ナポレオンとドイツその3:神聖ローマ帝国の滅亡とライン同盟~半島戦争

前回までで、オーストリアとロシアがアウステルリッツの会戦でフランス軍に敗れたところまでをまとめました。今回は、その戦いの結果なにがヨーロッパで起こったのかについてまとめていきます。

前回までの記事はこちら↓
ナポレオンとドイツその1:フランス革命とナポレオン戦争の開戦
ナポレオンとドイツその2:エジプト遠征とアウステルリッツの会戦

神聖ローマ帝国の滅亡とドイツの命運

ナポレオン戦争の時代、現在のドイツ領のあたりは神聖ローマ帝国という、300以上の諸侯の集まりによって共同体が形成されていました。ほとんど名目だけの形で存続していた帝国なのですが(神聖でも、ローマでも、帝国ですらないと言われる)、これが今回のオーストリアの敗戦によって完全に消滅することとなります。

具体的にどのように消滅したのかというと、現在のドイツの地理でいう西側にナポレオンはライン同盟、という親フランスの緩衝国家を建設します。神聖ローマ帝国が消滅したことで、神聖ローマ皇帝から、ハプスブルグ家は単なるオーストリアの君主になります。

このオーストリアの敗北と、ライン同盟の誕生で危機感を募らせたのがプロイセンです。プロイセンは先の第三次対仏大同盟には関与していませんでしたが、この近隣にライン同盟という物騒なものを作られては黙っていられず、ロシアと同盟してフランスに宣戦し、第四次対仏大同盟が結ばれます。

これにより、イエナ・アウエルシュタットの戦いがプロイセン・フランス軍間で勃発します。この戦いで、プロイセンはナポレオン軍に大敗を喫します。ナポレオン軍には「不敗のダブー」という優れた指揮官がおり、彼の率いる半数以下の兵士に、プロイセン軍はアウエルシュタットで敗北を喫します。

不敗のダブー

不敗のダブー


(Louis nicolas davout)

ナポレオン軍はプロイセンの奥深くまで侵攻し、ベルリンが陥落します。プロイセン自体はこの時点で戦闘継続能力を失い、フランスに全土を支配されますが、当時のプロイセン王、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は東欧の奥深くケーニヒベルグまで逃亡し、ロシアとともに頑強に抵抗を続けます。

これを口実に、ナポレオン軍は現在のポーランド領土まで侵攻を開始。フリートラントの戦いでプロイセンの頼みの綱のロシア軍が破れ、ティルジットの和約が結ばれることとなります。これにより、プロイセンは国土の大半を失い、ポーランド(ワルシャワ公国)がこの世に復活します。

当時のポーランドは1795年のプロイセン、オーストリア、ロシアによって分割され国家として消滅していましたので、ナポレオンを歓迎します。ナポレオンはワルシャワ公国を復活させ、これを自身の傀儡国家としてロシア・プロイセンを睨ませることにしたわけです。

これにより、フランス革命が勃発した際に敵対していたプロイセン、オーストリア、ロシアなどのフランスにとって東側の国家はフランスに臣従することとなりました。ナポレオンは有頂天になり、再度イギリス攻略の野望に火をつけます。

半島戦争と帝国の没落

ナポレオンの凋落はどこから始まったのか。ロシア遠征に失敗したことがよく取り上げられますが、それ以前に、スペインでナポレオンは敗北を喫しており、これがターニングポイントだとよく言われています。

ナポレオンは、直接の海戦でイギリスを打ち破るのは困難だと悟り、イギリスとの貿易を禁止する「大陸封鎖令」を発令します。これでヨーロッパ諸国がイギリスとの交易をおこなわなくなり、イギリス経済の息の根が止まるだろう、という試みです。

史実ではそうはいかず、中立国家であったポルトガルとスウェーデンはこれに反対。イギリスは当時の産業立国であり、こことの交易を禁止することは、自国の経済の首を絞めることにもつながりかねなかったからです。

そうするとナポレオンはポルトガルにお仕置きをするためにイベリア半島に軍を派遣。ナポレオン没落の引き金となる半島戦争の勃発です。フランス軍はあっさりリスボンを制圧しますが、ここからはどうやら勝手がいつもと異なり、民衆のヒーローであったはずのフランス軍は、イベリア半島の民衆ゲリラによって攻撃されるようになります。

確かに、フランス軍はもともとは革命の輸出を標榜し、民衆のための戦争を行ってきたので、いく先いく先で民衆の支持を得られたのですが、それがだんだん帝国主義的な側面が色濃く浮き出てきて、次第に各国の民衆の支持を得られなくなってったわけです。

フランス軍がイベリア半島でゲリラに苦戦しているという報を聞いて、喜んだのはイギリス軍です。イギリスの名将、ウェルズリーはポルトガルに上陸、ポルトガル軍とともにフランス軍を苦しめます。日中戦争のように、相手国の民衆がゲリラ化してしまうと、軍隊には打ち破ることが困難です。ここから、半島戦争は泥沼化していきます。

確かに、ナポレオン軍は強く、イベリア半島でも相手を打ち破るのですが、相手は見えないところから湧いて出てくるゲリラ兵で、それを駆逐するためには民衆を殺戮しなくてはいけません。ゴヤの「プリンシペ・ピオの丘での銃殺」という絵画で、民衆を殺害するフランス軍の様子が描かれており、さらに反フランス感情が民衆の間で広がっていきます。

プリンシペ・ピオの丘での銃殺

プリンシペ・ピオの丘での銃殺


(ゴヤ:プリンシペ・ピオの丘での銃殺)

こうなってしまうと、戦術的な小さな勝利は可能でも、戦略的に国を統治することは不可能です。皮肉なことに、民衆の味方であったフランス軍を一敗地に塗れさせたのは、ほかならぬ民衆の力でした。

外交には一種のイメージ戦略が必要です。半島戦争での泥沼化を聞き、欧州各国のフランス軍に対するイメージは地に落ちました。オーストリアが再度イギリス側に立って参戦、これをナポレオンは撃破しますも、お次はロシアが大陸封鎖令を破りイギリスとの交易を再開します。

ナポレオンは激高します。外交で重要なのは、相手に舐められないことです。こちらが弱いことを見透かされてしまったら、同盟相手といえども簡単に離反していきます。そうならないために、この「裏切り」を行ったロシアに対してナポレオンは正義の鉄槌を下すべく、60万人とも呼ばれる兵員を動員して、ロシアへの大遠征をおこないます。

ナポレオンの起こした戦争は、各国にナショナリズムをもたらしたと言われています。今まで、戦争は兵士の仕事でしたが、これに対し、国家が一丸となり始めていたのです。そんな中、ナポレオンの息の根を止めることとなるロシア遠征、ロシア側の呼称で「祖国戦争」が勃発したわけです。

(ちなみに、ヒトラーのソビエト侵攻の呼称はロシア側では「大祖国戦争」)

続き↓
ナポレオンとドイツその4:百日天下・ナポレオン戦争の終焉とドイツへの影響

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