ヨーロッパにジャポニズムをもたらした:エンゲルベルト・ケンぺルの日本誌

ヨーロッパから遥か彼方の中国大陸、そのさらに沖合に燦然と輝く黄金の国ジパングという叙述がマルコ・ポーロによってなされたのが、13世紀のことです。

その後、長いことヨーロッパ人にとって日本という国は、謎のベールに包まれていました。あるものはその東洋の神秘に憧憬の念を抱き、あるものは商業的なチャンスを見出しました。ヨーロッパと日本の間で、いくつかの交流が大航海時代以降にもなされていたにも関わらず、その日本という国が、体系的に欧州人のもとに晒されるようになったのは、マルコ・ポーロの東方見聞録からおよそ400年の時を経た、18世紀、エンゲルベルト・ケンペルによる日本誌を待つこととなります。

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エンゲルベルト・ケンペルの生い立ち

1618年から1648年まで続いた三十年戦争は、ドイツ(神聖ローマ帝国)国内を荒廃させただけでなく、人口の減少、経済的な停滞を招き、長期的なドイツの発展に大きな影響をあたえました。

その三十年戦争後の1651年、エンゲルベルト・ケンペルは西ドイツレムゴーという都市で誕生しました。戦争によってレムゴーも荒廃し、さらに戦争後も魔女狩りによる拷問と処刑がレムゴーには満ちていました。市長であるヘルマン・コートマンによって、300人近い市民が拷問、殺害されたと言われています。

Engelbert Kaempfer wurde in Deutschland in als Sohn eines Pastors geboren. Die während seiner Jugend erlebten Hexenverfolgungen hinterliessen in ihm einen tiefen Eindruck über menschliches Verhalten. Obschon seine Familie nicht reich war, hatte sie eine gute Bibliothek, wo er in einem Werk von Adam Olearius Berichte über dessen Reise als Botschafter an den persischen Hof las, was wohl sein Interesse an Reisen in den Osten geweckt haben könnte

「エンゲルベルト・ケンペルは牧師の子として生まれた。彼が少年時代に経験した魔女狩りは、人間の醜い行いを彼に印象付けるものとなった。彼の家は裕福でこそなかったが、家には立派な図書室があり、アダム・オレアリウスの、外交官としてのペルシア旅行記などを読んだ。このことは、おそらくこのことが、彼に、将来の東方への興味を駆り立てたのだろう」

現実が苦しければ苦しいほど、人は見知らぬ世界に救いを求めます。叔父を魔女裁判で拷問にかけられ殺害された幼いエンゲルベルト少年は、この東方の旅行記に救いを見出したのかも知れません。

故郷でラテン語を学んだ彼は、その後ドイツや、現在のポーランド領内の各大学を転々としつつ、医学や植物学を勉強します。この、多くの大学で多くの分野の知識を身に着けたことは、後に日本に渡った際に「学術的」に日本を叙述することに貢献しています。

1681年、そして、30歳になったエンゲルベルトは、スウェーデンのウプサラに居を移すことになります。この決断が、彼の後半生をドラマチックに変貌させました。

エンゲルベルトは、ウプサラで知り合ったスウェーデン人とともに、ペルシアに医師として派遣されるオファーが舞い降ります。ペルシアは、エンゲルベルトが少年時代に彼の図書室で読みふけったアダム・オレアリウスの旅行記の舞台です。天命を感じたエンゲルベルトは、このオファーを即座に引き受けました。こうして、1683年、彼の大冒険は始まることとなります。

エンゲルベルトと日本

彼の旅は、モスクワから始まり、現在のアゼルバイジャンを経て、ペルシアに至ります。しかし、彼の東方への情熱はペルシアでは収まらなかったようで、彼は東インド会社と合流し、さらに東へ赴きます。

Danach trat er in den Dienst der Holländisch-Ostindischen Companie und reiste via Indien nach Batavia in Indonesien. Dort studierte er alle erhältlichen Quellen über Japan, das damals der Aussenwelt nicht zugänglich war.

