プロイセンの偉大な元帥:近代ドイツの立役者モルトケの生涯

Volksgerichtshof, Helmuth James Graf v. Moltke

今でこそ、戦争は機械が冷徹に行うものになりました。マッハで空を飛ぶ飛行機であったり、海底深く沈降する潜水艦であったり、あるいは街を一瞬で焼き尽くす原子爆弾であったり、と。スイッチ一つで、指揮官は画面の向こうの敵を葬ることが可能です。

しかし、150年ほど前、プロイセン王国の興隆した時代は、まだ騎士と古風な戦術な入り混じった時代でした。このころは、騎馬隊を将軍が指揮し、戦場を縦横無尽に駆け巡る華々しい時代です。本格的に飛行機や戦車が登場し、歩兵が紙細工のように大量に殺戮され始めるのは第一次世界大戦以降の話です。

今回は、この近世と近代の戦術が戦場に入り混じる時代、プロイセン王国の危機にあって、名宰相ビスマルクとともにドイツ統一を成し遂げた「近代ドイツ陸軍の父」ことモルトケのお話です。

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モルトケの生い立ち

1800年、プロイセン王国軍人の息子としてモルトケは生を受けます。騎士の家系で、実家は由緒正しい出自でした。しかし、由緒正しいとはいえ、生まれた当時家は没落しかけていました。

Helmuth von Moltke (1870 in den Grafenstand erhoben) wurde im Jahr 1800 auf einem Gut bei Parchim in Mecklenburg geboren, zu dessen altem Adel die Familie zählte.

「モルトケは、1800年、パルヒムの農園のもとに生まれた。家族は、古い貴族の家系である。」

1800年といえば、ちょうどナポレオン戦争がヨーロッパ各国を巻き込み、あたりは戦火に満ちていた激動の時代です。モルトケの父の農園も略奪にあい、家は困窮します。また、もともと父には商才がなかったようで、農園を新たに購入するも、この経営に失敗。結局、このことが、のちのモルトケの運命を変えることになります。

Da der Vater die von seinem bürgerlichen Schwiegervater erworbenen Besitzungen nicht halten konnte, gab die wirtschaftliche Lage einen entscheidenden Anstoß zu dem Entschluss, die drei Söhne eine militärische Laufbahn einschlagen und, wie der Vater, in dänische Dienste treten zu lassen.

「彼は岳父の遺産を食いつぶしており、結局この経済的困窮が、自分同様、三人の息子をデンマークで軍人としての道を歩ませる要因となった」

このナポレオンの時代、軍人はまだ立派な職業の一つです、徴兵制をひいていたのは当時革命に成功したフランス軍だけです。職業軍人になれば、とりあえず食うには困らない、という理由から、彼は息子たちを軍人にすることに決めます。

デンマークに移住したモルトケは、そこで士官学校に入学します。しかし、歴史の動きは予断を許さない状況です。ナポレオンと同盟していたデンマークは、ナポレオンの敗北とともに途端に衰退します。

デンマーク軍に失望したモルトケは、代わりに、ナポレオンに勝利して輝きに満ちている、かつての父の勤め先である、プロイセン軍に憧れを抱くようになり始めました。1823年、そんなわけで、若きモルトケ青年はプロイセン軍の門をたたくのでした。これが、プロイセンとモルトケにとっての華々しい歴史の始まりです。

オスマントルコ士官時代とドイツ統一の気運

モルトケ青年は、軍人ではありましたが、ナポレオン同様、文学へのあこがれを抱いた文学青年でもありました。人々は、現実が悲しければ物語に愉快さを求め、現実が楽しければ悲劇を求める、と言われています。

モルトケがこのとき愛読していたのは、バイロンなどロマン派の文学でした。華々しい軍人イメージとは裏腹に、20代後半まで経済的困窮を強いられていたモルトケにとって、こうした人間の尊厳を謳った詩や文学はある意味で、彼にとっての救いになったのかもしれません。

そんなモルトケに転機が訪れたのは、1835年のことです。オスマントルコからオファーを受け、顧問軍人として、当時ロシアの侵食を受けてまさに瀕死の病人状態であったオスマントルコ軍の立て直しに従事します。

しかし、すでに旧態依然とし、上層部がなんら変革を求めないようなオスマントルコ軍にあって、モルトケは失望、結局、彼にこの末期患者を救うことはできませんでした。

プロイセン帰還後、モルトケは鉄道理事に任命されます。鉄道は、当時の最新技術で、まだ改善の余地がたくさんあるものでしたが、モルトケはこの鉄道が、将来の戦争のあり方を大幅に変えることになることを直感しました。

