イスラエルとドイツ:ガザ問題に見るドイツのパレスチナ報道

イスラエル

ドイツで基本的に、声高にふれてはいけない話題が三つあります。『政治』『ナチス』そして『宗教』です。これらを日本語だろうとドイツ語だろうと公衆の面前で話し合うことは極力さけましょう、ドイツにはいろいろな民族がすんでいます。

さて、最近ニュースを賑わせているのが、スコットランド独立、ウクライナとロシア、それと並んで最近まで報道されていたのがガザ地区問題です。

8月27日にハマスとイスラエルで無期限の停戦合意が締結されましたが、それまでにパレスチナ側では2000人近い死者と10,000人を超す負傷者が、イスラエル側では100足らずの死者が出ました。

Seit Beginn des Gaza-Kriegs am 8. Juli sind nach Angaben des
palästinensischen Gesundheitsministeriums mehr als 2130 Palästinenser
getötet und mehr als 11 100 verletzt worden. Auf israelischer Seite
starben 64 Soldaten und 6 Zivilisten.

依然として問題の根本は解決しておらず、いつふたたび火をふくか分からない状況です。

というわけで、今回は、ガザ地区の紛争とそのおこりについてまとめていきたいと思いますが、決して私はどちらがいいとか悪いとか言うつもりはありませんので誤解のないようにお願いします。

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3つの宗教の聖地・イスラエルの抱える歴史的問題

1.ユダヤ教から見たエルサレム

旧約聖書の中にイスラエルの名前は『カナンの地』として登場します。

紀元前1600年ごろ、エジプトに住んでいたイスラエル人たちが迫害をのがれ、モーセとともに川をわたって約束の地、カナンに定住するというエピソードです。

『出エジプト』として記されていますが、これがユダヤ教とイスラエルの関係の起源とされています。それからユダヤ人はバビロン捕囚、と呼ばれる新バビロニアによる集団拉致事件を経験し、バビロンに囚われますが前538年には、許されてエルサレムへと帰還します。

このことが、のちのユダヤ教信仰を決定づけることとなり、このときエルサレムには神殿が築かれ、ユダヤ教の聖地となります。

その後、ユダヤ人はローマ帝国による支配をうけ、2世紀ごろにバル・コクバの乱でローマ帝国に破れると、ユダヤ人はエルサレムを追い出され、流浪の運命にさらされます(民族離散)。

これ以来、エルサレムはユダヤ人の天敵の名をとり『パレスチナ』と呼称されることとなり、これから、1900年ごろのシオニズム運動をまつまで、ユダヤ人たちは長い流浪と迫害にさらされ続けます。

2.キリスト教から見たエルサレム

イエス・キリストが生まれたのも、イスラエル近くのナザルという地です。

ここで聖母マリアに懐胎されたイエスは生をうけ、30歳ごろからユダヤ人にも隣人愛や神への愛を解くようになりますが、利害のあわないためユダヤ人による迫害をうけます。

結局、イエスはイスラエル郊外にあるゴルゴダで処刑されましたが、のちにローマがキリスト教に改宗したため、やはりキリスト教にとっても重要な地となります。

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3.イスラム教から見たエルサレム

さて、イスラム教徒からみても、やはりエルサレムは重要な場所です。570年に預言者ムハンマドが誕生し、エルサレムを征服します。

このとき、ムハンマドが神殿をたてたのもエルサレムであったため、キリスト教徒たちは以後、この地を奪還しようと十字軍を派遣し、イスラム教、キリスト教、ユダヤ教の3宗教が入り混じる、民族紛争の場として広く知られていきます。

オスマン帝国の衰退とシオニズム

16世紀にオスマン帝国が台頭すると、イスラエルはオスマン帝国の領土とされます。

以降、1900年代初頭までイスラエルはオスマン帝国の領土となりますが、やがてオスマン帝国は近代化についていけず、瀕死の病人と揶揄されるように衰えていきます。

また、このころフランスはドイツに普仏戦争に敗れ、ドレフュス事件という、ユダヤ人将校に対する冤罪事件が勃発し、ユダヤ人の『シオニズム』という、故郷への回帰運動を引き起こします。

普仏戦争でも同様に戦術的天才を見せつけたモルトケは、ナポレオン3世を大いに破り、ついにビスマルクとともに念願のプロイセン統一を果たします。

さて、積年してきた歴史的・宗教的な問題の数々が、第一次世界大戦とともに噴出することとなります。現在も続いているユダヤ人・アラブ人の憎しみの発端は、イギリスの二枚舌外交によって生み出されました。

第一次世界大戦とイギリスの外交

冒頭で私はユダヤ人にもアラブ人にも与さないと書きました。紛争や戦争にはどちらにも正義がありますし、どちらにも言い分があります。

ただ、強いていうなればイギリスの二枚舌外交はこの紛争の原因であり、責任があると私は思います。

第一次世界大戦に際して、イギリスはアラブ人(イスラム教徒)にもユダヤ人にも『オスマントルコを打ち負かすことに協力してくれたら、エルサレムで独立していいよ』と持ち掛けます。

