年に北部ドイツの小さな町に生まれました。

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モルトケの生い立ち

プロイセン帝国軍人の息子としてモルトケは生を受けますが、父の退役に伴ってデンマークに移住します。

ちょうどそのころはナポレオン戦争の戦火がヨーロッパに吹き荒れていたころであり、モルトケのドイツの自宅も略奪にあい、家は困窮します。

ナポレオン戦争は近代ヨーロッパの歴史を大きく変えたと言いますが、ひとえに、ナショナリズムの台頭がこのころから各国に根付いた影響が大きいでしょう。

ともあれ、デンマークに移住したモルトケは、そこで士官学校に入学しますが、ナポレオンに組したデンマーク軍が敗北すると、モルトケも落ち目のデンマークを離れ父のかつての勤め先であるプロイセン陸軍に仕官します。

以降、オスマントルコ軍の顧問や鉄道理事などを経て、着実にキャリアアップをつとめていった彼は、1857年にようやく参謀長官に任命されます。このときすでに57歳でした。

一方、彼が今まで培ってきたキャリアは、のちの彼の戦績に寄与されることになります。特に、鉄道網を熟視したことにより、兵の展開を迅速に行えるようになりました。

普墺戦争

1866年に普墺戦争が勃発します。かつてナポレオンがヨーロッパ諸国を侵略したことによって各地にナショナリズムが芽生え、統一の機運が高まったことが一つの原因とされています。

プロイセンもドイツの覇権を巡って強国オーストリアとの決戦に挑みます。ここで、モルトケはかつて鉄道理事としてならしたキャリアを利用し、兵を迅速に展開させて各地で勝利に導きます(もっとも、モルトケの戦術だけでなく、ビスマルクのプロイセン軍近代化もこの勝利に貢献していますが)。

最後の決め手となったケーニヒグレーツの戦いでは、オーストリア軍は20万人の兵力のうち2万人の死傷者、2万人の捕虜を出してプロイセン軍の前に大敗を喫しました

大体このころは兵の1割を失うと軍隊機能が沈滞するといわれているので、大勝利といってもよいでしょう。

分散進撃・包囲撃滅

古来より、分散進撃はリスクのある戦術とされてきました。兵を分散させることは機動力の向上を望める一方で、敵による各個撃破の危険性を招くからです。

逆に言えば、各個撃破は戦上手の常とう手段とされてきました。相手のバラバラの軍を叩けば、たとえ大軍が相手でも戦うことが可能です(眉唾ですが、項羽は3万の兵で56万の劉邦の軍をこのやり方で破ったとされています)

モルトケは、あえてこの分散進撃を活用します。戦争において目指すべき理想形は、『ある戦場に敵よりも迅速に味方軍を集める』ことだからです。戦争は、戦う前にすでにほとんど終えられているのです。

この分散進撃を可能にしたのが、発達した鉄道網でした。これを駆使したモルトケは、オーストリア軍を各地で包囲・殲滅し、結果プロイセン軍を勝利に導きます。

普仏戦争とその後

普仏戦争でも同様に戦術的天才を見せつけたモルトケは、ナポレオン3世を大いに破り、ついにビスマルクとともに念願のプロイセン統一を果たします。

その後、元帥に就任した彼は、病気を理由に退職するまで軍職につき、引退後はベルリンでひっそりと息を引き取ります。日本が日清戦争の準備を整え始めた1891年のことでした。

モルトケには子供はいませんでしたが、彼の甥の通称小モルトケも軍属しています(こちらはフランスにこてんぱにヤラレてしまいましたが)。

余談と日本

モルトケ自身は日本との関係はあまりないのですが、彼の愛弟子であるメッケルが、軍隊の近代化を図る日本に招かれます。

このころ、普仏戦争においてプロイセンがフランスを破ったため、日本もそれまでのフランス式から、プロイセン式に軍隊を移行しようと考えていたところでした。

そのため、のちの日露戦争における奉天会戦などではモルトケの教訓が生かされているといわれています。

また、有名な話ですが、ある日本の軍人がメッケルに関ヶ原の布陣を見せ、『どちらが勝ったと思う?』と聞くと、メッケルは、当然包囲の陣をしいている西軍の勝利だと言ったと伝えられています。

結果は、西軍の裏切りによる東軍の勝利だったため、メッケルは間違いだったことになりますが、これを知ってメッケルも、やはり戦術と同等に事前の政治的な根回しも重要であると口走ったと言われています。

メッケルはその後も日本のことを気にかけ、欧州識者の多くが日露戦争のときにロシアの勝利を疑いませんでしたが、メッケルはたびたび周りに『日本が勝つ』と言っていたそうです。

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