活版印刷をもたらしたグーテンベルグと宗教改革への影響

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Selbst wenn ich wüsste, dass die Welt morgen in Stücke zerfällt, würde ich immer noch meinen Apfelbaum einpflanzen. Martin Luther

「たとえ明日世界が粉々に砕け散ろうとも、私は今からリンゴの苗を植えましょう」マルティン・ルター

今を遡ることおよそ2000年前、後漢時代の中国で、写筆に実用可能な紙が生まれ、これによって紙媒体の持つ利便性が格段に進化しました。しかしそれ以降、紙媒体は紙のまま、1400年近く、進歩を遂げることはありません。

その、長らく停止していた紙媒体の進化の歴史を、ようやく発展させたのが、今回紹介するグーテンベルグです。彼は人類2000年の歴史で最も価値のある発明の一つとして挙げられる活版印刷を発明し、これがのちのルターによる宗教改革に繋がっていきます。

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グーテンベルグの生い立ち

その人類史上に残るような偉大な発明をしたにも関わらず、グーテンベルグの前半生は謎に包まれています。おおよそ1400年前後に生まれただろう、というのは没年から推定できるのですが、幼少時代の生い立ちなどに関しては、誰にも知るすべがありません。

Johannes Gutenberg war der jüngste Sohn des seit 1372 als Mainzer Bürger und Handelsherr genannten Friele Gensfleisch zur Laden, der 1386 in zweiter Ehe die Krämertochter Else Wirich geheiratet hatte

参照元:Johannes Gutenberg

「ヨハネス・グーテンベルグは、1372年以降になってマインツの豪商として知られる、フリーレ・ゲンスフライシュと、1386年に2人目の妻として結婚した、小売商人の娘であるエルゼ・ヴューリヒの末っ子として生を受けた。」

彼の家は当時貴族の一員としてみなされていたようで、父親の商人としての稼ぎも悪くありませんでした。また、教会の造幣に父は携わっていたため、こうした金型の使い方などを幾度も目にする機会が、幼いグーテンベルグにはありました。それが将来、彼の活版印刷の発明を可能にした、とも言われています。

しかし、彼の少年時代は安穏としたものではありませんでした。やがて、マインツの新しい市長がギルドといざこざを起こし、彼の一家はマインツを離れることとなります。

Gutenbergs Kindheit und Schulbildung ist nur spärlich dokumentiert; 1411 musste die Familie mit über hundert anderen Patriziern nach einer Bürgermeisterwahl, die zu bürgerkriegsähnlichen Auseinandersetzungen mit den Zünften geführt hatte, Mainz verlassen.

参照元:Johannes Gutenberg

「グーテンベルグの少年時代と、その就学についての記録は、ほとんど残されていない。1411年、新しい市長選のあと、彼が引きおこした内戦まがいのギルドとのいざこざのため、彼の一家は、他の貴族仲間とともにマインツを去ることとなった」

この時代は、神聖ローマ帝国の時代の一部ですが、カトリック派の対立によるフス戦争や、オスマン帝国の台頭(1453年コンスタンティノープルの陥落)もあり、まさにドイツ全体(このころはドイツという呼称ではありませんが)が混沌としていた時代ですので、こうしたいざこざが各地であったというのは、何も珍しいことではありませんでした。

グーテンベルグ

彼のこの時代の痕跡は謎に包まれており、ようやく歴史にグーテンベルグの名前が登場し始めるのは、1419年、彼の父親が亡くなって、裁判所の記録に名前が書かれた時です。それから10年、再び彼は歴史の文書から姿を消しますが、1433年以降、文書に彼の名前が頻繁に現れるようになります。

Von 1434 an beweisen mehrere Dokumente, dass Gutenberg als Goldschmied, Spiegelmacher und nicht den Zünften angehörender Freimeister zumindest bis 12. März 1444 in Straßburg lebte, das mit rund 25.000 Bewohnern eine der größten Städte im deutschen Kaiserreich war.

参照元:Johannes Gutenberg

「1434年以降、彼がギルドに属していない金細工師、そして鏡職人として1444年の3月12日までシュトラスブルグに住んでいたことが多くの書物によって証明されている。シュトラスブルグは、人口25000人の、ドイツ帝国の最も大きな都市のひとつであった。」

この1444年までに、彼はシュトラスブルグで独自に、印刷業を開発していたと言われています。彼の職業、そして父親の造幣業を少年時代に間近で見ていたことなどが、おそらく彼のこの真新しい発明を可能にしました。

ところが、発明はお金がかかるものです。彼はそのために多くの借金をし、いくつかの金銭絡みのトラブルを抱えるものの、本格的な出版業者としての仕事を、1450年ごろから軌道に乗せはじめます。