結局オスマントルコは第一次世界大戦に敗れ、イスラエルはイギリスの統治領となります。初めのうちこそ、この地でアラブ人とユダヤ人は共存して生活していましたが、第二次世界大戦あたりから、この両者の宗教間に対立が芽生え始めます。

ホロコーストとユダヤ人の入植・パレスチナ分割協議

1933年のナチスの政権奪取から、第二次世界大戦期間を通じて、民族の血統を訴えるナチスによって大量のユダヤ人が虐殺されました。

1938年にはKristallnacht(クリスタルの夜)と呼ばれるユダヤ人迫害運動がドイツで勃発し、戦時期にはガス室と呼ばれる殺戮施設でたくさんのユダヤ人が処刑されます。

こうしたナチスの迫害を逃れるために、シオニズムの名の下に、多くのユダヤ人がエルサレムへの入植に向けて移動を開始します。

ここにおいて、今までイスラエルにおける安定していたアラブ人とユダヤ人の関係性が崩れ始めました。

第二次世界大戦後、アラブ人とユダヤ人の争いは収拾がつかないものになっていきます。イギリスも、今大戦で戦勝国になったとはいえ、国内はドイツ軍の爆撃で疲弊し、東南アジアの植民地も失っていきます。

こうした中でイギリスはこれ以上、自国の手には負えないと判断し、国連にイスラエルの保護をまかせます。収拾着かなくなったのでついに放っぽりました。

新たに発足した国連は、パレスチナの分割決議案をみとめます。しかし、人口バランスに比例せず、アラブ人、ユダヤ人ともにイスラエルを折半とする分割内容だったため、アラブ側の反発を招きます。

もともと、この国連決議も、アメリカやフランスなどが、紛争の火種になりやすいユダヤ教徒を自国から追い出して、さっさとイスラエルにでもいってくれ、というニュアンスが含まれていました。

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中東戦争の勃発とオスロ合意・ガザ侵攻まで

それからアラブ諸国とイスラエルの戦いが続きます。1948年にパレスチナ戦争、1956年にスエズ戦争、1967年に第三次、1973年に第四次の戦争が勃発し。これらを総称して中東戦争と呼ばれます。

こうした一連の戦いを通じて、イスラエル側は当初認められた自治領から徐々に領土を拡大していきますが、1993年のオスロ合意をもって一旦戦争は停戦します。

これによってイスラエルと、パレスチナ自治政権の二つがこの地に誕生し、双方を承認しあう形となりました。

しかし、これをよしとしないイスラム過激派のテロ攻撃は繰り返されます。

イスラエルとしては、民間人を狙うなど卑劣だという言い分になりますし、イスラム教徒からしてみたら自分の国を奪った、ヨーロッパの兵器を携えたやつらに正攻法で挑んでも無理があるだろ、という言い分です。

この度重なるテロ攻撃に業を煮やしたイスラエル政府は、2006年にイスラム過激派の撃滅のために、ガザ地区へと侵攻を開始します。

ガザ地区に住んでいるのは、パレスチナ戦争(第一次中東戦争)で難民となった、もともとこの地に住んでいた住民とされています。

さらに、2007年にはこのパレスチナ自治領内でクーデターがおき、ハマスという単独政府が成立します。

ガザ地区ハマスとイスラエルの戦争の構図が、今もって話題になっているガザ問題のことです。

イスラエルはハマス政府に対して経済封鎖や資源奪取などをつづけ、それに対抗するために国力のないハマスはロケット砲による攻撃をイスラエルに対して行ったために、今回ふたたびガザVSイスラエルの戦いが激化している状況です。

ドイツにおける報道

さて、前座が長くなってしまいましたが、ここからドイツ国内におけるガザ問題報道を少しまとめていきます。

戦闘が激化した7~8月ごろには毎日のように新聞やラジオでガザ問題が取りざたされていました。

8月にはドイツ各地でトルコ人やアラブ人のデモが勃発しました。ドイツ人は国民の20%が移民であり(もっとも多いのはトルコ人)、そうしたマイノリティの声も数があつまることで声高にさけばれているのです。

Waffenruhe zwischen Israel und Hamas hält in der Nacht

『イスラエルとハマスの砲声が鳴りやんだ夜』

8月26日に、ついにハマスとイスラエル政府との間で停戦協定が結ばれます。

Seit 19 Uhr gilt die unbefristete Feuerpause zwischen Israel und der Hamas. In den ersten Stunden blieb es ruhig, es flogen keine Raketen oder Granaten. In Gaza feierten Tausende das Ende der Gewalt.

『8月26日19時からイスラエルとハマスの間で無期限の停戦協定が結ばれた。最初の1時間は静寂がつづき、ロケット砲も榴弾も飛んでこなかった。ガザの多くの市民はこの戦闘の終結を喜んだ。』

今も各地で紛争は続いています。それらの歴史をひも解いてみると、様々な宗教・民族の入り組んだ歴史がかいまみることができて興味深いです。

この停戦が長らく続くことを祈って、今回のまとめは終了にします。