連合軍のノルマンディー上陸を支えた二重スパイ:ドイツと第二次世界大戦

ノルマンディ上陸

前回、今年がちょうど第一次世界大戦勃発から100周年で、いろいろな戦争報道がされたというコラムを書きましたが、実はドイツにはもう一つ重要な周年がありました。

2014年6月6日がちょうどノルマンディー上陸作戦(Dデイ)から70周年目だったのです。これまた第一次世界大戦記事と同様に、いろいろな特集がされていました。

歴史が多くなると~周年みたいなイベントがどんどん増えていき、年がら年中なにかの特集をやっているような気がします(ちなみに日清、日露、第一次世界大戦と、日本が戦勝国となった戦いはちょうど10年おきに発生しているので覚えやすいです)。

というわけで今回は史上最大の作戦と言われた、ノルマンディー上陸作戦報道に関する記事をまとめていきます。

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ノルマンディー上陸作戦

第二次世界大戦がはじまったのが1939年9月1日、1940年の夏にはドイツはフランスを占領するので、連合軍がノルマンディーに上陸するまで約4年間、フランスはドイツの占領下に置かれた形となりました。

ヨーロッパでも太平洋でも、1942年半ばごろまでは日独伊の枢軸側が進撃を続けますが、日本はミッドウェーやガダルカナルで貴重な戦力を消耗し、ドイツも東部戦線やバトルオブブリテンで頓挫し、次第に攻勢から守勢にたたされていくようになります。

それでも、ドイツの主力部隊の大攻勢を散々受けてきたため、ソ連軍もかなり疲労の色がみえていました。そこで、1943年にテヘラン会談においてソ連のスターリンは米英大統領に向け、西からドイツを攻撃することを呼びかけます。

そしてモンゴメリ指揮下、1944年6月についに大規模な上陸作戦がフランス海岸におけるノルマンディーにおいて決行されます。

Mit über 3.100 Landungsbooten setzte in der Nacht zum 6. Juni 1944 die erste Welle der Invasionsarmee von Großbritannien nach Frankreich über.

『1944年6月6日の夜、イギリス上陸軍の第一波である3100艘もの揚陸船が、ノルマンディーへの上陸作戦を開始した』

ドイツ軍の防御陣地は完全に完成してはいませんでしたが、それでも沿岸に張り巡らされた防御陣と火砲の迎撃は、連合軍に対して出血を強います。特にオハマビーチは、ノルマンディー上陸作戦の中でもっとも過酷な戦場と言われました。

The beauty that is Omaha Beach will forever be tainted by the American blood that seeped into the tide waters

『この美しいオハマビーチは、渚の中へと溶け込んだアメリカ兵の血によって、永遠に紅く染められている』

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スティーブンスピルバーグ氏の映画、プライベートライアンの上陸シーンで、砲台に隠れたドイツ兵の連射で、味方がバタバタ倒れていく描写がありましたが、まさにバタバタと連合軍も枢軸軍も兵力を消耗していきます。

それでも、甚大な物量と空からの援護をもって連合軍は次第にドイツ側の陣地を撃破して進み、最終的に200万人近い連合軍がフランスに上陸し、8月にはパリを解放する事となります。

この上陸作戦の成功によって、事実上ドイツの反撃の芽と命運はつきました。

これ以降、ドイツは西はアメリカ・イギリス・フランス、東はソ連を相手取って戦うことになり、もはや度重なるソ連との戦いで疲弊したドイツには反撃の余力は残っておらず、1945年5月のベルリン陥落までつきすすみます。

情報戦とその黒幕

ノルマンディー上陸作戦の連合軍の勝因の一つは、『情報戦に勝利した』ことであると言われています。もともと、ドイツ側は連合軍の上陸地点を『カレー』か『ノルマンディー』かまではしぼっていましたが、そこからの上陸地点を絞ることができず、兵力を分散し結果連合軍の上陸を許すことになりました。

