放浪の哲学者:カール・マルクスの生涯と共産主義思想

Wir Kommunisten sind alle Tote auf Urlaub

「我々共産主義者は、ただ死から休暇をたまわっているだけなのだ」(オイゲン・レヴィーネ)

18世紀後半から19世紀にかけてイギリスではじまった産業革命は、その後国境を越え多くのヨーロッパ諸国にその恩恵をもたらします。同時に、ヨーロッパの生んだ産業革命は、搾取される賃金労働者と搾取するブルジョアジー、という歪な社会構造をもたらしました。

劣悪な工場で腰をかがめ、朝から晩まで機を織る女工、わずか一切れのパンを買うために汗だくで一日を労働にあてる日雇い工事人。こうした賃金労働者が己の尊い人生の時間をすり減らす資本主義の闇は、やがて一人の哲学者の唯物論的な洞察によって糾弾されることとなります。彼の爆弾のような思想はのちに国境を越えて、世界は赤い共産主義の嵐に巻き込まれていきました。

この、世界史を揺るがす壮大なイデオロギーを人類に持ち込んだのは、プロイセン出身の終生の亡命者、革命家にして、有史以来最大の思想家の一人、カール・ハインリヒ・マルクスです。

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カール・マルクスの前半生

1818年、マルクスが生を受けたのは、ドイツ帝国統一以前のプロイセン領、現在のドイツ・フランス国境に近いトリーアという田舎町です。マルクスは弁護士であるユダヤ人の父のもとに生まれますが、幼少期のうちにプロテスタントに改宗しています。

この、マルクスが生を受け、幼少期を過ごす時代は、ナポレオン戦争が終結したものの、彼のもたらした自由主義の余熱がヨーロッパ各国でいまだ冷めやらぬ時期でした。ドイツでも、自由主義を求めた運動が幾度となく行われており、それらが封建主義によって弾圧されていく過程を、幼いマルクスは目の当たりにしています。

ギナジウムに入学したマルクスは、ここで優秀な成績を挙げます。特に、文学、語学に関して彼はこのころから天稟を示したようで、卒業証書にも特に顕著な成績であることが書かれています。

Von 1835-41 studierte Marx Staatswissenschaften, Philosophie und Geschichte in Bonn und Berlin, wo er sich der junghegelianischen Bewegung anschloß

「1835年から1841年まで、マルクスは政治、哲学、歴史をボンとベルリンで学び、またこの大学時代、彼は青年ヘーゲル派運動に加わった」

ボン大学在学中の彼の生活は放埓を極めます。酒を飲み授業をさぼり、貴族の娘である婚約者には暴君のように振る舞い、浪費と放蕩を繰り返します。この、彼の素行不良は終生の彼の性格として変わることはありませんでしたが、父親は、大学を変えれば少しはましになるだろうと思い、彼をより厳格なベルリン大学に転校させます。

ベルリン大学に転校したマルクスは、自由主義への傾倒から、ヘーゲル左派グループに加入します。この、フォイエルバッハらを擁するドクトル・クラブ(ヘーゲル左派グループ)との関わりが、彼の今後の思想の根幹を作り上げていくこととなります。

ヘーゲル哲学とマルクスへの影響

マルクスの思想がはっきりとその輪郭を表すには、アルチュセールが「認識論的断絶」と称した彼の初期の重要著書である、エンゲルスとの共著「ドイツ・イデオロギー」(1845年)を待ちます。

ベルリン大学でヘーゲル左派グループに傾倒したマルクスは、ここでヘーゲル的な観念論を学びますが、のちに彼はヘーゲルの観念論を評して「弁証法はヘーゲルの思想の中では逆立ちされた状態だ」と揶揄するように、彼の思想はヘーゲル的な観念論への批判のうえに立脚しています。

その批判的視点にもかかわらず、マルクスの思想はヘーゲル、およびそれを踏襲し、唯物論への道を切り開いたフォイエルバッハなしには成り立ちません。

ヘーゲルの思想では、社会は弁証法を経て理想へと進んでいきますが、その目的は観念的なものでした。ヘーゲルにあって、世界は観念のかりそめの姿です。一方、マルクスの唯物弁証法は、確固たる世界のうえに立脚しており、ドイツ的観念論の幻想を断ち切ります。マルクスにあって、人間の存在とは、観念の仮初の姿ではなく、物質世界に確固として根付いた事象そのものなのです。

ともあれ、ベルリンでの青年時代のマルクスは、いまだにヘーゲル左派としての理論を信奉していました。

ヘーゲル

そして、大学を卒業後、1841年、教授の道をあきらめた23歳のマルクスは新聞社に勤め始めます。ただし、ここでのマルクスは政府のご機嫌を取りながら執筆せざるを得ず、あまり満足をしていなかったようです。

このマルクスのジャーナリストとしての活動は、彼らの新聞社がプロイセン政府に目をつけられたことによって会社は潰され、終わりを迎えます。以降、マルクスは活動の拠点をフランスへと移し、次第に共産主義的思考にのめりこんでいくようになります。上述のような、彼のヘーゲルからの脱却、そして批判が始まるのはこのころからです。

