ドイツとナチスの歴史:ドイツ人は歴史をどう認識しているのか

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今でこそ日本もドイツも、先進国の一員としてそれなりの地位を築いている国ですが、70年前にはともに焼け野原になった過去があります。

日本はその後沖縄を占領されましたが、ドイツは東西に分断され、1989年まで長いこと分断の歴史に苦しめられました。

そうした戦争と戦後の歴史を物語る上で、ドイツの社会では『ナチス』はどのように物語れているのでしょうか。今日のドイツにおける歴史認識についてまとめていきたいと思います。

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ドイツと今日の歴史認識

私の意見ではなく、あくまで一般論から述べると、戦後の社会の中で『ファシズムは悪』で、それを打ち破った同盟国(米英ソなど)が正義であると言われています。

ドイツ人の中でもやはり『ナチスは悪』という見方が普通です。中には人種差別主義者など、今でもナチスを崇拝している人もいますが(有色人種を目の敵にする人たちです)、一般的なドイツ社会の中ではナチスの歴史は『負の歴史』として見られています。

そうした歴史に目を閉ざすのではなく、ドイツでは主に冷戦終結後から『なぜナチスの台頭が始まったのか』というものにも積極的に研究の目を向けており、多くの町には『ナチスミュージアム』すなわち(崇拝目的ではなく)ナチスを忘れないように、という博物館が建てられています。

ナチスミュージアムの展示

ナチスミュージアムの展示

そうしたところでは、イベントとして戦争を生き抜いた人々の話が聞けたり、生々しい当時の映像を見ることができます。

私も主にドイツ語の勉強の一環として、こうした場に何度か足を運んでみましたが、談話しかり映像しかり、ためになるものばかりでしたので、近くでそうしたイベントがある方は是非足を運んでいただけたらと思います(当時を知る人も次第に少なくなってきていますし)。

彼らを見習わなくてはならないと感じた点が、単なるナチスや母国批判ではなく『なぜなのか』『なぜこうした事態がおこったのか』という歴史を問いただすドイツ人の姿勢です。

以下、これからドイツの歴史を学ぼうと思っている人や、歴史認識に興味をもたれた方に、そうした場で学んだナチスの歴史について簡単にまとめていきます。

焼け野原の写真(博物館)

焼け野原の写真(博物館)

ベルサイユ条約と戦後のインフレ

ナチスが政権掌握をしたのは1933年のことです(この1933年という年は多くのドイツ人にとって重要な年のようです)が、その原因を探るためにはそれ以前に遡らなければいけません。

今からちょうど100年前、1914年に勃発した第一次世界大戦にドイツは参戦し、敗戦国となりました。

両方面を相手取ってしまったこと、諜報戦の敗北、内部の反乱など、原因は色々と考えられますが、ともかくこの一大決戦に敗れたドイツは天文学的な賠償金と、屈辱的な領土割譲を味わいました。

1919年に敗戦国ドイツに『ヴァイマール共和政(Weimarer Republik)』が樹立します。
これによってドイツは君主政国から民主主義国家へと移行しますが、多額の賠償を支払うために紙幣を濫発したことによって、ハイパーインフレが引きおこります。

『ベルサイユ体制』と呼ばれるこの第一次世界大戦後の体制によって、ドイツは完全に牙を抜かれてまい、また賠償金の支払いに終われるはめになりました。

このベルサイユ体制下で、着実にドイツ労者党(ナチス)は民族の復権をかけて、次第に水面下で力をたくわえていきます。

もともと産業に自力のあったドイツは、シャハトという有能な総裁の存在もあり、戦後のハイパーインフレから脱却し、ふたたび先進国としての力を蓄えていきます。

世界恐慌とナチスの政権掌握

しかし、1929年に世界を揺るがす大事件が勃発しました。ウォール街の大暴落をきっかけに、世界的な株安・大恐慌がまきおこったのです。

この大恐慌の波が、インフレから立ち直ったばかりのドイツを直撃しました。この当時、ドイツはおもに輸出政策によって国内の経済を安定させていましたが(日本も同様)、大恐慌の影響を防ぐために、イギリスやフランスが自国の植民地内で経済を循環させる『ブロック経済政策』をとったことで、輸出額が激減してしまったせいです。

ドイツはなんとか金融の安定を保つため、オーストリアと金融安定のための関税同盟を結ぼうとしますが、これは『ベルサイユ条約に違反する』といったフランスの反対で、逆にフランスから資本を引き揚げられてしまう制裁をくらい、余計に混乱が増しました(このとき、オーストリアの銀行が破たんしています)。

博物館のヒトラー

博物館のヒトラー

ドイツの町は失業者が溢れ、治安は急激に悪化しました。さながら世紀末の様相をみせていたドイツにとって、民俗の誇りをうたい、不景気から脱出させてみせるといったNationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei(ナチス)は、国民にとって救世主のように思えたのです。

ここから、ナチスの台頭がはじまり、結果として1933年の政権掌握を許します。もっとも、ナチスのとった経済政策は、失業率40パーセントを越えるドイツの労働者を、アウトバーンや軍備施設などで雇用する施策であったため、多くの国民の支持を呼びます。

こうしてドイツは先進国に先駆けて大恐慌から逃れましたが、内需の限界といびつな経済構造は、すでに外地獲得以外の道を閉ざしていました。

ユダヤ人の大虐殺

第一次世界大戦後の屈辱的な賠償のため、ドイツは民族の誇りを必要としました。その矛先が、ユダヤ人に向けられ、不穏な空気が流れるなか、ドイツ人のユダヤ人排斥運動は1938年11月のKristallnacht(水晶の夜事件)によって爆発しました。

1938年にはKristallnacht(クリスタルの夜)と呼ばれるユダヤ人迫害運動がドイツで勃発し、戦時期にはガス室と呼ばれる殺戮施設でたくさんのユダヤ人が処刑されます。

(ユダヤ人の歴史とガザ問題に関してはこちらを参照してください)

多くのユダヤ人の家が破壊され、窓ガラスが割られたことから『水晶』と呼ばれるようになり、以後公にユダヤ人がナチスによって迫害されるようになり、のちのアウシュビッツのような悲劇を招く結果となります。

博物館の展示

博物館の展示

ドイツ人の『ナチスは悪である』理論は、おそらくこの『ユダヤ人への迫害』からきていると思います。戦争はそれぞれがそれぞれの論理をもって戦った結果ですし、お互いの大義名分もありますが、虐殺は一方的なものなので、それが呵責になっていると言うドイツ人がいました。

フランス人が以前『ドイツ人の戦争を語る人の多くは、自分の両親はナチスに反対していたと言う。全部本当ならドイツ人のほとんどがナチスに反対していたことになる』と言っていました。

実際には『白い薔薇』のように、ナチスに対抗したドイツ人グループもありましたが、それらのほとんどは少数派です。

ナチスに立ち向かったSophia Scholl

ナチスに立ち向かったSophia Scholl

https://www.dhm.de/lemo/biografie/sophie-scholl

こうしたナチスへの抵抗者は、今でも切手になったり、根強い人気を博しています。この『Sophia Scholl(the final days)』という映画は、ナチスに抵抗したゾフィー兄妹の裁判を物語ったものですが、当時の裁判の様子など再現されていて中々面白かったです。

ナチスの話題は公にはするとトラブルをおこしますが、気心のしれたドイツ人の間では割と語りたがるような人もあります。そんなときに、最低限の知識があれば、話にもついていけて勉強にもなりますので、映画や書籍など目をとおしてみることをお勧めします。

ドイツをめぐる近代史のまとめ:目次

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