小学校で人生が決定するドイツのエリート教育と学歴格差

世の中にユートピアは存在しません。
国としての経済成長は著しいが国内経済や環境問題に深刻な矛盾を抱えている中国、雇用も福祉も比較的整っているが少子化や労働時間超過で国民の幸福度が少ない日本、温暖で楽観的な社会だけど高い失業率の南欧諸国、親の経済力で子供の教育や生涯年収がほぼ決定され、国民皆保険が破綻しているアメリカ、など、表向きはよいところばかり見えても、実際の国民の生活が幸福かどうかとはまったく別の問題です。

では、欧州経済の優等生といわれて久しいドイツはいったいどのような問題をはらんでいるのでしょうか。文化的、経済的側面からまとめていきたいと思います。

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ドイツは国民の理想郷か

ドイツに留学している、というとよく「ドイツの経済はすごい」とか「ドイツの産業はすごい」という話を聞きますが、アベノミクスを見てもわかるとおり、経済の机上の数値が直接に国民の生活の質に反映されるとは必ずしも限りません。ドイツにもホームレスはいますし、スーダンにもお金持ちはいます、アメリカの経済はすごいですが、かといって国民全員が裕福かというと、そういうわけでもありません。

たとえば、韓国や中国の経済がまさに「表向きの経済状況がよい国」の典型的な例です。韓国の場合、典型的な「トリクルダウン経済」ですので、大企業への資金投入と優遇がすさまじいので、一部のサムソンのような大企業はその恩恵を受けて著しく成長しました。ただ、資源を持たない国、輸出指向型の国の典型として、国内内部需要の発展に限界があります。内部需要の発展のためには国民の給料を上げる必要がありますが、そうすると今度は「安価で高品質な労働力」という国際競争力を失います。

結局いつまでも「輸出」を機軸にしたゆがんだ経済構造をはらんだまま、一部のエリートや大企業だけが恩恵を授かれる社会になってしまい、その一部の恩恵を得るための競争がすさまじいものになっています。この輸出志向型の経済モデルは、戦前の日本にもいえることで、結局内需が育たない国は外需に頼らずを得ず、そのために国外マーケットを獲得する戦争に駆られるのです。というわけで、表向きのGDPがよいからといって、国民一人当たりの裕福さが高いとも限らないというわけです。

さて少し話がそれましたが、肝心のドイツはどうでしょうか。第二次世界大戦で日本は焼け野原になりました。夏ごろにNHK番組を見ていると、白黒のB29が大都市を空爆している映像などが映し出されて「日本はここからよく経済復興したな」という感銘を受けますが、沖縄を除いて本土での地上戦がなかった日本に比べて、それが行われたドイツの人的被害ははるかに過酷なものでした。

そこから「ライン川の奇跡」とよばれる高度経済成長期を経験し、いまや世界に名だたる経済・産業国として大きな発言力を持つ国になっていますので、やはり尊敬を集めずにはいられません。ドイツすげえ、となるわけです(もちろん、私は日本の経済復興もすごいと思います)。

教育、経済、産業、幸福度など、さまざまな数値を見ていても、ドイツという国には欠点がないように思えます。東欧などを旅行した後にドイツに戻ってくると、やはり街中の綺麗さに驚かされますし、欧州の中でもひときわ洗練された国だと思います。まさにその意味では、ドイツは世界の中でもひときわ住みやすい国のひとつだと思われるでしょう。

エリート国家としてのいびつさを孕んだドイツ

ドイツという国を知る上で、ひとつ面白い統計データがあります。

各国の大学進学率

各国の大学進学率

出典 文部科学省

上記の図は各国の大学進学率ですが、先進国の中でも低いといわれている日本以上に大学進学率が低いのがドイツです。というのも、ドイツでの将来のキャリアは日本でいう小学校低学年の段階で決まります。日本の初等教育の場合「みんなが分かるまで」教え込むいわば「下にあわせた」教育方針ですが、ドイツではその下の成績の子供たちをその段階で切り捨てます。彼らはギナジウムには進まず、そのまま手に職をつける専門学校に進学し、販売員や職人になります。

というわけで、植物の剪定をおこなうような形で、地頭のよい(と思われる)子供だけがギナジウムに進学し、大学に進学し、そこでさらに優秀な人々が大学院に進学し、というエリートルートを辿っていきます。成績の悪い子を早い段階でふるい落とし成績の良い子だけを対象にした教育をおこなう、というよく言えば効率的、悪く言えば見切りの早い教育制度をしています。日本の場合、中学高校までチャンスがありますし、あとから大検をとることも、何回も大学受験することもできますので、おしなべて寛容な教育制度だと思います。

そんなわけで、大企業の管理職につくような人は、エリート教育を受けた大学院卒のエリートたちです。彼らは理論的ですし、もちろん英語もしゃべれますし、映画や本などにでてくるいわゆるスーツを着てピシッとしたエリートドイツ人のイメージはみなこのエリートのイメージに基づいています。

対して、小学校の段階で学力に見切りをつけられてしまった人々はその後もすでに学業の道からは遠ざかっていくわけで、英語も話せなければ複雑な算数の計算もできません。彼らの人生に対してとやかく言う気はさらさらありませんが、要するに小学校低学年での成績が人生を大きく篩い分ける社会構造になっている、というわけです。

1~6(6が最低)までの成績が用意されており、授業態度や試験の出来によって、通信簿の内容が決まります。この、『Grundschule』の成績をもって、ドイツの10歳程度の子供たちの将来は大きく左右されていきます。

さて、現在ドイツは移民問題で揺れています。別に現在に限ったことではなく、かつてはドイツはナチスの台頭を許しています。こんなときに先頭に立って移民や異民族を攻撃するのは、紛れもなくこういった移民たちによって「職を奪われる」エリートではない人々です。ヨーロッパで多くの「アジアやアフリカに差別的な人」を見てきましたが、彼らは決まって「ゆとりのない」人々です。政府の人気がなくなったときに、いつの時代もどこの国でも、社会に不満を持っている人の目を外に向けさせることは重要ですし、簡単です(似たように、戦後の日中の関係が急激に悪化したのは天安門事件以降で、政府はまさに国民の鬱憤を外に向ける必要がありました。今まさにアメリカではトランプが、こういった国の中で「持たざるもの」の票を集めようとしていますし、これはまさしくナチスドイツが行ったやり方と同じで、不満の捌け口を別の方向に誘導するのにもってこいの作戦です)。

一見してドイツという国は非常に優秀な人々の集まりに思えますが、このように、どこの国にもあるように国内に少なからず学歴・社会的立場などの差異や矛盾を孕んだ構造になっています。これを果たして「理想的な社会モデル」というのかは知りません。少なくとも社会ピラミッドの上のほうの人々からみたらそうかもしれませんが。