岩倉遣欧使節団とドイツ訪問:ビスマルクとのエピソード

1871年1月、ヴィルヘルム2世がヴェルサイユ宮殿でドイツ皇帝に即位します。プロイセンは念願のドイツ統一を果たします。他の欧米列強に遅れての統一国家の成立でしたが、ここからドイツの歴史が始まりました。

その年の暮れ、東洋の小さな国から、大勢の政治家たちがアメリカ・ヨーロッパを訪れるために出発、1873月の初めにはここドイツの地に到着しました。彼らは、岩倉遣欧使節団、最近になって新政府が発足したばかりの島国、日本からはるばるやってきたわけです。

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明治維新と岩倉遣欧使節団

当時の日本の状況をおさらいしましょう。1867年幕府による大政奉還、1869年に戊辰戦争が終結、廃藩置県を経て、1871年、日本はようやく近代国家としての歩みを遅ればせながら開始しました。

一方のドイツの普墺~普仏戦争の統一までの一連の流れも1860年代後半にかけて行われており、この、列強国の最終列車の最後尾に乗っかった両国が、その約70年後に、第二次世界大戦で敗戦を迎えるまでヨーロッパとアジアの国際情勢をかき乱すことになるのは、なんとも数奇な命運を感じます。

日本のほうは、いざ新政府が誕生したとはいえ、やることは山積されています。その中でも、特に外交上重要だったのが「不平等条約」の是正です。日本は、欧米各国と国交を結ぶにあたり(安政五か国条約など)、「治外法権」と「関税自主権の喪失」を認めざるをえませんでした。

これらは、日本からしてみれば不平等ですが、欧米からしてみたら理には適った要求です。例えば、当時の日本にはまだまだ残酷な刑罰などがありましたし、アメリカなどにしてみたら、現地のよくわからない尺度で自分の国民が裁かれて、拷問や打ち首などをされてはたまりません。とりあえず、建前上日本が洗練された近代国家の仲間入りをするまで、日本の尺度で外国人を裁くことや、関税を勝手に決めることは認めないよ、という条約です。

この不平等な条約を、日本は撤廃したいと思います。新政府が樹立し、日本も近代国家としての第一歩をようやく歩みだしたわけです、いきなり条約改正できるかどうかはともかく、交渉のテーブルくらいにはつかせてくれるんではないだろうか、という淡い希望を抱きます。

そして、この遣欧使節団のもう一つの理由は、欧州の現状を見て回ることです。日本がこれから近代国家としての歩みを進めていくうえで、欧米の列強たちの政治システムなどはお手本にしなくてはいけません。

この辺の柔軟さは、当時の中国や韓国にはありませんでした。彼らが劣っているというのでは決してなく、中国は、「中華思想」「華夷秩序」の価値観をもとに、常に世界文化の中心として歴史の歩みを進めてきた自負があったからです。今更、外国の文化をお手本になんてできません。韓国も、中国の真横という、地理的に苦しい立場にあり、日本のように柔軟に動けません。

結局、韓国もこの中国の見方に賛同せざるをえず、アジアで柔軟に欧米の文化を取り入れられるのは、東南アジアや南アジアの植民地化された国家を除き、日本ただ一国という状況でした。

そんな二つの理由「不平等条約の改正」「欧米の視察」のためにおこなわれたのが、この岩倉遣欧使節団です。

岩倉遣欧使節団

岩倉遣欧使節団

(写真引用ウィキペディア)

岩倉使節団とドイツ訪問

岩倉具視使節団の多くは、桂小五郎、大久保利通、伊藤博文など、幕末志士たちで構成されていました。また、東洋のルソーとうたわれた中江兆民、津田塾大学の生みの親である津田梅子、後に西南戦争に士族側で参戦し、命を散らすこととなる村田新八など、国のトップから留学生まで、様々なジャンルの人間が含まれていました。

旅のルートは、アメリカを視察し、のちに大西洋からヨーロッパにわたり、ロシアやフランスなど列強国の国王に謁見し、地中海・紅海を経由して世界一周を果たす形でアジア航路から日本に戻ってくる、2年程度の大構想です。当然、ルートの中には当時統一されたばかりの新国家、ドイツの名前も連なっています。

アメリカで、彼らは不平等条約を是正するのは難しいことを悟り、それからは、現地の視察と、国王へのあいさつに方向転換をしました。とりあえず、不平等条約の是正は後回しです。

そんなこんなで、1873年3月、日本を出発して1年半後、岩倉具視遣欧使節団はドイツに到着しました。もちろん、国王との謁見や産業の調査も重要だったのですが、ドイツ側の記録によると、面白いことに彼らが最初に向かったのは、ベルリンの動物園です(今もベルリンに残る由緒正しい動物園で、ベルリンを訪れる際はお勧めです)。

