ベルリン市民を勇気づけたケネディの演説『私は一人のベルリン市民だ』

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1963年6月、冷戦の真っただ中で共産主義国に囲まれた西ベルリンにおいて、ケネディ大統領が『ベルリン演説』という演説を行います。

Two thousand years ago
— Two thousand years ago, the proudest boast was “civis Romanus sum.”¹ Today,
in the world of freedom, the proudest boast is “Ich bin ein Berliner.”

『2000年前、ローマ市民であることが最高の栄誉でした。しかし今日、この自由な世界において、「私はベルリン市民である」ということが最高の栄誉であるように思えるのです』

これがベルリン市民たちの心を揺さぶりました。経済的、社会的、民族的不安などもあった西ベルリンの200万の市民たちは、これによって勇気づけられたのです。

このベルリン演説の中の『Ich bin ein Berliner』という言葉は、今でも有名な言葉としてドイツでは伝えられています。今日は、ケネディがベルリン演説をした冷戦当時の背景についてまとめていきたいと思います。

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西ベルリンの歴史

第二次世界大戦末期の1945年に、ドイツは東はソ連、西は英米の連合軍からの猛攻にさらされます。しかしすでに戦争継続能力のないドイツは、じり貧になりながらも各地で敗走や投降を繰り返します。

最終的に、ヨーロッパ戦線はベルリン陥落とともにほぼその幕を閉じます。1945年5月には、50万とも言われるソ連赤軍がベルリンになだれ込み、ヒトラーは自殺し、ドイツは無条件降伏を果たします。

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しかし、この時点からすでに米ソ両陣営は将来の敵が日独ではなく、互いに米ソであることに薄々気づいていました。ドイツとの東方戦線およびベルリン戦で多大な犠牲を蒙った渡連は、どうにかベルリンをソ連だけで統治したかったのです。

ポツダム会談によって米ソは相互の不信を深めます。戦後のパワーバランスを考えたアメリカ軍は、1945年8月に日本に原子爆弾を落としソ連を牽制しました。

ドイツの東西分裂とベルリン封鎖

ポツダム会談によって、戦後ドイツの分割協定が、英、米、仏、ソによって結ばれました。ここで重要なのが、『ドイツは東西に分裂』し『東ドイツの首都であるベルリンも東西に分裂する』ということです。

ちょっと奇妙に思えるかもしれませんが、いわば西ベルリンは『東ドイツ』というソ連の占領下に、飛び地のようにぽつんと浮かぶ形になってしまったのです。

そしてドイツの東西分裂が決定的になったのが、1948年のことでした。戦後のハイパーインフレを収拾するために、米・仏・英で西ドイツにおいてマルク通貨を発行しますが、この協議からソ連は仲間外れにされます。

これに反発したソ連は『ベルリン封鎖』という大胆な手段に出ました。物理的に、西側諸国から西ベルリンへの陸路を禁止したのです。これによってソ連は、物資の無くなった西ベルリン市民が東陣営に泣きついてくることを狙いました。

しかし、西ドイツから西ベルリンへの空路は封鎖されていなかったので、西側陣営は空路による輸送を試みます。これがいわゆる『ベルリン大空輸』です。

ソ連は、西ベルリン市民200万人の需要を満たす物資を空輸で運べるわけがないとたかをくくっていましたが、米英を主軸とする空輸隊の数は、日増しに増えていきます。

ソ連は幾度となく妨害を試みますが、結局失敗し、西ベルリン市民には何不自由ない物資を得られるような体制が整ってしまったため、1949年5月に封鎖を解除します。

冷戦の深刻化

しかし、この米ソ両陣営の対立によって、両者のみぞはすでに埋められないものとなりました。1949年には、東ドイツに東ベルリンを首都とする『ドイツ民主共和国』が、同じく西ドイツにボンを首都とする『ドイツ連邦共和国』が樹立します。

翌年には、アジアで朝鮮戦争が勃発し、戦後初めて両陣営の代理戦争が大規模に行われます。朝鮮戦争停戦締結後には、ドイツと同じく朝鮮半島も南北に分裂することとなりました。

1952年には、原子爆弾よりも強力な兵器を持つために、アメリカが水爆を開発しますが、翌年にはソ連も水爆の開発に成功し、両者の核競争がはじまり、世界を何回も滅ぼせるほどの数の核兵器を抱えるようになりました。

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こうした緊張状態にもかかわらず、ベルリン封鎖とその失敗以来、東西ベルリンへの往来は比較的寛容なものとなっていました。

アウトバーンや地下鉄が使われ、東西ベルリンから相互に出勤する人も多くいたと言います。

ただし、こうした東西往来の簡易さが、東から西への亡命者を招きます。東ベルリンを経て、技術者などがどんどん西側へ流れ出てしまったため、東ドイツ側は焦ります。

そしてついに、ソ連と東ドイツ政府は物理的な強硬手段に乗り出しました。

ベルリンの壁

1961年8月13日、東ドイツは西ベルリンをすっぽりと覆うように有刺鉄線とバリケードを張り巡らせます。ベルリンのシンボル、ブランデンブルグ門にも警備態勢が敷かれ、誰も中に立ち入ることができなくなりました。

その東西ベルリンを隔てるちょうど国境の真ん中に、ブランデンブルグ門は残ります。厳戒な警備によってその周りを固められ、ベルリンの象徴はもはやだれも立ち入ることができない無人地帯となります。