マルクス主義の誕生

マルクスの思想家としてのスタート地点は上述のように、経済学ではなく、哲学です。彼の本来の目的は「人間のあり方」を考えるもので、経済学は彼が後から学びなおしたものでした。

人間とは何でしょうか。生きてさえいれば、生物学上人間に分類されるのであれば、それは人間と呼ぶことが可能なのでしょうか。たとえ、彼らの生活が朝から晩まで資本家に搾取されるような単純労働に終始し、絶えず日銭を稼ぐために働き続ける彼らの生活を、人間らしい生活と呼べるのでしょうか。

Und der Arbeiter, der zwölf Stunden webt, spinnt, bohrt, dreht, baut, schaufelt, Steine klopft, trägt usw. – gilt ihm dies zwölfstündige Weben, Spinnen, Bohren, Drehen, Bauen, Schaufeln, Steinklopfen als Äußerung seines Lebens, als Leben?

「彼らは、12時間も機織りをし、糸を紡ぎ、穴を掘り、機械を回し、工事し、シャベルを使い、石を叩き、荷物を運ぶ。この12時間も、機織りをし、糸を紡ぎ、穴を掘り、機械を回し、工事し、シャベルを使い、石を叩き、荷物を運ぶことは、彼らの人生の証明にふさわしいのだろうか?彼らの人生にふさわしいのだろうか?」カール・マルクス

人間はモノではありませんし、放っておけば利益を生み続ける全自動機械でもありません。彼らの人間としての本質を踏みにじっているものは何なのか、マルクスは考えました。そして、彼が見つけたのは、剰余価値(Mehrwert)という資本主義社会の中に潜む闇と、この資本家による搾取構造を作り上げている資本主義という邪悪な社会構造です。

工場の児童労働者たち

http://webs.bcp.org/sites/vcleary/modernworldhistorytextbook/industrialrevolution/ireffects.html

マルクスはヘーゲルのように生易しくはありません。マルクスの提案するこの社会構造から脱する唯一の方法は、革命です。新聞社を辞め、フランスに拠点を移した彼の思想は、次第に過激なものへと発展していきます。

時代はこのころ、まさにすべてが移り変わる過渡期にありました。1848年、フランスで1848年革命が勃発、フランスに共和制政府が樹立します。これによって、プロイセンやロシアなど、当時絶対王政の権力の下に従えられていた国にも、こうした革命の機運が輸出されることとなります。

今でこそ、共産主義と自由主義は相反するようなイメージですが、この当時、マルクスの根本的な思想は自由主義からスタートしており、自由主義も、共産主義も、ともに当時の絶対王政のくびきを打破するためには、手を結ぶべきものでした。

そのため、マルクスはここぞとばかりに絶対王政に対抗する勢力を、ジャーナリズムを駆使して煽りますが、当然これは各国の政府によって目をつけられることとなり、プロイセン、ベルギーなどから出禁を食らいます。

こうして敵を作りすぎたマルクスは、貴族出身の妻を道連れに、欧州各国を放浪した後、最終的にイギリスに居を移すことになりました。

カールマスクスとその妻

http://thephilosophersmail.com/capitalism/the-great-philosophers-karl-marx/

イギリスでの貧困生活と資本論

1849年、マルクスが31歳のときに始められたイギリスでの生活は赤貧を極めました。このころのマルクスには妻も子供もいましたが、彼らを食わしていく余裕がマルクスにはありません。イギリスのボロアパートを借り、朝から晩まで彼の研究に勤しみます。

収入などほとんどないので、友人への金の無心や、借金に頼らざるをえませんが、返せるあてもないので、当然生活は貧窮していく一方です。にもかかわらず、マルクスはその研究の手をゆるめません。何かに取りつかれてでもいるように、ひたすら1857年に入稿することとなる「資本論」のための資料を読みふけります。

この間、マルクスの子供が病死しました。貴族出身の妻は嘆きますが、マルクスには葬式を出す金もありません。この経済的困窮は、妻の親が亡くなって遺産が転がり込むと、多少なりとも緩和されますが、そもそも収入がないという状況に変わりはないので、また数年後には文無しの生活に戻っていきます。

Marx was not a well-respected or popular intellectual in his day. He spent much of his time puttering around the reading rooms of the British Museum slowly writing an interminable book about capital. He and Engels were always trying to avoid the secret police (including Marx’s brother-in-law, who ran the Prussian secret service).

