第一次世界大戦とドイツその3:マルヌ会戦とタクシー輸送

Er war eine Legende, und gerade die Ferne hatte ihn heroisch und romantisch gemacht. Sie sahen ihn immer noch aus der Perspektive der Schullesebücher und der Bilder in den Galerien: blendende Reiterattacken in blitzblanken Uniformen, der tödliche Schuß jeweils großmütig mitten durchs Herz, der ganze Feldzug ein schmetternder Siegesmarsch – »Weihnachten sind wir wieder zu Hause«, riefen im August 1914 die Rekruten lachend den Müttern zu (Stefan Zweig: Die Welt von Gestern)

「戦争なんてものはもはや空想上のお話に過ぎなかった。あまりに過去のこと過ぎて、戦争の話は英雄談のように、ロマンティックに美化されていた。兵士たちは、学校で習った、あるいはギャラリーに展示してある写真でしか、戦争のことを知らなかった。ぴかぴかの軍服を身にまとい、突撃していく騎兵たち。心臓を横切る危うげな一突き。高らかに響き渡る勝利の凱歌…”クリスマスまでには帰れるよ”1914年8月、新兵たちはそう言って、母親に笑いかけた」ステファン・ツヴァイク(昨日の世界)

1914年、ドイツにとって、普仏戦争以降およそ半世紀ぶりとなる第一次世界大戦が勃発すると、大勢の若い兵士が勇んで戦場に送られていきます。一方、ドイツ軍の初期構想であったシュリーフェン・プランは思わぬ障害によって邪魔され、企図したようには進みません。

出鼻をくじかれたドイツ軍のシュリ―フェンプランは頓挫し、お互いが予期していなかった長期の塹壕戦に突入していきます。

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シュリーフェン・プランの頓挫とマルヌの戦い

ベルギー領を素通りする、という相手をあまりに甘く見た小モルトケの構想は、案の定破綻しました。それでも、ドイツ軍は当初フランス領を侵攻し、パリの近く、マルヌまで到達しますが、ここで思いもかけぬフランス・イギリスの大反撃にあいます。

Die geplante weiträumige Umfassung von Paris gelang jedoch nicht. Mit britischer Unterstützung konnten die französischen Streitkräfte im September 1914 den deutschen Vormarsch an der Marne stoppen. Neue Waffen wie Maschinengewehre und schnell feuernde Artillerie führten in den ersten Kriegswochen zu unerwartet hohen Verlusten. Die Vorstellung von einem raschen Kriegsende erwies sich als Illusion. Stattdessen erstarrte ab Herbst 1914 die Front von der Kanalküste bis zur Schweizer Grenze in einem dichten System von Schützengräben.

「ドイツ軍の、パリを取り囲むプランは頓挫した。イギリス軍の援護により、フランス軍は1914年にはドイツ軍の前進をマルヌでストップさせることに成功した。マシンガンや高速火砲などは、開戦からわずか一週間で甚大な被害を及ぼした。戦争はすぐに終わるだろう、という期待は幻想であったことが証明された。その代わり、1914年の秋ごろ、運河の岸からスイス国境にわたる広大な塹壕が完成されつつあった。」

マルヌ会戦までのドイツ軍の進撃ルート

(Quelle:Infografik Die Welt)

このマルヌの戦いにより、ドイツ軍の進撃は完全にストップします。決してドイツ軍がこの戦いでぼろくそに敗れた、というわけではありませんが、ドイツ軍に求められていたのは「フランスを6週間で屈服させる迅速な勝利」でしたので、このマルヌで進撃がストップしてしまった以上、もはや負けに等しい負けです。

そして、このマルヌの戦いの際、ドイツの西部戦線における指揮はめちゃくちゃで、負けるべくして負けるともいえる戦いです。多くの歴史家が、小モルトケの指揮能力と判断能力のまずさをここで指摘しています。

wer für die Niederlage an der Marne hauptverantwortlich war: Generaloberst Karl von Bülow, weil er zweimal, am 8. und am 11. September 1914, in Panik verfallen war? Oberstleutnant Richard Hentsch, weil er fraglos den Rückzugsbefehl für die 1. bis 3. Armee erteilt hatte? Oder doch Moltke selbst? Dafür sprachen gleich mehrere Gründe: Der Generalstabschef hatte ohne Zweifel den Schlieffen-Plan verwässert, indem er den rechten Flügel des deutschen Heeres schon schwächer aufmarschieren ließ als ursprünglich geplant.

