ウィーン体制と諸国民の春:ドイツへの影響

ナポレオン戦争はフランス一国の問題では終わらず、ヨーロッパ全体に多大な影響を与えました。ナポレオン戦争の主戦場となったプロイセン、オーストリアも大きな影響を被った国の一つで、このことが将来のドイツの命運を決定づけます。

今回は、ナポレオン戦争の結果発生したウィーン体制と、それに引き続いておこることとなるドイツ統一戦争の流れについてみていきましょう。

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ナポレオン戦争の終結と、ウィーン体制

ナポレオン戦争のコンセプトは、「市民」の、王政による抑圧からの解放です。この潮流は1792年に勃発したフランス革命からナポレオンがワーテルローの戦いに敗れてセントヘレナ島に永久に島流しになるまでのナポレオンの態度でした。

つまり、市民vs絶対王政、という図式だったのですが、ナポレオンが敗れ去ったことで、欧州各国は再び絶対王政を復活させようとします。フランスではルイ18世(フランス革命で処刑された16世の弟)が即位し、フランス革命以来約20年ぶりにブルボン王朝が再興されます。

ナポレオン以前、欧州各国の王政は、政略結婚など巧みな外交によってバランスを保っていました。要するに、戦争するにしても、どちらかが全滅・破滅するまで戦争するような総力戦はなく、あくまで互いの王政を守るために戦われていました。

それが、ナポレオンの登場によって一変します。ヨーロッパをめぐる勢力図は一変し、絶対王政が揺らぎかねない事態となりました。というわけで、ナポレオンが敗れ去ったあと、欧州各国は再びナポレオン以前のなあなあな勢力均衡を、王政にとって平和な欧州を取り戻そうとするわけです。そんな中開かれたのが「ウィーン会議」でした。

この会議は「会議は踊る、されど進まず」の語源であることでもわかるように、お互いがお互いの利益を重んじて遅々として話し合いが進まない状況です。これに乗じてナポレオンがエルバ島を脱出し、再びフランスに舞い戻るくらいです(その後、ナポレオンはワーテルローで破れ、今度は死ぬまで島人となります)。

会議は踊る、されど進まず

会議は踊る、されど進まず

(風刺画:会議は踊る、されど進まず)

さて、この時代の特徴ですが、今の時代では考えられませんが、ナショナリズムという理念よりも、上述の通り王政の維持が重要視されていました。

ですので、王たちにとっては、あまり市民に力を持ってほしくないので、ドイツの統一のような動きはもってのほかです。市民は王政にとって従順は手駒である必要があります。ドイツは再び「ドイツ連邦」という、分離した共同体国家と化します。

ちなみに、この体制の立役者はオーストリアの宰相、メッテルニヒです。特にオーストリアはハンガリーなど様々な民族によって成立する多民族国家ですので、ナショナリズムなんて厄介なものが巻き起こったら、帝国自体が消滅する危険性を孕んでいました。そんな危ないものはさっさと弾圧してしまうに限ります。

そんなこんなで、王政による支配を再び確固たるものにする「復古王政」、あまり一つの国が力を持つとまたナポレオンの二の舞になるのでみんなで足並みをそろえようね、という「勢力均衡」などのコンセプトのもと、ウィーン体制が定められたわけです。

この体制のもと、各国の外交バランスを整えるために「四か国同盟(のちにフランスが加入して五か国)」「神聖同盟」などが締結され、欧州には平和が戻ります。さて、これはハッピーエンドでしょうか?

王政は復古され、戦争はなくなり、支配は盤石なものになりました。ところが、市民の願いである「自由主義」は、いまだ手の届かないところにあったのです。

ウィーン体制の崩壊とドイツ統一への動き

戦争が起きる、戦争で人が死ぬ、これらは基本的に避けられるのであれば避けて通りたいものです。ただ時として、人間の確固たる信念やイデオロギーは、こうした平時の倫理感から逸脱した倫理感を要請します。

(おそらく、この信条の違いから、憲法改正のように戦争を想起しそうな危ういトピックは、永遠に賛成派と反対派の間で平行線なのでしょう。それぞれの意見の基礎となる価値観・倫理観が根本的に異なるわけで)

明治維新が己の信条のために命をかけた侍たちの運動だったように、明治維新から遡ること約半世紀、欧州で巻き起こった歴史の流れも、政治家ではなく名もない市民たちの手によってつくられたものでした。

1817年、ドイツで学生による自由主義を求める運動がおこりました。この運動の立役者は、ナポレオン戦争に従軍したドイツの学生たちです。ナポレオン戦争は、欧州各国にナショナリズムを引き起こしました。

3年後にはイタリア、さらにナポレオン戦争では半島戦争でゲリラ化してナポレオンを苦しめたスペイン、モスクワを焼き払ってまでナポレオンに勝利したロシアなどでも、大規模な市民による運動が巻き起こり始めます。

海外でも、同じ流れが巻き起こります。南アメリカのスペイン、ポルトガルの植民地はこぞって独立運動を開始、ナショナリズムの高揚は、すでに世界規模で手の付けられないものとなりました。

ロシアやドイツなどでの運動は、かろうじて各国の軍隊によって抑えられていたものの、次第にウィーン体制は盤石とはいえないものとなってきました。

そんな中、フランス革命発祥の地、フランスにて、ついに王政が打倒される事件が勃発します。1830年「7月革命」の発生です。ブルボン王朝は再度打倒されました。

民衆を率いる自由の女神(ドラクロア)

民衆を率いる自由の女神(ドラクロア)

出典:民衆を率いる自由の女神(ドラクロア)

このことはウィーン体制を揺るがせる一つの契機となりました。やがて、ドイツ国内でも変化が見られます。1834年ドイツ関税同盟の成立によって、ドイツは統一への階段を上り始めます。そして絶対王政の象徴のようなウィーン体制はというと、1848年、各国民族による独立運動「諸国民の春(Völkerfrühling)」によって、ついに崩壊を迎えます。

日本では、浦賀にペリー率いる黒船が来航する5年前のことです。