第一次世界大戦から100周年を迎えたドイツにおける報道あれこれ

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日本は『大戦』や『戦争』といえばまっさきに太平洋戦争が思い浮かばされます。毎年8月15日にはテレビや新聞などでそうした報道がおおく特集されますし、1945年から70周年を迎える来年も一つの節目です。

一方、ドイツは2回の大戦を経験しています。日本は青島でちょこっとドイツと戦った程度ですが、ドイツは180万人近い犠牲者をこの戦争でだしています。

結局、この戦いのあとの多額の賠償に課されて経済が混乱し、フランスと遺恨を遺したことが、後々ナチスの台頭を招き第二次世界大戦を引き起こします(もともと第一次世界大戦の原因の一つが、普仏戦争の遺恨なのでやったりやりかえさりたりと中国の臥薪嘗胆の故事のようですが)。

ともあれ、第一次世界大戦は1914年に勃発したので、2014年は100周年にあたることもあり、ドイツ国内ではいろいろと特集が組まれていました。

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第一次世界大戦とは

ドイツ語では『Der Erste Weltkrieg』です。ドイツ、オーストリア、オスマントルコの同盟軍と、イギリス、フランス、ロシア協商軍とのあいだに戦われた戦争で、4年ほど続き3~4000万人とも言われる犠牲者がでました。

1914年7月に勃発した世界大戦は『クリスマスまでには終わるだろう』と言われていましたが、各地に張り巡らされた塹壕が兵士の進行を阻み、戦争は泥沼の総力戦と化していきます。

この戦争が、兵器の発展の一つの特異点だったと考えられています。マシンガンや、毒ガスや、塹壕戦略や、戦車や飛行機など、様々な兵器がこの戦争で登場し、犠牲者の数を増やします(戦車と飛行機はあまり活躍しませんでしたが)。

ドイツは西ではフランスを相手に、東ではロシアを相手に奮闘を続けますが、イタリアがオーストリアを撃破し、ドイツのUボート攻撃をうけたアメリカがイギリス側についてドイツに宣戦布告すると、次第にドイツ側の旗色が悪くなってきます。

結局、オスマントルコ、オーストリア、ブルガリアなどドイツの同盟国が相次いで戦線を離脱していくと、ドイツ国内の厭戦ムードが高まり、キール港で将校の反乱が起き、戦争継続は困難なものとなります。

普仏戦争の恨みをはらしたいフランスは、ドイツから領土を奪還するにとどまらず、パリ講和会議で天文学的な賠償金を押し付け、ドイツ側にふたたび遺恨を遺します。

今大戦によって、今まで残っていた騎士道的な戦争の形式はすっかり様変わりし、攻撃的な戦争から黙々と塹壕で相手を迎撃する防御陣地戦術へと切り替わっていきました。

Die Militärs liebten die Offensive, doch die moderne Waffentechnik stärkte die Verteidigung und verwandelte die Schlachtfelder in apokalyptische Grabenlandschaften.

『軍は攻勢を好むものである。しかし、近代兵器は防御陣を堅牢なものと化し、戦場は黙示録的な単なる塹壕戦へと変容していった』

兵器と戦術の変化

上記にも述べましたが、1904年の日露戦争辺りから、次第に戦術は様変わりをはじめていきます。

19世紀末までは、まだ騎士道の面影があり、人が人と戦う時代でした。戦場では指揮官が指揮をとり、互いに相手の騎士道精神をたたえあうものです。

しかし、機関銃と大砲の登場がそうした戦場の様子を一変させます。

機関銃

機関銃は銃の亜種なので、明確にいついつに登場したとは説明しづらいですが、1884年にマキシムというアメリカ人技師が、マキシム機関銃というものを発明し、ついでコルト社がそれから20年後にブローニング機関銃の量産に成功します。

このころの機関銃は組み立てに時間がかかり、一人では扱えないようなものでした。それは、持ち運びには不便ですが、一度陣地に据えてしまえば、自軍の塹壕を難攻不落の砦へと変貌させます。

塹壕から機関銃を構えた軍は、進んでくる敵軍をそれを用いてバタバタとやっつけていくだけでいいのです。当然、そんな戦場を誰も歩きたくはないので、自ずと、戦争は膠着状態に突入していきます。

Je etwa 250.000 deutsche und französische Männer starben

『1916年2月から12月ごろまで続いたヴェルダンの戦いではフランス・ドイツともに25万人の犠牲者を出した。』

結局フランスはこの地を死守しまし、両軍は不毛に軍を疲弊させたにすぎませんでした。

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Bis zum Abbruch der Kämpfe im Herbst 1916 verloren Deutsche und Briten jeweils rund 500.000, die Franzosen 200.000 Mann.

『1916年7月から11月ごろまで続いたソンムの戦いでは、イギリス軍が初めて戦車を使用し、撤退までにイギリス軍とドイツ軍は50万人の犠牲者を、フランス軍は20万人の犠牲者を出した』

ここでも両軍は際立った成果をあげられません。

大砲

大砲もチンギスハンの時代から使われているものですが、それが大戦期で劇的に変化しました。

防御陣地に据えられた大砲は、無煙火薬が使われるようになり、相手は自軍の位置を特定できないようになります。

これらの兵器が戦術を進化させ、目に見えないところからおそいかかる砲弾が自軍の倉庫などを直撃し、途方もない犠牲を現場の兵士たちに強いることとなりました。

In Kombination mit den Maschinengewehrstellungen verursachten diese Neuerungen bis dahin ungeahnte Verluste.

『機関銃と大砲のコンビネーションにより、今まで予想だにできないほどの犠牲がひきおこされた』

ドイツのその後

1919年に敗戦国ドイツに『ヴァイマール共和政(Weimarer Republik)』が樹立します。

これによってドイツは君主政国から民主主義国家へと移行しますが、多額の賠償を支払うために紙幣を濫発したことによって、ハイパーインフレが引きおこります。

世界史の教科書などでもみたことがあると思いますが、子供たちが紙きれ同然になった紙幣で遊んだり、焚き火の火に使ったりします。

ハイパーインフレを収拾させるために、レンテンマルクが発行され、1926~7年には戦前の経済水準を抜き、ふたたびドイツは一瞬の安定を取り戻しますが、1929年にアメリカで大恐慌が引きおこったため、せっかく安定しかけたドイツの経済も再び崩落し、以後ヴァイマール共和政は事実上崩壊し、1933年にヒトラーが政権を掌握するにいたります。

より詳しい内容に関しては以下を参照ください。

第一次世界大戦前夜の各国の思惑