「マルクスは存命中、あまり名の知られた人物ではなかった。彼は多くの時間を、大英博物館の読書室をうろつくことに割き、延々と資本に関する論文を書き続けた。また、その間彼とエンゲルスは、秘密警察の目を欺くことに腐心した。」

この、ロンドンでの塗炭の苦しみの中で、経済的困窮の中で、まるで彼の資本主義への怒りをぶつけでもするかのように書かれた書が、世界史に名を残す「資本論(Das Kapital)」です。

この資本論の中で、彼は資本主義というシステムの持つ根本的な矛盾をあばきます。彼によれば、資本家は賃金労働者を増やしていくが、最終的にはそれは自分の墓を掘るものを増やしているようなものであり、やがて、資本主義の終わりを告げる鐘の音が高らかに鳴り響くだろう、というような主旨のことを伝えています。

彼の書は、単なる共産主義の礼賛ではなく、資本主義に対する警鐘です。私たちの社会を見てください、労働者はひたすら企業の利益のために働かされ、企業はその利益をさらなる利益を生むためにさらなる投資しなくてはならず、その暴走はとどまるところを知りません。我々を取り巻く環境の全てが、いわば資本主義という人間が作り出したシステムによって踊らされているだけなのです(マルクス流の解釈をすれば)。

そうした悪しき社会的構造から脱し、我々は共産主義に移行しなくてはいけない、これは人類が踏むべき重要なステップである、ということです。しかし、この、彼の人生の全てを賭した「資本論」の全てが、彼の存命中に出版されることはありませんでした(一部のみ1867年に出版)。彼と彼の思想が大きく世界を変えることになるのは、彼の死後の話です。

資本論

マルクスの最期とマルクス主義の行方

彼の故郷プロイセンは、時代の流れとともに変化を遂げようとしていました。ビスマルクとヴィルヘルム2世によるドイツ統一事業です。しかしビスマルクは大の社会主義嫌いで知られており、このことから、マルクスは終生、故郷であるドイツへ帰ることはできなくなりました。

1881年、妻が死去、1883年に長女が亡くなると、マルクスは急激に老け込むようになります。すでに彼のロンドンでの放浪生活は30年を超えるようになっていました。還暦を迎えていたマルクスは1883年春に亡くなります。

マルクスは亡くなりましたが、彼の著した「資本論」は、彼の盟友であるエンゲルスの手によって世に送り出されることとなります。こうして、マルクスが着火した共産主義の熱狂は、彼の死後目立たぬよう、しかし着実に世界に拡大していくこととなります。

ロシア革命

彼の望み通り、彼の死後世界は急速な変化を遂げていきます。彼の理想とする共産主義国家が成立するのはこれから35年後、ロシア革命によって誕生するソビエト連邦を待ちます。そして、第二次世界大戦終結後、北朝鮮、中国、ベトナム、キューバ、カンボジア、ルーマニアという共産主義国家が世界に次々とその赤い旗をはためかせていきました。

今でこそ共産主義には独裁体制、言論の弾圧、といった悪いイメージが付きまといますが、マルクスのスタート地点は自由主義者ですし、人間の尊厳を尊重したからこそ、共産主義への傾倒を深めていきました。マルクスの解釈によれば、労働者は人間であり、機械ではありません。彼らには、彼らの人生の意味を全うする権利があるはずです。

皮肉なことに、マルクスの根本的な過ちは、人間は資本家のための機械ではない、としたうえで、人間を人間たらしめている負の感情を、さも機械であるかのように無視してしまったところです。ヘーゲルしかりマルクスしかり、彼らの思想は理想主義的です。

文化大革命中のプロパガンダ

しかし、人間とは、ドストエフスキーの小説に登場するような聖人ばかりではありません。嫉妬、名誉心、虚栄心、憎悪、阿諛追従、といった醜い感情的な部分は、彼の理想論的な著作の論点ではありませんでした。こうした性質をむき出しにする人間が共産主義の要職につきはじめたとき、共産主義体制はすでに綻びを見せ始めていたのです。

毛沢東の大躍進、文化大革命は、人類史上まれにみる犠牲者を出して終えられました。ソビエトのスターリン、ルーマニアのチャウシェスク、カンボジアのポルポトなどによって粛清された数ははかりしれません。東ドイツでは、自由に向けて脱走をはかった人々が次々と射殺されていきました。自由主義からスタートしたマルクスの思想は、マルクスの手を離れると、やがて自由主義の最大の敵となって民衆を殺戮し始めたのです。

クメールルージュの犠牲者

http://www.dw.com/en/saving-arts-nearly-wiped-out-by-khmer-rouge/a-16149469

おそらく、共産主義は、共産主義のトップが私情を挟まず淡々と命令を下すコンピューターであり、かつ国民がそれに淡々と従うチェスの駒だったとしたら、パーフェクトに機能したことでしょう。残念ながら、人間とは、哲学者であるマルクスの想像を超えたもっと複雑で、非合理的な生き物だったのです。

こうした社会的矛盾は解消できず、最終的に資本主義と共産主義の戦いは、1991年、ソビエトの崩壊によって終焉を迎え、資本主義のほうに軍配があがりました。こうしてマルクスの死後わずか100年の間に、共産主義はその栄光と没落を経験したわけです。こうしてもはや、世界中に純粋な共産主義を信奉する国家は存在しなくなりました。

にもかかわらず、世界を見渡してみると、どうも搾取される労働者の人生と、暴走する資本、という資本主義の孕む忌まわしい矛盾は、一向に解消される素振りを見せません。

「資本主義はがけっぷちにあるが、共産主義はさらにその一歩先をいっている」
とあるブラックジョーク

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