連合軍のノルマンディー上陸を支えた二重スパイ”ガルボ”:ドイツと第二次世界大戦

ノルマンディ上陸

2014年6月6日は、第二次世界大戦のノルマンディー上陸作戦からちょうど70周年ということもあり、ドイツ国内でも大々的に取りざたされることとなりました。

今回は、ノルマンディー上陸作戦と、その作戦の裏でナチスを翻弄したスペイン人のスパイの話をまとめていきたいと思います。

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ノルマンディー上陸作戦までの経緯

1939年9月1日、ナチスドイツのポーランド侵攻で第二次世界大戦の火ぶたは切って落とされました。ポーランド軍は、ドイツとソビエトという二大強国に挟み撃ちにあってあっさりと壊滅します。

その後、ナチスドイツはその矛先を西に転じ、1940年5月になると、突如としてフランスへ進撃を開始します。フランス軍の予想に反し、機械化されたドイツ軍はアルデンヌの森を抜け、フランス領内に侵入、開戦からわずか1ヵ月足らずでフランスはナチスドイツの軍門に下りました。

この、1940年の夏から、長いことフランスがナチスドイツの占領下におかれていたのです。1941年12月には日本軍がアメリカに宣戦布告し、戦火は世界中に拡大していきます。ドイツはソビエト領内を破竹の勢いで進撃、日本軍も太平洋のアメリカ海軍を一時は空母が行動できなくなるまで追い詰めましたが、地力の差もあり、1942年後半から徐々に枢軸軍の衰えが見えるようになってきました。

1943年、ヨーロッパではナチスドイツがスターリングラードの戦いに敗れ、太平洋では日本軍がガダルカナル島の戦いに敗れたため、彼我の趨勢は覆ることとなります。ソビエトとアメリカ軍がそれぞれ東部戦線と太平洋戦線で反撃に転じ、失陥した領土を次々と枢軸軍の手から取り返していきました。

1943年12月、テヘランにおいて、ソビエト、アメリカ、イギリスの首相会談が行われ、その後の戦争の方向性について話し合いがなされました。その議題の一つに、アメリカ・イギリスによるフランスへの上陸と、西部戦線の形成が挙げられたのです。

テヘラン会談

連合軍の上陸スポット

フランスの降伏以降、ナチスの矛先は主にソビエトに向けられており、ソビエト赤軍は尋常でないレベルの人的被害をすでに被っていました。そのため、そのソビエトに集中しているドイツ軍の戦力を西側に割かせるため、米英にフランスへの上陸作戦を打診したのです。

ナチスドイツのほうでも、こうした連合軍の動向には薄々感づいていました。連合軍がドイツを挟撃するには、おそらくフランス方面のどこかの海岸からだろう、ということです。

上陸作戦において、基本的に上陸する側は圧倒的に不利であるケースが多いです。陸地のほうは、防御陣を形成することができますし、陸地の飛行場から飛行機による支援をすることが可能です。一方で、上陸する側は、同じように飛行機によって支援しないと、上陸部隊が爆撃を受けて大損害を被りますし、海と空から上陸の支援をおこなえることが、大前提になってくるのです。

そうすると、地理学的に、連合軍が上陸するスポットはある程度予想がつきました。パ・ド・カレーか、ノルマンディーです。ナチスドイツとしては、どちらに連合軍が上陸するのかはっきりさせることができれば、そこに火力を集中させ、上陸する連合軍を水際で殲滅させることができると踏んだのです。

そのため、ノルマンディー上陸作戦は、始まる前からすでに、この上陸スポットを絞る側(ドイツ)と絞らせない側(アメリカ・イギリス)による、高度な情報戦の様相を呈していたのです。この、情報戦の中で、決定的な役割を担ったのが、ガルボと名付けられたスペインの二重スパイでした。

