5分でわかるドイツの歴史:第一次世界大戦のまとめ

今回はできるだけ簡潔に、第一次世界大戦についてまとめていきたいと思います。詳細に関してはリンクを参照してください。

第一次世界大戦

まず、簡単に第一次世界大戦の概要ですが、ヨーロッパが中央同盟国と協商国側に分かれて戦われた戦争で、図としてはドイツ、オーストリア、オスマントルコ等vsイギリス、フランス、ロシア、アメリカ等です。

開戦前の思惑は各国入り乱れていて難解ですが、東部に目を向けると、主な原因はオスマントルコのバルカン半島への求心力が低下したことで、スラブ系諸国の独立機運が高まったこと、そのスラブ系国家であるセルビアの民族主義者らが、オーストリアの管理下にあるボスニアにも多くおり、そこで独立のための過激な運動を繰り広げていたこと、などが挙げられます。

ロシアはスラブ系国家ですので、このバルカン半島の独立運動を扇動して、なんとかバルカン半島の主導権を握りたい、それにオーストリア、オスマントルコ、ドイツなどが反対する形です。

西部に目を向けると、東でロシアとドイツが敵対して戦争が勃発してくれれば、フランスは普仏戦争時にドイツに奪われたアルザス・ロレーヌ地方を取り返すことが可能になります。また、もともとヴィルヘルム2世の海外植民地獲得政策は、すでに広大な植民地を持つイギリスとフランスの既得権益を脅かしかねない脅威であり、早めに叩いておきたい目論見もありました。

というわけで、この西側のフランス・イギリスと、東側のロシアの思惑が、対ドイツということで一致したため、協商国として手を結ぶことになったのです。

割譲されたアルザス=ロレーヌ地域

第一次世界大戦の勃発

上述の通り、オスマントルコの求心力が低下したバルカン半島は、火をつければ爆発するような欧州の火薬庫と化していました。そんな中、オーストリアの皇太子がセルビア人の過激派がたくさんいるボスニアに視察を行います。

セルビアの過激派はボスニアのセルビアの手に取り戻す、大セルビア主義を標榜していますので、このオーストリア皇太子はいわば不倶戴天の敵です。視察中に、このセルビアの過激派である黒手組の襲撃を受け、暗殺されてしまうサラエボ事件が発生しました。

これにより、オーストリアは激怒、ドイツも同じゲルマン民族として、このスラブ人の過激派運動に対し強硬な態度をとることを主張し、セルビアに宣戦布告します。そうすれば、セルビアのスラブ族仲間であるロシアはオーストリア、ドイツに宣戦しますし、ロシアの仲間であるフランス・イギリスに対しドイツは宣戦する必要があり、瞬く間に戦火はヨーロッパ全土に広がりました。

皇太子暗殺の場面

第一次世界大戦の経過

ドイツから見れば、西はフランス、東はロシアに囲まれるこの状況は良くありません。この状況に陥る前にフランスを全力でたたくという「シュリ―フェン・プラン」を発動させ、フランスに猛攻撃をくわえますが、マルヌの戦いで頓挫します。

東部戦線では、ドイツ参謀本部の予想をはるかに超えた速度でロシアが東プロイセンに侵攻、これをルーデンドルフとヒンデンブルグが半数以下の兵で打ち破る成果を上げていますが、以降ドイツ軍は東西二方面作戦を強いられることとなり、戦況は膠着状態に陥ります。

シュリ―フェンプランとタンネンベルグの戦い

当時の防御戦術の主流となった「塹壕」は守る側が圧倒的に有利なので、お互いに攻勢に出ることが難しい状況です。こうした塹壕を隔てた対峙が続く中、1916年にはヴェルダンの戦いやソンムの戦いが勃発しますが、両者とも決め手を欠き、ただ無駄に兵力を損耗して作戦は終えられました。

西部戦線で激しい塹壕戦が繰り広げられている1916年、東部戦線ではロシア軍がブルシーロフ攻勢によってオーストリア軍を撃破し、オーストリア軍は死傷者100万人という多大な人的被害を計上します。これによって東部戦線では、一時的にロシア軍が優勢になりますが、1917年、長引く戦争と国内の物資の欠乏から、市民が蜂起、ロシア革命が勃発し、ロシアは戦争を継続するどころではなくなります。

これにより、ロシアと中央同盟軍はブレスト=リトフスク条約を締結、東部戦線は終結します。ちょうどそのころ、ドイツの無制限潜水艦作戦やツィンマーマン電報事件などを口実に、アメリカの本格参戦が決定されたところでした。

東部戦線が終結したことで、ドイツ軍は大量の部隊を東部から西部へ送り込むことが可能になります。アメリカが本格的に西部戦線に上陸する前に戦争を終えたいドイツ軍は、1918年春、ドイツ軍最後の大攻勢と言われる春季攻勢を行い、パリを陥落寸前まで追い込みます。

ところが、長引く戦争によりドイツ軍も疲弊しており、最後の一撃がくだせず、結局この好機を逃し、1918年8月以降、本格的にヨーロッパに上陸したアメリカ軍によって次第に追い詰められていきます。

そしてとうとう、1918年11月、キール軍港での反乱を皮切りに、ドイツで革命が勃発。西部戦線からも追い詰められ、国内でも革命が起き、ドイツは戦争継続どころではなく、降伏することになります。これによって皇帝ヴィルヘルム2世はオランダに亡命、ドイツ帝国は崩壊しました。

第一次世界大戦のもたらした技術

第一次世界大戦では、従来の戦争の常識を覆すような戦術、兵器がいくつも登場しました。戦車、飛行機、毒ガスなどが第一次世界大戦で初めて実践使用され、今後の戦争のあり方を変えていきます。

また、機関銃の装備により、塹壕の有効性が際立つようになりました。塹壕は、道にスコップで穴を掘っただけの防御陣地ですが、そこに機関銃を装備することで、歩兵には容易に突破できない難攻不落の防御網に生まれ変わったのです。

この防御網が破られるようになるのは、第二次世界大戦でドイツ軍が利用する戦車を用いた突破方法、電撃作戦を待ちます。

無線技術の発展も第一次世界大戦で発展を遂げました。特にイギリスは無線技術を劇的に進化させ、1918年には航空機同士の無線通信を開発します。この技術は、のちの1920年代のラジオ放送を可能にします。

初めて実践投入されたイギリス軍のマーク1戦車

第一次世界大戦の影響

大戦により、ロシアとドイツで革命が勃発、最終的に、開戦時に存在していたドイツ帝国、ロシア帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、オスマントルコ帝国、という強大な4つの帝国がこの世から消滅しました。特に、このことでオーストリアは完全に国際権力を喪失し、のちのナチスドイツのオーストリア併合に繋がっていきます。

イギリスは、協商国に協力することを条件に、パレスチナを交渉材料にします。これにより、今なお禍根を残すパレスチナ問題が、ユダヤ人とアラブ人の間で繰り広げられることとなりました。

ヴェルサイユ条約ではドイツの領土が大幅に削られ、天文学的ともいえる賠償金がドイツに課されることとなります。ドイツを脅威に感じたフランスは、1923年にはルール占領など、ドイツの工業力を削ぐような強硬手段に何度か出ますが、結局、このフランスの高圧的な戦後処理により、ドイツの経済は破綻寸前となり、ナチス・ドイツの台頭とのちの第二次世界大戦に繋がっていきます。

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