ドイツの大学院でエコに関する講義を受けてみた感想

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ドイツといえば、エコ大国で有名です。スーパーに行けば袋は有料ですし、ペットボトルも空き容器をスーパーに持っていかないと換金してもらえません。ごみは厳密に分別されており、街中には服や靴などを捨てるリサイクルボックスが設けられています。

さて、ドイツ人はどうしてここまでエコに関心があるのでしょうか。今回は、ドイツの大学で習った持続可能性の講義(私は経済系の学部ですが、必須科目で受講させられました)をもとに、ドイツ人のエコ意識を学んでいきたいと思います。

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エコとは何か

まず、いきなりですが『エコな社会』とはなにか、というところから話を進めていきましょう。CMや広告でみるように、ソーラーエネルギーやリサイクルをすれば、必ずしもエコな商品、ということになるのでしょうか。

まず、エコ活動の始まりですが、20世紀は戦争とテクノロジー発展の世紀で、人口や産業は幾何学級的に増加、発展を遂げました。この段階で、国や人々は、基本的にGDP成長を念頭においており、環境問題なんて二の次です。米ソは核実験をばんばんおこない、化学物質は川や海に垂れ流し、日本でも公害事件が数多く発生していますし、こうした時期に、科学者の中でも警鐘を鳴らし始める人々が出てきました。

1972年『The limits of grows(成長の限界)』という書籍が出版され、このころから、世界的にもちらほらと、環境保全、持続可能な社会、という用語が、人々の頭の中に植え付けられていきます。乱獲、汚染物質の垂れ流しは、短期的には採算が取れていいかもしれませんが、長期的に見ると地域、ないしは人類自体が損をすることに、バカではない人々が気付き始めたのです。

Sustainable development is development that meets the needs of the present without compromising the ability of future generations to meet their own needs.

『「持続可能な発展」とは、将来の世代のニーズを損なうことなく、現在の世代のニーズを満たすことを指す』

(from the World Commission on Environment and Development’s report Our Common Future, 1987)

この上述の一文は持続可能な発展に関連した有名な文章で1987年のものですが、いまだに『持続可能な社会』の定義といえば、この一文が持ち出されます。ただし、ここでは、現在一義的に使われている「環境に良い」というだけではなく、持続可能な社会とは『経済的』『社会的』『環境的』の3つの側面から見て、安定した発展を遂げていける社会であることが定義されています。

例えば、いくら環境に良い車を開発したとて、コストがそれに見合わず一台5000万円もするのであれば、経済的な安定性を満たしているとはいえません。環境汚染の方もやばいですが、マルクスが資本論で警鐘を鳴らしたように、膨れ上がっていく資本もそれなりにやばいので、世界のバランスを崩さず上手く発展していくには、上述の3つの面を上手く並行しながらマネジメントしていくのがよい、というわけです。

服や靴のリサイクルボックス

服や靴のリサイクルボックス

よくエコや貧困改善は博愛的な問題として片づけられてしまいがちですが、本来的には、先進国国民を含めた、我々人類の子孫に関わる問題で、この問題の解決なしに我々人類の未来はない、といっても過言ではありません。

ただし、この辺がいまだに難しいところなのですが、持続性のとらえ方は議論がなされる問題で、そもそも温暖化の原因はCO2ではないのじゃないか、とか、自然界の資本は人工的に補うことができるWeak Sustainability(弱い持続性)とか、環境問題の考え方も一つではありません。現在最もあつい議論としては原発の有無があります。原発の暴走は人類を滅ぼしかねませんが、原発自体には経済的かつ環境的(一部批判アリ)と言われており、どちらの道をとるのかはその国の方策に定められています。

さてその後、1992年、ブラジルのリオで持続可能な社会のためのアクションプラン『アジェンダ21』が採択されました。法的な効力を持つ条約ではありませんが、これが世界的に環境への取り組みを足取りをそろえる土台になったとも言えます。

その後、EMASやISO14000familyなど、企業の環境への取り組みを促進するようなスキームが構築されたり、京都議定書のような国ごとの目標が割り振られたりと、少なくとも20世紀前半と比較すると、我々の環境への取り組みは少しずつ改善をみせています。

日本とドイツの環境問題のとらえ方の違い

これは、私がドイツに住んで感じた個人的な感想であって、一般論ではありません。まず、日本もたしかに環境問題には割と力を入れていると思います。実際に、ISO14001の取得をみても、日本は頑張っていますし、自動車産業でもエコには力を入れています。

ただ、消費者レベルの考え方からすれば、まだ『右へ倣え』的な風潮が強いのかと思います。要するに、周りがそうしているから自分もそうしている、というので、メディアの印象操作などの影響もあると思います。少なくとも、私が以前勤めていた会社はそれなりに大手でしたが、やっている環境への取り組みは今思うと割と的外れなものでした。

一方、ドイツはというと、なぜこうしなければいけないのか、という意見を個人レベルで持っています。ペットボトルのリサイクルがどれだけCO2削減に効果をあげて、最終的に我々の子孫の世代がニーズを得られるような世界が築けることこそが、持続可能性の目的であり、彼らもそのことを理解しています。

例えば、500円だけどその製造過程でCO2の排出量がゼロに近い製品Aと、100円だけど排気ガスを垂れ流して作られた製品Bとでしたら、ドイツ国民は製品Aを選びます。多分、誰も見ていなくてもAを選ぶと思います。

何かドイツ人には『不安症』なところがあり(これはwikipediaで『German Angst』で検索するとでてきますが)、特に学問的な分野でも将来に対する警鐘的な研究が多いような気がします。原発も、環境への働き掛けも、ヨーロッパの中で特にドイツ人だけ以上に頑張っている気がしますが、そうした不安感から来ているものも大きいと、あるドイツ人の友人が説明してくれたことがあります。

さきほどちらっと話題にのせましたが、ISO14001というものがあります。ドイツではEMASというものもあるのですが、どちらかといえばISOシリーズの方が世界的に有名になり始めており、日本の企業でもこれを取得している企業は数多くあります。

さて、これは何かというと、簡単にいうと『環境への取り組みをしている企業を見分けるための』ものです。これを取得したからと言って法人税が軽減されるわけでもありません、ただ単に環境への取り組みを頑張っているね、というためのステッカーのようなものです。

これがなぜ重要なのかというと、生産過程での効率化、という側面もありますが、大きなところでは『消費者が製品を選択する』際の指標の一つになりえるところです。ISOを取得しているメーカーAとしていないメーカーBとで購入を検討している際に、顧客の嗜好がそれだけ環境に向いていれば、前者が選択される確率が上がります。

というわけで、国民の嗜好が『環境に良い製品』である国であればあるほど、ISOシリーズの価値は高まって来るというわけです。そのためには結局、国民一人一人の環境への意識が重要だということになり、多くの人間が『私は環境に悪くても安い製品を買うわ!』と思ってしまっていたら、この戦略は成り立たないことになります。

資本主義とは、資本の交換を軸とした比較的『自由市場的』な経済ですが、無政府的に自由なわけではありません。未来を見据え、規制、規則のような原則が市場に存在していないことには、ただ商品が売れさえすればいいという、人間への健康や環境被害を無視した、混沌とした世界になってしまいます。

それを防ぐために、政府や国境を越えた団体の力が働くべきであって、またそうした行き過ぎた資本至上主義を防ぐためにも、消費者の判断や環境への知識が必要になってくる、というわけです。