迅速な行軍は、敵に準備する時間を与えません。チンギスハンしかり、ナポレオンしかり、戦術の天才と謳われた将軍はみな、この行軍速度の重要さをいやというほど認識していました。幼いころモルトケもまた、戦場にいなかったとはいえ、ナポレオンの神業を体験しています。この、ナポレオンのような天才を持った指揮官のみに許された「電光石火の行軍」という神業が、今まさに、技術の進歩によって、彼らだけの専売特許ではなくなろうとしていたのです。

そんな中、ドイツは着実に統一への歩みを進めようとしています。1861年、ヴィルヘルム1世が即位し、翌1862年には、ビスマルクがプロイセンの首相に任命されます。ビスマルク着任当時、モルトケはすでに61歳、鉄道理事を辞し、ドイツ軍の参謀総長の仕事に従事しているところでした。

このビスマルクとヴィルヘルム1世の表舞台への登場は、ドイツ統一への流れを急転直下に加速させます。ビスマルクの「鉄血演説」により、プロイセン国民は戦争への機運を高め始めました。

ビスマルクとモルトケ、ドイツ統一へ

歴史の転換期には、多くの優秀な人材がこの世に輩出されます。ヴィルヘルム1世、ビスマルク、モルトケと、当時の混とんとしたプロイセンの中に、こういった世界史上でも稀に見るリーダーたちが綺羅星のごとく誕生したのは、まさにドイツ統一の奇跡だったともいえます。

ビスマルクは、モルトケとは性格的に対照的な人物でした。女好き、おしゃべり、大食漢のビスマルクと、無口で職人気質のモルトケとは、プライベートでは全くかみ合うことがありません。政治的にも、彼らの主張はしばしば対立することがありました。

Gemeinsam mit Otto von Bismarck und Albrecht von Roon gilt er als einer der drei Reichsgründer. Mit dem Reichskanzler kam es zu einigen Auseinandersetzungen, in denen die unterschiedlichen Auffassungen der beiden Männer über das Verhältnis von Politik und Krieg aufeinander prallten. Bismarck sah den Krieg als Fortsetzung der Politik im Sinne von Carl von Clausewitz, während Moltke die Eigengesetzlichkeit des Krieges am Werke sah.

「ビスマルク、ローンとともにモルトケはドイツ帝国の建国者として数えられている。ところが、宰相とは、政治と戦争に対するお互いの考え方の相違から、しばしば対立が生じた。ビスマルクにとって、戦争とは、クラウゼヴィッツのいうように、あくまで外交手段の延長線上にあるものであったが、モルトケにとって、戦争とは自立性を携えたものであった」

職人気質のモルトケにとって、戦争は崇高な、芸術作品とも呼べるものです。対して、リアリストのビスマルクにとっては、戦争はただの、目的を達成するための道具です。

しかし、彼らはお互いの力量を認め合っていました。水と油のような二人は、ドイツ統一、富国強兵という目的のために、不格好ながらも外れることのない積み木細工のように、がっちりと連携しあっていたのです。それゆえ、彼らは結局、お互いの領域を侵食することはありませんでした。

モルトケが発展させた理論の中で有名なのは「分散進撃・包囲撃滅」です。

通常、分散進撃(兵を分散させて展開し、目的地で合流すること)は魅力的だがリスクのある戦術とされてきました。兵を分散させることは機動力の向上を望める一方で、敵による各個撃破の危険性を招くからです。

そのため、戦場でも、この分散進撃を成功させるには、高い統率力と指揮力が重要でした。特に、無線も携帯もない時代、示し合わせた場所と時間にぴったりと合流することは困難を要します。仮に合流できないとなると、今度は分散している味方部隊を一つ一つ、相手の軍隊に各個撃破されてしまいます。

ところが、科学技術の発展により、この分散進撃がリスクを伴わずに可能になり始めました。まず、電信技術の発展、これにより、早く正確な情報の伝達が可能になります。次に、モルトケが携わった「鉄道網」です。馬ではなく、鉄道が兵隊を戦場に運ぶようにな時代が到来したのです。

普墺戦争と普仏戦争

1866年に普墺戦争が勃発します。かつてナポレオンがヨーロッパ諸国を侵略したことによって各地にナショナリズムが芽生え、統一の機運が高まったことが一つの原因の一つです。