最強の暗号機械エニグマはポーランドの数学者によって研究されたのち、イギリスの暗号局によって解読され、以後ドイツ軍は情報戦で苦戦を強いられます。

エニグマの項で情報戦と暗号の話に触れましたが、それともう一つ、各国のスパイの果たした役割も大きかったのです。

その中で、ひとつ面白い新聞記事があったので紹介します(日本ではあまり知られていない人のように思えますので)。

Wie ein Doppelagent die Wehrmacht mit Falschmeldungen narrte

『いかにして国防軍の二重スパイはドイツを誑かしたのか?』

この記事の中で、Joan Pujol Garcia(コードネーム:ガーボ)というスペインの諜報員のことが紹介されています。

元々はスペインで暮らしていましたが、スペイン内戦でナチスが介入し被害が拡大するとともに、ナチスへの報復を誓います。

彼は、ドイツの二重スパイとして、連合国側に有利な情報をどんどんドイツに送り続けますが、ドイツは騙されていることを知らずに、最終的には彼を立派なスパイとして表彰までしています。

In seinem Funkspruch soll Garbo den Deutschen unmissverständlich klarmachen, dass die Landung in der Normandie nur ein Täuschungsmanöver gewesen sei und die “echte” Landung erst noch kommen werde, weiter östlich im Pas-de-Calais.

『無線通信のなかで、彼はドイツ軍に向けて誤解のないように、ノルマンディーへの上陸作戦はただの陽動作戦であり、連合軍の本当の上陸目的地はパドレカレーであることを強調した』

最終的には、この電報がドイツにとって連合軍の上陸地点を特定するための決定打だったと、のちの戦後裁判でカイテル国防長官が語っています。

これによって無意味にドイツ軍は軍を動かしたり、止まらせたり、退却させたりし、ノルマンディーの守りは手薄なものになってしまいました。

彼は戦後、イギリス政府から多額の金銭をうけとりますが、ドイツの報復を恐れて『自分は死んだということにしてくれ』といって行方をくらましますが、戦後40周年を迎える1984年の節目に発見され、連合国軍の祝賀会に招かれます。

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Am 6. Juni 1984, 40 Jahre nachdem die ersten alliierten Soldaten die Strände der Normandie erstürmt haben, bleiben Sieger und Besiegte unter sich. An der Pointe du Hoc, unweit des Omaha Beach, bläst ein kräftiger Wind, als am Strand Ronald Reagan, Margaret Thatcher, Königin Elisabeth II., François Mitterrand und der kanadische Ministerpräsident Pierre Trudeau mit Tausenden Veteranen den offiziellen Festakt begehen. Der deutsche Bundeskanzler Helmut Kohl ist nicht eingeladen worden.
Nicht weit von der offiziellen Feier entfernt betritt an diesem Tag auch Joan Pujol den Strand der Normandie. Er ist von London aus direkt eingeflogen worden. Zum ersten Mal in seinem Leben sieht er viele der Orte, an denen Tausende Soldaten ihr Leben verloren haben, während er zusammen mit Tomás Harris den wichtigsten Funkspruch seines Lebens abgesetzt hat.

『最初の兵士がノルマンディーに上陸してから実に40年後の、1984年6月6日に、未だに勝者と敗者は分かたれていた。オマハビーチからさほど遠くないその地点には、その場所で、レーガン、サッチャー、エリザベス女王、ミッターランド、そしてカナダの大統領が1000人の退役軍人たちと祝賀会を催した時には、強い風が吹いていた。ドイツの首相はその場所に招かれなかったのである。
祝賀会が行われた場所からあまり距離をおかない浜辺に、プジョーも来訪していた。彼は、ロンドンから直接この場に来たのであった。彼は生まれて初めて、彼がハリスとともに彼らの人生を賭した電報を打ち込んでいたころ、たくさんの兵士たちがその命を落とした戦場を訪れたのであった。』

歴史の舞台には様々なドラマが生まれます。それは時に、月並みですが小説よりも奇なりの状況をつくりだすのでしょう。

ドイツの二重スパイとして活躍したプジョーは、1988年10月10日、ちょうどノルマンディー上陸作戦から、44年4か月4日後の日に脳卒中で亡くなります。

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