活版印刷が発明されるまで、人類の文書はすべて手書きで行われ、複製も手書きに頼っていました。これを、グーテンベルグは機械での複写を可能にしたわけですが、なんでもかんでも手当たり次第複写する、というわけにはいきません。需要があるものを複写し、それを売って金にしなくてはいけないのです。上述の通り、彼はこの活版印刷機のために多くの投資をし、借金も残しています。

当時から、最も需要のある、そして需要のあり続ける書物とはなんでしょうか?すべての教会で読まれ続ける「聖書」です。彼が聖書に目を付け、印刷を始めたのは1455年です。これ以降、彼が印刷した聖書は180冊、現在でもグーテンベルグが印刷したとされる聖書は50冊現存し、世界各地の美術館や図書館に「グーテンベルグ聖書」として大切に保管されています。

グーテンベルグ聖書


http://www.typolexikon.de/gutenberg-johannes/

上述の通り、彼には金銭難があり、おそらく聖書を売ったのはどちらかというと信仰心から、というよりも、金銭的な目的です。彼は他にも、教会で使われる免罪符、カレンダー、など様々なものを印刷しては売って、利益を上げています。

一方で、この彼の商売欲が災いしました。彼の聖書ビジネスは成功しますが、そのビジネスのために金を貸したフストという男が、いつまでたってもグーテンベルグが金を返さないので、とうとうグーテンベルグを訴えます。これにより、フストはグーテンベルグの印刷機と印刷済みの聖書を手に入れ、彼の代わりにビジネスを成功させます。

彼は老年にさしかかり、一文無しになってしまいました。それでも、彼の商売人としての魂がこのどんぞこから彼を奮い立たせ、再度印刷ビジネスに挑戦したと言われています。

そして、こうした波乱万丈の人生を送った彼ですが、最後、彼は活版印刷の発明者として司教に認められ、余生は穏やかに暮らしました。

Als Gutenberg am 17. Januar 1465 in Würdigung seiner Verdienste vom neuen Erzbischof Adolf von Nassau zum Hofmann ernannt und mit Privilegien und Zuweisungen von Naturalleistungen ausgestattet wurde

参照元:Johannes Gutenberg

「1465年1月17日に、彼の活版印刷発明の功労を称え、当時の新しい大司教のアドルフは、彼に宮臣として仕える名誉と現物棒給を与えた」

彼は、おそらくキリスト教宗派の争いにはそこまで興味はなかったのでしょうか。彼は、免罪符と、聖書という、のちに対立する二つの陣営に対し、知らず知らずのうちに活版印刷を利用していたこととなります。

彼の活版印刷技術が大きくキリスト教の歴史を動かすことになるのは、彼が死んでからのことです。グーテンベルグは、1468年2月、故郷のマインツで亡くなりました。

グーテンベルグのもたらしたもの

グーテンベルグが亡くなったのは1468年ごろとされていますが、それから15年程すると、活版印刷と密接な関係を持つルターが誕生します。この時代、グーテンベルグが取り扱ったように、教会が罪の許しを得るために「免罪符」を販売することが一般的でした。

要するに、金で天国に行ける権利が買える、という非常に非科学的な、そしてカトリック総本山のどろどろとした利権絡みの匂いがするような状況です。当時、キリスト教は教会のみに許された秘教で、庶民は自宅で聖書を読むこともなりません。そもそも、当時聖書はラテン語で書かれていて庶民にはまず言語的に読めませんでした。

そんな中、声を上げたのがこのマルティン・ルターです。敬虔なキリスト教徒であるルターは、この免罪符の腐敗を弾劾します。彼が声を上げたのは「95ヶ条の意見書」と呼ばれ、この文書でルターは己の考えを市民に訴えます。ルターは、”人は信仰によってのみ義とされる”という聖書の原理に従い、わざわざ利権にまみれた免罪符に金を落とさなくても、キリスト教徒としての務めはちゃんと果たせる、ということを説いたわけです。

ルター

とはいえ、当時インターネットもない時代、自分の考えを人に啓蒙する、というのは時間がかかります。そこで利用されたのが「活版印刷」です。彼の95ヶ条の意見書はドイツ語に訳され、活版印刷によって大量にその意見が述べられた紙面がドイツ中に広まりました。

また、ルターは聖書をドイツ語訳し、今までラテン語で読めなかった内容を、庶民にもわかるようにしました。これも、グーテンベルグの活版印刷技術とあいまって、ドイツ中に聖書が普及する原因となり、カトリック教会の利権にまみれた権威が失われていく原因にもなります。

グーテンベルグ自体は、聖書も免罪符も商売の道具として印刷していましたが、最終的に、彼の発明は免罪符をこの世から消滅させ、聖書が世界中に普及するきっかけを作ったわけです。

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