プロイセンもドイツの覇権を巡って強国オーストリアとの決戦に挑みます。ここで、モルトケはかつて鉄道理事としてならしたキャリアを利用し、兵を迅速に展開させて各地で勝利に導きます。

最後の決め手となったケーニヒグレーツの戦いでは、オーストリア軍は20万人の兵力のうち2万人の死傷者、2万人の捕虜を出してプロイセン軍の前に大敗を喫しました。大体このころは兵の1割を失うと軍隊機能が沈滞するといわれているので、大勝利といってもよいでしょう。

普墺戦争

普墺戦争

続いての相手は、隣国のフランスです。フランスにとっても、ドイツが統一されて強大な力をつけることは脅威になりますので、お互いに戦う理由はありました。エムス電報事件でビスマルクはフランスをうまく戦争に向かわせ、1870年にプロイセンとフランスの間で戦争がはじまりました。

こちらも、モルトケの戦術、プロイセン軍の兵器の質、軍制の質など、すべての面においてプロイセンがフランスを凌駕します。フランス軍は連戦連敗を重ね、1871年9月1日、セダンの戦いでモルトケ率いる第三軍が、フランス軍の援軍部隊を電光石火の早業で強襲し、これを大いに破ります。ナポレオン3世はこの戦いでとらえられ、フランス側の捕虜も10万人を越えました。これによりフランスは戦闘継続ができなくなり、降伏します。

普仏戦争

普仏戦争

フランスの降伏は、すなわち、ドイツの統一を意味していました。ヴィルヘルム1世は翌年の初め、ベルサイユ宮殿で戴冠式を行い、ドイツ帝国の初代国王として君臨します。ドイツは、絶頂を迎えようとしていました。

そんな中、モルトケは元帥の称号を与えられ、また彼の絶頂の最中になりました。狡兎死して走狗烹らる、という時代ではありません。彼は高齢になってなお、ドイツ統一の英雄として、ドイツ陸軍の中で大きな発言権を持ち続けていたのです。

上述したように、モルトケとビスマルクとでは戦争に関する美意識は根本的に異なります。モルトケは、根っからの職人気質です。平和を享受することは悪くありませんが、騎士の遺伝子が、軍人としての本能が、彼を次なる敵に駆り立てます。

フランスは撃滅しました。次の彼の中にあった敵は、東方から迫りくるロシア帝国です。普仏戦争はフランスとプロイセンのあいだに禍根を残しました。彼は、将来的にロシア、フランの両国を相手に戦争をしなくてはならないことを、その際にどうしたらよいかを、すでに考えていたのです。

この、モルトケの両面作戦は、のちに「シュリーフェン・プラン」と名前を変え、第一次世界大戦では甥の小モルトケによって活用されることとなります。しかし、この二方面作戦は、ビスマルクの危惧した通り、ドイツに破滅的な未来をもたらす序章になりました。

とはいえ、モルトケ自身はこの破滅に直接関与することはありません、彼の戦争は終わりました。1888年ヴィルヘルム1世が死去し、ビスマルクが失脚するなど、プロイセンには世代交代の波が近づいていたのです。1891年、モルトケはベルリンの自宅で91歳の長寿を終えます。

補足:日本への影響

モルトケ自身は日本との関係はあまりないのですが、彼の愛弟子であるメッケルが、お雇い外国人として、軍隊の近代化を図る日本に招かれます。

このころ、普仏戦争においてプロイセンがフランスを破ったため、日本もそれまでのフランス式から、プロイセン式に軍隊を移行しようと考えていたところでした。また、遅れて近代化を果たしたプロイセンは、同じく近代化を遅れて成し遂げた日本の、よいお手本になると思われていたからです。

そのため、のちの日露戦争における奉天会戦などでは、メッケルを通じ、モルトケの教訓が生かされているといわれています。

また、本当かどうか怪しい話ですが、ある日本の軍人がメッケルに関ヶ原の布陣を見せ、『どちらが勝ったと思う?』と聞くと、メッケルは、当然包囲の陣をしいている西軍の勝利だと言ったと伝えられています。

結果は、西軍の裏切りによる東軍の勝利だったため、メッケルは間違いだったことになりますが、これを知ってメッケルも、やはり戦術と同等に事前の政治的な根回しも重要であると口走ったと言われています。

メッケルはその後も日本のことを気にかけ、欧州識者の多くが日露戦争のときにロシアの勝利を疑いませんでしたが、メッケルはたびたび周りに『日本が勝つ』と口にしていたそうです。