第一次世界大戦とドイツその6:無制限潜水艦作戦とアメリカの参戦

If people bring so much courage to the world the world has to kill them to break them, so of course it kills them

「もしも人々があまりに多くの勇気をこの世界にもたらすのならば、その勇気を打ち砕くために彼らを殺さなくてはいけない。そう、容赦なく殺すのだ。」武器よさらば(ヘミングウェイ)

帝政ロシアが内戦によって戦争から離脱したため、膠着していた戦況は急転直下でクライマックスに突入します。大戦の最後の鍵を握るのは、いまだ無傷の超大国、アメリカです。

スポンサーリンク

アメリカをめぐる状況と参戦

ここからは、少し政治的な頭で物語を読み解かなくてはいけません。すなわち、モンロー主義(孤立主義:大国間のいざこざにはつきあわない、との主張)を掲げていたアメリカがなぜ、このヨーロッパの国々の殺し合いである第一次世界大戦に参戦する必要があったのか、という疑問です。

表向きに言われているのは、ドイツ軍の無制限潜水艦作戦(イギリスの船を無差別に潜水艦で沈め、経済的に孤立させようという作戦)によるルシタニア号の攻撃と、それに伴うアメリカ人民間人の死ですが、これをアメリカの参戦理由というのは、日本のバブル崩壊の理由は不動産バブルがはじけたから、というくらいあまりに表面的な解釈で、その背後に潜む文脈を無視しています。

ドイツの潜水艦によって撃沈されたルシタニア号

ドイツの無制限潜水艦作戦は、単にアメリカが参戦するための口実にすぎません。大義名分もなしに、アメリカは戦争を始めるほど馬鹿ではありません。アメリカが当時最も危惧していたのは、当時戦争中にイギリス・フランスに貸していた戦費が、両国が敗戦国になってしまうと、取り立てられなくなる恐れがある、ということです。

さらに、当時のアメリカの貿易国はイギリスとフランスです。特にイギリス海域がドイツの潜水艦によって危機にさらされると、当然アメリカの貿易も苦しくなり、産業に悪影響を及ぼします。

もともと、ドイツ潜水艦によるルシタニア号事件の勃発はアメリカ参戦から2年も前の1915年ですし、ドイツ軍は「この海域を通るイギリス国籍の船は危険だぞ」という以下のような通達を親切にもアメリカに向けて出しています。のちに米軍が第二次世界大戦でおこなう無差別爆撃に比べたらよっぽど紳士的です。

TRAVELLERS intending to embark on the Atlantic voyage are reminded that a state of war exists between Germany and her allies and Great Britain and her allies; that the zone of war includes the waters adjacent to the British Isles; that, in accordance with formal notice given by the Imperial German Government, vessels flying the flag of Great Britain, or any of her allies, are liable to destruction in those waters and that travellers sailing in the war zone on the ships of Great Britain or her allies do so at their own risk.

「大西洋航海を行われる渡航者の皆様、どうかドイツとイギリスが交戦中であることをご認識ください。その交戦地区には、ブリテン島およびその周辺海域が含まれます。ドイツ帝国政府の公的な通知によれば、イギリスおよびその同盟国の国旗を掲げた船はそれら海域において攻撃対象となります。こうした撃沈のリスクに対しては、渡航者の皆様も同様であり、どうかこのことをご認識ください」

結局、このルシタニア号事件以降もアメリカは2年間、沈黙を守りますが、1917年、上述のように産業、経済界からの要請で、ようやく重い腰をあげて第一次世界大戦参戦に踏み切ります。1917年4月、ロシアが革命で揺れる中、アメリカはついにドイツに宣戦布告を果たします。

ルーデンドルフ独裁と春季攻勢に向けた準備

無制限潜水艦作戦の再開は、ドイツのルーデンドルフによって強硬に支持された作戦でした。無制限潜水艦作戦のコンセプトは、当時世界最強の海軍力を保持するイギリスを力でねじ伏せるのは困難なので、通商破壊によって経済的にダメージを負わせよう、というナポレオンの大陸封鎖作戦と同じ考えです。

ルーデンドルフは、1914年、第一次世界大戦勃発時に、無人の野を行くがごとく東プロイセンに進撃した40万のロシア軍を、わずか15万のドイツ軍で破り、その名を轟かせた不世出の将軍です。この、ドイツ帝国屈指の名将が、にっちもさっちもいかない戦争に対し業を煮やし、だんだん参謀本部内で発言力を持つようになっていきました。

ルーデンドルフ大将

彼の戦争に対する態度は、彼の著書にも表れているように「総力戦」です。国家の危機にあっては、マスコミ、政府、国民に至るまで、徹頭徹尾勝利に向けて一丸となる必要がある、というのちの大日本帝国の国家総動員法的な考えの元になったものです。これにより、彼は多くのプロパガンダを作成、思想統制を行いました。

Das Militär kommt nach der Politik, nur im Kriege ist es ihr Schrittmacher (Ludendorff)

「軍事は政治に追随するものだが、戦時下にあってはその逆だ ルーデンドルフ」

その彼が、頑強に徹底抗戦を主張します。アメリカの参戦は確かに脅威ですが、ドイツ国民が一丸となれば決して負けることはない、と戦争末期の日本軍人のような思想で反対勢力や講和を試みる勢力を弾圧します。

また、この時期、ドイツには時勢も味方しています。東部戦線でドイツの仇敵であり続けた帝政ロシアが、今や革命と内戦によって大戦継続どころではなくなり、戦線を離脱しようとしていたのです。この、ロシア帝国の小さな綻びが生じたのが2月革命時、そして完全に修復不能な大混乱に陥るのが10月革命時です。ドイツ国内でも、なんとなく戦争に勝てそうなムードが漂い始めました。

ところが、いかにドイツ軍が屈強であるとはいえ、すでに4年も東西の大国を相手に消耗戦を続けているわけで、兵と武器の損耗も少なくありません。対して、アメリカ軍はいまだに無傷で300万とも400万ともいわれる大軍がこれから動員可能です。さすがに、この大軍が大挙してヨーロッパに上陸し始めると、ドイツ軍もやや旗色が悪くなる感じは否めません。

つまり、この帝政ロシアが崩壊し、かつまだアメリカ軍が大量にヨーロッパに上陸を開始していない1917年末~1918年初頭のタイムラグこそが、ドイツ軍にとって西部戦線に全精力を傾け、大戦に勝利することのできる、最初で最後の、そして最大のチャンスだったわけです。

この千載一遇のチャンスにも関わらず、ロシアとドイツの交渉は1918年の2月まで難航します。これ以上死にかけのロシアに時間を割けばアメリカがいつ西部戦線に上陸してこないとも分かりませんので、業を煮やしたルーデンドルフは交渉を中断して内戦中のロシアに襲い掛かり、武力で講和に持ち込みます。こうして、今まで東部戦線にくぎ付けになっていたドイツ軍が、3月、急ピッチで西部戦線に送り込まれることとなりました。

ドイツ軍の狙いはただ一つ、アメリカ軍が本格的にヨーロッパに参戦する前に、ドイツの全精力をかけてフランスを撃滅することです。指揮官はタンネンベルグの英雄、ルーデンドルフ。1918年3月、両軍合わせて50万人の命が失われることとなる、ドイツ陸軍最後の大攻勢が西部戦線で開始されました。