「一体だれが、このマルヌの敗戦の戦犯だろうか?9月8日と11日に二回もパニックに陥ったKarl von Bülowだろうか、あるいは9月1~3日にかけて疑いもなく兵士を撤退させたRichard Hentschだろうか、それとも、小モルトケ自身だろうか?確かに、小モルトケがこの敗戦の原因だという理由はたくさんある。まず、彼はシュリ―フェン・プランを勝手に改悪し、当初のプランよりもドイツ軍の右翼を大幅に弱めた」

もちろん、こうした戦場での指揮のまずさを挙げればきりがありませんが、おそらく、今回の敗因の原因は以下のもう一つの理由です。

Außerdem hatte er sogar noch nach Beginn der Kämpfe der 1. und der 2. Armee je ein Armeekorps abgezogen, um sie nach Ostpreußen zu verlegen, wo die Russen unerwartet schnell aktiv geworden waren.

「おまけに、小モルトケは第一軍と二軍から兵隊を引き抜き、ロシア軍に備えるために東の戦場に送り込んだ」

前回の記事でも書きましたが、東プロイセンにはドイツの予想を超えた速度でロシア軍が進撃、これを寡兵でもってヒンデンブルグとルーデンドルフが破っています。

ルーデンドルフはギャンブラーでした。北に構える20万のロシア軍に対し、わずか騎兵一個師団しか当たらせないで、残りの全兵力をもって残りのロシア軍を叩く、という作戦にでて、これを成功させています。

1904年、第一知事世界大戦勃発から10年前、東郷平八郎もいくつかあるバルチック艦隊の航路候補の中から、対馬ルートに的を絞り、見事完全勝利を収めています。このように時に、戦場では、指揮官の持つ運に国の将来をゆだねる「賭け」が必要なことがあります。

ところが、彼らに比べると、小モルトケは中途半端なギャンブラーでした。彼の改悪したシュリ―フェン・プランはフランスを6週間で破り、返す刀でロシアを粉砕する、というプランでしたが、思いもかけぬロシア軍の進撃によって、彼はあっさりプランを変更します。ロシア軍に相対するルーデンドルフは「援軍は不要!」と断りますが、小モルトケは、己の天運も、部下の能力も信じることができませんでした。

ここで虎の子の2軍団を引き抜いたことで、ドイツ軍はマルヌ会戦での決定打を欠くこととなります。ドイツの描いたシュリーフェン・プランが、そしてドイツが大戦に勝利する、という幻の未来が、一司令官の判断ミスにより、画餅に帰した瞬間でもあります。

この作戦の失敗により、小モルトケは参謀総長を辞任します。責任のない作戦と行為によって、結局最後まで叔父である大モルトケの名誉を傷つけました。

フランス軍のタクシー輸送

こうしたドイツ軍のちょんぼとは反対に、フランスではこのマルヌの戦いに当たり、国の結束が高まるイベントが発生しました。有名な「マルヌのタクシー」です。

当時、最新の輸送機器でもあったタクシーが、パリから兵士を即座に必要とする戦場に向けて次々と兵隊を送り込んだことが、当時のフランス軍に希望をもたらしました。送り込んだ兵士は4000人程度で、実際に軍隊としてそこまでこの戦いに貢献したわけではありませんが、このストーリーは、フランス人の結束の証として当時よくプロパガンダとして用いられました。

当時利用されたタクシー

また、フランス人はよっぽどこの美談が好きなのか、この当時の兵士を輸送したというタクシーは、今もルノー博物館に飾られています。

Zivilisten und Militär trugen gemeinsam dazu bei, das Vaterland gegen die deutschen Eindringlinge zu verteidigen. Der Einsatz moderner Fahrzeuge motivierte die Soldaten und flößte ihnen Hoffnung und Selbstvertrauen ein, um die Schlacht an der Marne gewinnen und damit Paris, die Hauptstadt, erfolgreich verteidigen zu können. Ein Symbol der Entschlossenheit und Geschlossenheit der Nation im Kampf gegen den Feind: Das waren die Taxis von der Marne.

「市民と軍隊が一丸となって、祖国をドイツ軍の侵略から防衛することに貢献した。この、モダンな輸送手段は、兵士を運び込み、希望と自信をもたらした。このことは、マルヌで勝利し、首都を守ることに一役買ったわけである。つまり、この祖国防衛のための決意と団結のシンボルこそが、マルヌのタクシーなのである」

よくこの話は美談として取り上げられていますが、このタクシーがフランス人兵士を運んだのは、恋人の待つアパートメントでも、ママンが待つ自宅のガーデンでもありません。代わりに、彼らを待ち受けていたのは、血に飢えたドイツ軍と地獄のような塹壕です。

この世で最も凄惨な戦場の一つとして名高い、西部戦線の塹壕戦が幕を開けます。