冷戦と米ソ宇宙開発競争の勃発:ロケット技師フォンブラウンの後半生

ロケット

戦争の定義とは何でしょうか?

百科事典マイペディアには以下のように書いてあります。

国家を含む政治的権力集団間で、軍事・政治・経済・思想等の総合力を手段として行われる抗争(内乱も含む)。従来は、狭く国家間において、主として武力を行使して行われる闘争のみが戦争の定義とされていた。

この、従来の『武力を行使した闘争』から『軍事・政治・経済・思想等の総合力』を行使した戦争に意味が大きな変貌を遂げたのは、米ソの対立期からでしょう。

すなわち、冷戦(cold war)の勃発です。冷戦において、米ソは直接の武力闘争以外のあらゆる闘争をおこないました。スポーツ、経済、軍事力・・・。その中で、もっとも当時のメディアの目をひいたのは、彼らの行った『宇宙開発競争』だったのではないでしょうか。

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アメリカ時代のフォン・ブラウン

1945年、ナチスの崩壊と第二次世界大戦の終結とともに、米ソによる大勢の技術者の獲得競争が始まりました。特に、戦中に音速飛行機や、V2ロケットを開発したナチスの残した科学技術に、両国は眼をひかれます。

アメリカは、ペーパークリップ作戦(Operation Paperclip)という、科学技術者獲得作戦をドイツで展開します。アメリカに移送された大勢の科学者の中には、あのフォンブラウン博士の姿もありました。

テキサスに移送された彼は、そこでナチ狩りやニュンベルグ裁判で断罪された他のナチ党員とは異なり、悠々自適のロケット開発を再開し、2年後にはその地で18歳の従妹と結婚も果たしました。

Die Amerikaner scheinen kein Problem mit der Vergangenheit des deutschen Raketenentwicklers im Dritten Reich zu haben. Obwohl Mitglied der NSDAP und SS – und entgegen geltender Gesetze – erhält er 1955 die Staatsbürgerschaft der USA.

『アメリカは、このロケット技師(フォン・ブラウン)のドイツ第三帝国における過去を不問にしたように思われる。ナチと、SS(親衛隊)の一員であったにもかかわらず、そして法律があるにもかかわらず、彼は1955年には難なくアメリカ国籍を取得した』

芸は身を助けるとはよくいったもので、結局アメリカは彼の利用価値を大いに認め、彼もまた彼を利用しようとするアメリカの隠れ蓑に隠れて戦争犯罪追及を免れました。

ちなみに、チンギスハンがサマルカンドを破壊し、市民を皆殺しにしたときも職人3万人は助命されています。

宇宙競争の激化とNASAの登場

さて、米ソが巨額の資金を投じた宇宙競争の目的とは何だったのでしょうか。単なる国力の誇示であったのでしょうか。現代でこそ、我々は人工衛星を通じて俯瞰的に世界を見渡すことができますが、このころにはまだ人工衛星もなければ、宇宙を航行可能な飛行機さえ、夢のものと考えられていました。

実際には、夢物語だと考えていたのは一般市民であり、それから30年も前の1923年には、Hermann Oberthsという科学者がすでに『宇宙航行するロケットの可能性』について論文を論じていました。フォン・ブラウン氏は、この論文に大きく感化されたといいます。

ともあれ、宇宙を航行することが可能になれば、敵陣はおろか敵国の軍事設備すらも、手に取るようにわかるようになるのです。米ソは互いに負けじと巨額の資金を宇宙開発に費やしました。

先手を取ったのはソ連のほうです。1957年10月4日世界で初めての人工衛星『スプートニク1号』の打ち上げに成功し、アメリカの政治家やロケット開発者の度肝を抜きました。

これに成功したのがソ連のセルゲイ・コロニョフという研究者で、しばしばフォン・ブラウンのライバルとしてあげられる人物です。この時セルゲイは50歳、フォン・ブラウンは45歳でした。

フォン・ブラウンはこのとき『レッドストーン』という兵器開発部にいました。ソ連の宇宙開発に遅れること約1年、1958年にはフォンブラウンらの開発した人工衛星『エクスプローラー1号』が打ち上げに成功されました。

ロケット

しかし、ソ連の宇宙開発力を恐れたアメリカ政府は、NASAを立ち上げ、そこで宇宙開発を一本化し、宇宙競争において優位に立とうと考えました。1958年にはNASAが設立され、翌年にフォンブラウンはNASAの新設したマーシャル宇宙センターへと移籍し、そこで局長の座につきます。

Ein Jahr nach Gründung der Raumfahrtbehörde Nasa im Jahr 1958 wird von Braun Direktor des George C. Marshall Space Flight Centers in Huntsville. Damit steht er an der Spitze des Entwicklerteams der “Saturn”- Trägerraketen und arbeitet am Mondflugprogramm Apollo mit.