亡国の諜報員:ガルボ

後にガルボと名付けられることとなる、ジャン・プジョール・ガルシアは、1914年、スペインに生を受けました。1936年に勃発したスペイン内戦は、ソビエトとドイツの代理戦争となり、スペインに暗い影をもたらします。22歳のプジョールは、ここでナチスと赤軍によって故郷が蹂躙されていく様子を目撃しました。

ドイツを翻弄した二重スパイ:ガルボ

この痛烈な経験が彼をして反ナチス、反共産主義の立場をとらせ、後に、連合国側のスパイとして働く動機となりました。

最も、彼は初めから米英のスパイとしての職を得たわけではありません。この得体の知れないスペイン人を雇うほど、彼らは適当な組織ではなかったようで、門前払いを食らいます。そのため、プジョールは、今度はナチスドイツにコンタクトを取り、ポルトガルで「ナチスドイツのスパイ」という名義で活動を開始、彼らに連合軍に関する適当な情報を与え続けました。

彼がナチスドイツの信用を得てきたため、英米も今度は彼を無視できないようになってきました。ノルマンディー上陸作戦に先立って、彼はついに米英のスパイとしての職を得ます。目下の任務は、ナチスドイツに連合軍の上陸地点を誤認させること、でした。

Garbo und sein Netzwerk arbeiten fast ohne Pause….Von Januar bis Mai 1944 sendet er täglich bis zu vier Stunden Informationen über Truppenbewegungen und angebliche Vorbereitungen der Alliierten an die Abwehr in Madrid und seinen Führungsoffizier, Karl-Erich Kühlenthal.

「ガルボ(プジョール)とそのネットワークは、休みなく働いた…1944年の1月から5月まで、彼らは毎日連合軍の動向とその表向きの準備活動に関して、毎日4時間程度、マドリッドにあるドイツの諜報機関に連絡を流し続けた。」

こうして着実に、プジョールはナチスの信頼を勝ち取っていきました。こうした嘘の情報の対価として、ドイツ軍は彼に現在の金額にして150万ユーロもの報酬を支払ったとのことです。

実際には、彼の働きはすべて、ドイツ軍を誘導するためのものでした。こうした準備ののち、やがて、彼は6月6日、ノルマンディー上陸作戦の運命の日を迎えます。ドイツ軍は、こうしたスパイたちの情報を信じ、カレーに連合軍が上陸すると張っていましたが、実際に連合軍が上陸したのはノルマンディーのほうでした。

にも関わらず、少しでもノルマンディーの防御を手薄にさせるため、ノルマンディーに連合軍が上陸し始めてからも、プジョールは嘘の情報を流しつづけました。

In seinem Funkspruch soll Garbo den Deutschen unmissverständlich klarmachen, dass die Landung in der Normandie nur ein Täuschungsmanöver gewesen sei und die “echte” Landung erst noch kommen werde, weiter östlich im Pas-de-Calais.

『無線通信のなかで、彼はドイツ軍に向けて誤解のないように、ノルマンディーへの上陸作戦はただの陽動作戦であり、連合軍の本当の上陸目的地はパドレカレーであることを強調した』

最終的には、この電報がドイツにとって連合軍の上陸地点を特定するための決定打だったと、のちの戦後裁判でカイテル国防長官が語っています。

ノルマンディー上陸作戦とナチスドイツの滅亡

こうした情報戦の援護をうけ、モンゴメリ麾下、連合軍による上陸作戦がノルマンディーにおいて着々と侵攻されつつありました。

Mit über 3.100 Landungsbooten setzte in der Nacht zum 6. Juni 1944 die erste Welle der Invasionsarmee von Großbritannien nach Frankreich über.