「ペルシアで、エンゲルベルトはオランダ東インド会社の歯科医と会い、インドを経てインドネシアのバタビアに赴くこととなる。ここで、彼は当時公にされていなかった日本に関する手に入る限りの書物を読み、勉強した」

バタビアで、彼はこのさらに東方に存在する日本という国に惹かれました。当時、17世紀、日本はすでに鎖国されており、外国人は簡単に日本に入国することはできません。しかし、この点、エンゲルベルトは天祐を得ていました。彼の働いている東インド会社の属するオランダは、唯一、ヨーロッパにおいて日本との取引が許可された国なのです。この特権を利用し、彼は1690年、ついに日本へ赴くチャンスを得ます。時は元禄、徳川綱吉の治世です。

彼はその後、2年間長崎の出島に居住する機会を得ました。日本へ入国できたとはいえ、当時の鎖国のルールは厳しく、出島の橋を外国人が渡ると死罪を言い渡されるレベルです。そんな中でも、彼は同僚のオランダ人とともに、二回も江戸に参詣する機会を得ました。

Während seines Aufenthalts machte er mit der holländischen Delegation zwei Reisen nach Edo (dem heutigen Tokio), um dem Shogun (dem militärischen Führer Japans) Tribut zu zollen. Während dieser Reisen schrieb er extensiv und seine Notizen und Zeichnungen bildeten die Grundlage für seine „History of Japan“.

「出島への滞在中、彼は二回、江戸の将軍にオランダ人の同僚とともに参詣した。この旅の途中でのノートおよびスケッチが、のちの”日本誌”の基礎となった」

彼の専門は医学であり、植物学であり、博物学でもあります。民俗学的に、彼は異文化を捉える術を知っていたようです。植物学は、彼が詳細なスケッチをほどこす手助けをしました。こうして、2年間の使役を終えたエンゲルベルトは、1693年にはオランダに戻ります。スウェーデンを出発し、12年ぶりのヨーロッパへの帰郷でした。

エンゲルベルトの帰国と日本誌

その後、エンゲルベルトは彼の経験した大冒険に関する出版作業に取り掛かろうとしますが、幸か不幸か、医者としての彼の名声により、伯爵のお抱え医としての職を得てしまい、中々編集作業がはかどらなくなります。

その後、彼は「廻国奇観」という中央アジア、東南アジア、アジアを網羅した著作を発行しますが、この中では日本はメインでは扱われていません。1716年、エンゲルベルトは65歳で亡くなります。彼の記した「日本誌」は結局、彼の存命中に日の目を浴びることはありませんでした。

エンゲルベルト自身が放浪の人生を送ったように、彼の遺稿もまた、彼の死後各国をさ迷うこととなりました。

Nach seinem Tod im Jahr 1716 erbte sein Neffe das gesammelte Material sowie die für die Publikation bestimmten Unterlagen. Wegen finanzieller Nöte musste dieser jedoch alle Manuskripte und Sammlungen verkaufen. In der Folge wurden sie von Sir Hans Sloane in London aufgekauft, der selber ein berühmter Wissenschaftler und Sammler von Literatur über Wissenschaften und Entdeckungen war.

「エンゲルベルトの死後、彼の甥が彼の遺品を相続したが、金銭的な問題で、彼の原稿もコレクションも全部売り払われた。それらは、ロンドンにいる研究者で文献の収集家でもある、ハンス・スローンの手元にわたることとなる。」

ハンス・スローンは、これをドイツ語から英語に翻訳させ、1727年、ついに「日本誌」は大衆の目にさらされるに至りました。長い事ベールに包まれていたジパングは、これによってはじめて、体系的に知らされることになり、多くの研究者の注目を引くようになりました。

その中の一人に、後に日本にわたり、日本の医学に多大な貢献を与える同じドイツ人のシーボルトが含まれています。日本誌の出版から実に100年後の話です。