3月16日、遣欧使節団はZeughausという造兵廠を訪れ、そこで面白いエピソードを残しています。

Beim Besuch im Zeughaus wird den Japanern erklärt, den riesigen Löwen im Innenhof hätte man 1864 den Dänen weggenommen, die ihn nach dem Sieg in der Schlacht bei Idstedt 1850 in Flensburg aufgestellt hätten. Kume erinnert sich, dass auf dem Waterloo-Denkmal ein Löwe steht, den die Engländer den Franzosen weggenommen hatten. Und er weiß auch, dass Napoleon die Quadriga auf dem Brandenburger Tor abtransportieren ließ. Er kommt, leicht ironisch, zum Schluss, in Europa ginge es bei den Kriegen um das gegenseitige Wegnehmen von Löwen(ドイツ語版ウィキペディアより引用)

「造兵廠を訪れた日本人たちは、その中庭にあるライオン像は、1864年にデンマークからかっぱらってきたもので、もともとは1850年のIdstedtの戦い後にフレンスブルクに飾られていたものである、という説明を受けた。久米邦武は、ワーテルローの記念碑のライオン像は、イギリスがフランスからかっぱらってきたものであることを思い出した。そして、彼は、ナポレオンがブランデンブルク門から四輪馬車(門の上に飾られている像)をかっぱらっていったことも知っていた。会話の最後に、久米は“ヨーロッパの戦争ではライオンを奪い合うのが関心ごとなのですね”と皮肉交じりに言った」

久米邦武

久米邦武

そして、一行はドイツ滞在中に、ヴィルヘルム1世およびビスマルクとの対話も果たしています。当時、統一されたばかりのドイツで、このヴィルヘルム1世とビスマルクこそが、その牽引を果たしたのです。この場で、ビスマルクは一向に向かって以下のような口調で当時の情勢を諭します。

Bismarck führte in dieser Rede aus, dass man zwar zur Zeit die Einführung eines Völkerrechtes diskutiere, was aber schwachen Ländern bei der Durchsetzung ihrer Rechte wenig helfen würde. Japan müsse daher versuchen, stark zu werden. Er wünsche Japan viel Erfolg bei der Modernisierung des Landes und betonte, Deutschland beabsichtige nicht – im ausdrücklichen Gegensatz zu England und Frankreich – sich am Wettlauf um Kolonien zu beteiligen(ドイツ版ウィキペディアより引用)

「ビスマルクは以下のように諭した。“目下、国際法の導入を議論しているようだが、弱い国がそれを導入したからといって、権利が守られるとはいいがたい。なので、まず、日本は強くなりなさい“、と。ビスマルクは、日本が近代化することを望み、そしてドイツはイギリスやフランスのように、植民地競争に参与する意図はない、ということを強調した。」

これは、岩倉使節団にとって寝耳に水の衝撃でした。正直者が得をするのではなく、魑魅魍魎跋扈する国際外交の世界では、強いものこそが生き残るのだと、国際法なんて弱者にとっては意味がない、と、一足先に列強の仲間入りを果たした先輩のビスマルクは言っているのです。

ビスマルク

ビスマルク

不平等条約を是正こそが今回の周遊の目的でしたが、そんな不平等条約が文面上で改正されても、戦争に弱い国がいくら押し通したところで、実用的にはまったく価値がない、ということに気づかされたのです。

ドイツがこの短期間で強大な先進国の仲間入りをしたという事実は、確かに日本がドイツの政治システムをお手本に近代化を進め始めた理由の一つでもあると思いますが、実際には、ここでのビスマルクとの対談が感情的にその後の日本の国策方針に大きく影響したと思います。彼は、おそらく利害とは関係なしに、この東洋のちっぽけな国から来た未開の外交官たちに助言したため、遣欧使節団もその騎士道精神に心を揺さぶられたのです。

ビスマルクは、目的のために手段を選ばない男です。身内の不幸も喜んで政治の道具に使うことができる、徹底したリアリストです。

一方で、無駄な戦争はしませんし、無駄な敵は作りません。この場において、日本は彼の敵ではありませんでしたし、ビスマルクは、ひょっとしたら将来日本が力を蓄え、この日のことを覚えていてくれて、良きドイツの盟友になってくれることを、多少なりとも考えたのでしょうか。

この後、岩倉使節団は帰国し、日本はドイツ式の軍制をしき、近代化の階段を上り始めます。ビスマルクのいうように国力をつけ、中国やロシアを戦争で破り、今度は、韓国併合、満州国建設、と東アジアの覇権をかけて帝国街道をまい進し始めます。

やがて、アジアとヨーロッパで完全に孤立した日本とドイツが、初めて戦争で手を結ぶのは、この岩倉使節団の訪問から60年以上たった1936年、日独防共協定が締結される日を待ちます(ちなみに、岩倉使節団の田中光顕はこの時存命です)。

この、近代化以降、ビスマルクの避け続けていた帝国主義をとり、第二次世界大戦に向け、お互いを道ずれに破滅の道を歩もうとしている当時の日独両国を見たとしたら、ビスマルクは果たしてなんと言ったでしょうか。

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