『1958年にNASAが誕生してから1年後、フォン・ブラウンはハンツヴィレのマーシャル宇宙開発センターの局長の座に任命された。そこで彼は『サタン』と命名された開発者チームの長として、有人ロケットとアポロ計画に携わったのである』

ドイツの敗戦から13年、フォン・ブラウンは異国の地でもっとも重要な宇宙開発の地位の座についたのです。

ケネディの演説とアポロ計画

この時の大統領はケネディでした。このころ、彼の故郷ドイツではケネディとフルシチョフが陸での冷戦を繰り広げる一方、フォン・ブラウンとセルゲイ・コロニョフは宇宙での戦いを繰り広げています。

ベルリンの壁建設に先駆けて1961年には、大統領に就任を果たして間もないアメリカの若き大統領ジョン・Fケネディと、ソ連のフルシチョフとの間で、インフォーマルな『ウィーン会談』というものがなされていました。

人工衛星に引き続き、有人飛行の先手をとったのもソ連でした。1961年にはソ連のセルゲイ・コロニョフ率いる開発チームがアメリカに先んじて有人飛行に成功します。有名なガガーリンの『地球は青かった』はこの時の言葉です。

地球

これを受けて、ケネディ大統領はこのソ連の成功からわずか一か月後の5月に、上院議員において有名なアポロ計画支援を表明する演説を行います。すなわち、アメリカは月に立つべきであると。

I believe we should go to the moon. But I think every citizen of this country as well as the Members of the Congress should consider the matter carefully in making their judgment, to which we have given attention over many weeks and months, because it is a heavy burden, and there is no sense in agreeing or desiring that the United States take an affirmative position in outer space, unless we are prepared to do the work and bear the burdens to make it successful.

『私は、我々は月へ行くべきだと信じている。ただし、全てのアメリカ国民にもこの問題を、何週間も何カ月も検討を続けている議員と同じように、熟考していただく必要があるのではないだろうか。なぜなら、この計画は大変な負担であるし、遠い天体においてアメリカがイニシアチブをとることに大変な費用をかけることには国民の皆にとって一見意味が無いように思えるからだ。』

スピーチの中でケネディは、何度もこの計画が困難であることを主張しますが、最後には以下のように締めくくっています。

New objectives and new money cannot solve these problems. They could in fact, aggravate them further–unless every scientist, every engineer, every serviceman, every technician, contractor, and civil servant gives his personal pledge that this nation will move forward, with the full speed of freedom, in the exciting adventure of space.

『こうした(月へ行くという)問題を解決してくれるのは、新しい目標でも新しい資金でもない。これらは実際には、ただ状況を悪くさせていくだけなのだ。すべての科学者が、エンジニアが、修理工が、技術者が、そして公務員たちが、アメリカが自由主義の高速にのって、宇宙へ熱狂的な冒険することを後押ししてくれなければ・・』

フォン・ブラウンのかつての上司ヒトラーと同様に、ケネディ大統領もまた、演説の天才がありました。

ケネディの演説におされて、フォン・ブラウン以下ロケット研究者たちは、こうしてNASAのもとで『人類を月に到達させる』という計画のためにまい進することになったのです。

しかしこのわずか1年後、ケネディは凶弾に倒れ、フォン・ブラウンら技術者が大統領の意志を継ぐ形となりました。

フォン・ブラウンに触れているこの本はおすすめです。

アポロ計画とフォン・ブラウンの晩年

さて、フォン・ブラウンは誰のためにアポロ計画を着々と進行させたのでしょうか。自身の才能を買ってくれたアメリカのためでしょうか、それともソ連のライバルたちのためでしょうか。

恐らく、彼の科学者としての本能が、彼をこうした宇宙への熱狂に駆り立てたのだと思います。V2ロケットの発射から25年、ケネディ大統領の演説から7年後、1969年にフォン・ブラウンらアメリカの研究チームは、ついに悲願の月への有人飛行を成し遂げました。

That’s one small step for man, one giant leap for mankind.

『一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては大きな一歩だ』

月

月の足跡とともに、アームストロング船長のこの言葉は近代史におおきく残されることとなりました。アポロ計画の成功とともに、フォンブラウン氏の仕事も果たされました。1972年にはNASA関係の仕事を退くと、かれは航空機メーカーの副社長に就任し、1977年にガンで亡くなりました。

さて、彼は皆のいうように愛国心の薄い変わり者でしょうか? 彼の忠誠心は一貫して変わらなかったように私には思えます。すなわち、徹頭徹尾「科学」に対する信奉者であったと。ヒトラーやケネディが彼を利用したように、彼もまた国家を利用してひたすらロケットの研究に明け暮れ、自らの研究者としての本願を達しおおせたのではないでしょうか。

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