『1944年6月6日の夜、イギリス上陸軍の第一波である3100艘もの揚陸船が、ノルマンディーへの上陸作戦を開始した』

カレーとノルマンディーの間で情報が錯綜していたため、ドイツ軍の体制は完全とは言えませんでしたが、それでも、連合軍の上陸作戦は楽なものではありませんでした。沿岸に張り巡らされた防御陣と火砲が、上陸連合軍を何度も海に追いかえします。特に、オハマビーチは、ノルマンディー上陸作戦の中でもっとも過酷な戦場と言われました。

The beauty that is Omaha Beach will forever be tainted by the American blood that seeped into the tide waters

『この美しいオハマビーチは、渚の中へと溶け込んだアメリカ兵の血によって、永遠に紅く染められている』

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スティーブンスピルバーグ氏の映画、プライベートライアンの上陸シーンで、砲台に隠れたドイツ兵の連射で、味方がバタバタ倒れていく描写がありましたが、まさにバタバタと連合軍も枢軸軍も兵力を消耗していきます。

それでも、甚大な物量と空からの援護をもって連合軍は次第にドイツ側の陣地を撃破して進み、最終的に200万人近い連合軍がフランスに上陸し、8月にはパリを解放する事となります。

この上陸作戦が成功したことによって、ナチスドイツは西と東から挟み撃ちされる形になりました。あとは、1945年5月の第三帝国崩壊に向けて突き進むだけとなります。

二重スパイのその後

ノルマンディー上陸作戦において、ドイツ軍を陽動したプジョールの働きは絶大でした。プジョールの情報を信じたドイツ軍は、無意味に軍を動かしたり、止まらせたり、退却させたりし、最終的にノルマンディーの守りを手薄なものにさせてしまったからです。

とはいえ、プジョールは戦後も、ドイツ軍の報復の恐怖に苛まれていたようです。戦後、イギリス政府から多額の報酬を受け取った後も「自分は死んだことにしてくれ」といって姿をくらまします。彼が表舞台に登場するのは、ノルマンディー上陸作戦から40年後の節目、1984年の祝賀会に招かれた時のことでした。

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Am 6. Juni 1984, 40 Jahre nachdem die ersten alliierten Soldaten die Strände der Normandie erstürmt haben, bleiben Sieger und Besiegte unter sich. An der Pointe du Hoc, unweit des Omaha Beach, bläst ein kräftiger Wind, als am Strand Ronald Reagan, Margaret Thatcher, Königin Elisabeth II., François Mitterrand und der kanadische Ministerpräsident Pierre Trudeau mit Tausenden Veteranen den offiziellen Festakt begehen. Der deutsche Bundeskanzler Helmut Kohl ist nicht eingeladen worden.
Nicht weit von der offiziellen Feier entfernt betritt an diesem Tag auch Joan Pujol den Strand der Normandie. Er ist von London aus direkt eingeflogen worden. Zum ersten Mal in seinem Leben sieht er viele der Orte, an denen Tausende Soldaten ihr Leben verloren haben, während er zusammen mit Tomás Harris den wichtigsten Funkspruch seines Lebens abgesetzt hat.

『最初の兵士がノルマンディーに上陸してから実に40年後の、1984年6月6日に、未だに勝者と敗者は分かたれていた。オマハビーチからさほど遠くないその地点には、その場所で、レーガン、サッチャー、エリザベス女王、ミッターランド、そしてカナダの大統領が1000人の退役軍人たちと祝賀会を催した時には、強い風が吹いていた。ドイツの首相はその場所に招かれなかったのである。
祝賀会が行われた場所からあまり距離をおかない浜辺に、プジョールも来訪していた。彼は、ロンドンから直接この場に来たのであった。彼は生まれて初めて、彼がハリスとともに彼らの人生を賭した電報を打ち込んでいたころ、たくさんの兵士たちがその命を落とした戦場を訪れたのであった。』

戦場の勝敗を分けるのは、兵士の質、武器の質、士気などもありますが、とりわけ、先の大戦では情報の質が両者の命運を分かちました。将軍でも科学者でもないプジョールでしたが、彼が、連合軍がこの情報戦に勝利するための大きな役割を担ったのです。

ドイツの二重スパイとして活躍したプジョールは、1988年10月10日、奇遇にもノルマンディー上陸作戦から、44年4か月4日後の日に脳卒中で亡くなります。今でも、先の大戦の勝者と敗者は分かたれているように思えます。

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