ここにいたり、南北朝鮮と同様、多くの離散家族が生まれます。東西ベルリンの緊張は一気に高まり、特に東陣営内に孤立した西ベルリン市民は不安を覚えます。

実はこのベルリンの壁建設に先駆けて1961年には、大統領に就任を果たして間もないアメリカの若き大統領ジョン・Fケネディと、ソ連のフルシチョフとの間で、インフォーマルな『ウィーン会談』というものがなされていました。

このウィーン会談からベルリンの壁建設にいたる一連の騒動を、俗に『ベルリン危機』といいます。

ケネディ大統領の登場とベルリン危機

1960年、ケネディ上院議員はアメリカ第35代大統領に、史上最年少の若さで就任を果たしましたが、その前途には冷戦・内政に関係する多くの課題が積まれていました。

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僅か3年足らずの就任期間のうち、ケネディは黒人差別問題、ベトナム戦争、キューバ危機、アポロ計画などの歴史的な問題におおく関与します。

そして、就任間もないケネディがヒッグス湾の事件の直後に直面したのが、この『ベルリン危機』だったのです。

東西緊張緩和のため、ケネディはフルシチョフとの個人サミットを持ち掛けます。

On this day in 1961, President John F. Kennedy and Soviet Premier Nikita Khrushchev met in Vienna for a two-day summit. In a letter delivered to Khrushchev in March, Kennedy proposed the two leaders meet for an informal exchange of views. Accordingly, they conferred without a set agenda.

『1961年某日、ケネディ大統領とソビエト書記長フルシチョフはウィーンで2日間のサミットを開催した。3月にフルシチョフ書記長に届けられた手紙の中で、ケネディは非公開のサミットの開催と相互の意見のすり合わせを求めていたのである。会談内容は紙に残されずに会話のみでやりとりがなされた』

このサミットの中で、フルシチョフは東西の戦後処理を終わらせ、西側陣営は西ベルリンから撤退することを要請します。

西ベルリンは、いわば東諸国にとってみたら喉に刺さった魚の骨のような存在であったため、ソ連としてもさっさと片付けてしまいたい問題だったのです。

これに対し、ケネディは頑として西ベルリンを見捨てないことを強調します。

会談の最後は、このように終えられます。
フルシチョフ『戦争か和平かの責任はアメリカだぜ』
ケネディ  『書記長。ならば戦争だ、これは冷たい冬の幕開けだ。』

“It is up to the U.S. to decide whether there will be war or peace,” Khrushchev said. “Then, Mr. Chairman,” Kennedy responded, “there will be war. It will be a cold winter.”

この2か月後に、東ドイツは突如としてベルリンの壁を建設し、西ベルリンの封鎖に乗り出します。

門の周りには厳戒態勢が敷かれ、銃をもった警備兵が住民の行き来を見張るようになったのです。西側陣営から何の音さたもない西ベルリン市民は、東西の戦争がこの地で行われるのではないかと恐れます。

ケネディのベルリン演説

1962年にキューバ危機を乗り越えたケネディは、1963年6月、こうした不安と緊張のなかにある西ベルリンを訪れました。

西ベルリン市民はこの若き大統領を熱烈に歓迎しました。ケネディは、狙撃をいとわずベルリンの壁近くにまで歩み寄っていきます。そして市庁舎のまえで、あの『Ich bin ein Berliner』で名高い演説を披露するのです。

Freedom is indivisible, and when one man is enslaved, all are not free.
When all are free, then we look — can look forward to that day when this city
will be joined as one and this country and this great Continent of Europe
in a peaceful and hopeful globe. When that day finally comes, as it will,
the people of West Berlin can take sober satisfaction in the fact that they were in the front lines for almost
two decades.All — All free men, wherever they may live, are citizens of Berlin.
And, therefore, as a free man, I take pride in the
words “Ich bin ein Berliner.”

演説の最後はこのような言葉で締めくくられています。

『自由とは不可分のものです。誰かが不自由であれば、それは皆が不自由であることを意味します。もし万人が自由であれば、そのときはこの都市が、そしてこの国が、このヨーロッパ大陸が、一つの平和で希望に満ち溢れた世界を期待できるでしょう。もしそのような日がくるのであれば、その日こそは、西ベルリンのあなた方は、20年もの間冷戦の最前線にたっていたという事実に、厳粛にも似た達成感を得られる日でしょう。
どこであろうと、そこで生きているすべての自由な人たちこそが、同時にベルリン市民でもあるのです。
なので私は、一人の自由な権利を持った民として、この言葉を誇りに思います。”Ich bin ein Berliner”』

この言葉は、東西緊張の矢面に立たされていたベルリン市民たちを奮い立たせます。

この演説の後、およそ5か月後にケネディ大統領は暗殺されます。一方で、このケネディの演説は名演説として今も語り継がれており、また〈Ich bin ein Berliner〉の言葉もドイツでは誰もが知っている有名な言葉となりました。

それから東西ドイツが統一されるまで、およそ30年の月日を要し、1989年にはようやくベルリンの壁が壊されました。

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ベルリンの壁を壊したのは、アメリカ軍でもソ連軍でもなく、ケネディの表したように『自由を求めるベルリン市民』でした。

ケネディは暗殺され、冷戦が終わり、ベルリンの壁は壊されましたが、ケネディのこの言葉は今も彼が演説をおこなった市庁舎前にレリーフとともに飾られています。

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