ヒンデンブルグ号爆発事故:ナチスの前途を象徴する飛行船のカタストロフィ

第一次世界大戦と第二次世界大戦に挟まれた戦間期、ドイツがワイマール共和国と呼ばれる体制下にあったとき、ドイツはナチス党のもとで、異常な熱狂に包まれていました。破滅的な狂乱のもと、ヒトラー率いるナチス・ドイツは、まるで壊れた暴走列車のように、ドイツ国民全員を巻き添えに戦争への道を邁進していきます。

経済的な絶望の中、そして軍靴の音がせわし気に欧州に忍び寄る中、ドイツではなにもかもが戦争のプロパガンダとして利用されるようになりました。1936年、そうした時代背景の中で、第一次世界大戦の英雄、ヒンデンブルグの名を冠した飛行船ヒンデンブルグ号は、ドイツの威光を世界中に知らしめる目的で、大空を舞ったのです。

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ヒンデンブルグ号の歴史

まだ戦場に馬と戦車が入り乱れていた、20世紀も初頭のころ、空の覇権は飛行機と飛行船という、2つの新技術によって争われていました。今でこそ、すでに飛行船は前時代的なものですが、1900年代初頭のヨーロッパの空は、多くの飛行船でにぎわっており、人々はよくわからずに空を飛ぶ機械の塊よりも、ふわふわと空を浮く飛行船のほうに安全と優雅さをおぼえたようです。

さて、この当時、ドイツはいわゆる「飛行船先進国」でした。ツェッペリン伯爵によって発明・改良された飛行船は、1909年には民間用の航空会社に活用されるようになり、多くのドイツ人の乗客をのせて空を飛びます。

さらにその5年後の1914年に勃発することとなる第一次世界大戦では、爆撃・偵察目的として飛行船が活用され、改良が重ねられました。スピードと耐久面で複葉機に劣っていたものの、無音で目立たない点など、良い点もいくつかありました。

そのため、第一次世界大戦で飛行機の性能が向上し、飛行船が撃ち落されるようになってからも、相変わらず飛行船は作られ続けました。飛行機は大勢の乗客を運べる飛行船の完全な上位互換とはならず、その後しばらくの間、空では飛行機と飛行船が共存する時代が続いたのです。

そんな中、飛行船の耐久性を改良する目的で作られたのが、「硬式飛行船」です。上述のツェッペリン伯爵の跡を引き継いだフーゴー・エッケナーによってこの硬式飛行船、LZ 127グラーフ・ツェッペリン号は開発されました。LZ 127グラーフ・ツェッペリン号は1929年には世界一周の旅をおこない、第一次世界大戦後の混乱で絶望の淵にあったドイツ国民を励まします。

ちなみに、リンドバーグによる飛行機での大西洋無着陸飛行が行われたのが1927年のことで、こちらも大きく話題となりました。

こうして、飛行機との差別化、優雅な空の旅をうたい文句にツェッペリン社は拡大します。上述のLZ 127にくわえ、さらに巨大な後続機であるLZ 129が開発されることとなりました。これが俗にいう「ヒンデンブルグ号」で、後にニューヨーク上空で炎上、飛行船ブームに終止符をうつこととなります。

フーゴー・エッケナーとナチスの確執

さて、事件の本題に入る前に、当時の時代背景について少し説明しておきましょう。1929年に世界恐慌が勃発、ルール地帯をフランスに占領されると、ドイツはにっちもさっちもいかなくなり、とうとう1933年にはナチス党がドイツの政権を掌握、ドイツはナチス一色に染まり始めます。

この影響は、政治家だけでなく、実業家、一般市民にまで及び、例えばあのHUGO BOSSもナチス党に参加することで、大量の軍服の注文を取り付けることに成功しました。ナチス政権下で、ビジネスの成功を収めるためには、彼らへの協力が絶対条件だったのです。

にもかかわらず、この状況下でナチスへの協力を拒み続けた男がいました。ツェッペリン伯爵の死後、実質ツェッペリン社の実験を握っていたフーゴー・エッケナーです。

エッケナーは当初、ツェッペリン社の宣伝部で自身の才能を開花させ、飛行船の認知度を高めることに貢献します。その後、飛行船の船長としても現場の指揮をとり、引退まで数多くの飛行船を操縦しました。

彼の飛行船にかける情熱は並々ならぬものであり、第一次世界大戦後も、飛行機との市場争いに負けぬよう様々な趣向をこらし、飛行船産業を盛り上げます。1929年に行われたグラーフ・ツェッペリン号による世界一周も、そうした彼の創意によるものでした。

さて、飛行船による広告は今現在でもつかわれているように、大きな機体に文字を乗せ、優雅に空を舞うさまは、地上の人々を虜にする魅力をもっています。こうした飛行船の持つ力に、国威宣伝にこだわるナチスが注目しないことはありませんでした。

ナチス党は何度もエッケナーにナチス党への協力を呼び掛けるも、エッケナーはかたくなに拒みます。結局、ゲーリング主導のもと、1935年にツェッペリン社は国営化され、名実ともにナチスのプロパガンダとして扱われるようになっていくのです。

こうした状況下で、今までエッケナー氏のもとで安全を期していた飛行船の運営は、次第に雑なものとなっていきました。閑職に追いやられたエッケナー氏と、新しい操縦士の間では、強風時の離陸をめぐっていさかいが発生しました。そうして、関係者がぎくしゃくし、おこるべくして起こったのが、かのヒンデンブルグ号爆発事故です。

ヒンデンブルグ号


(Quelle:http://www.rp-online.de/panorama/fernsehen/hindenburg-die-deutsche-titanic-aid-1.1999694)

ヒンデンブルグ号の爆発事故

ヒンデンブルグ号と名付けられた、世界史上でもっとも大きな飛行船、LZ129は、1937年の5月3日、ドイツのフランクフルトを旅立ちます。ヒトラーに「空のタイタニック」(なんて縁起の悪い・・)と形容されたこの超大型飛行船には、レストランやバーはもちろん、ポストやピアノ会場まで設けられており、まさにその名に恥じぬ空の豪華客船でした。

わずか半日で大西洋を横断した後、ヒンデンブルグ号は悠々と、当時のナチス・ドイツの仮想敵国であるアメリカの上空に姿を現します。予定では、ニューヨークに到着、この光景は感嘆の意をこめて、テレビで大々的に報道されるはずでした。

そんな誰もが見守る中、突如としてヒンデンブルグ号は燃え上がったのです。

„Es brennt. Es brennt und es stürzt ab“, schrie Radioreporter Morrison ins Mikrofon. Innerhalb von Sekunden ging das gewaltige Luftschiff komplett in Flammen auf, und Morrison wurde live vor dem Mikrofon von seinen Gefühlen überwältigt. „Das ist so furchtbar, die schlimmste Katastrophe der Welt“, schluchzt er, „oh, Menschheit.“

「”燃えている!燃えて、そして墜落していく!”と、ラジオレポーターのマリソンはマイクロフォンに向かって叫んだ。ほんの数秒の間に、この巨大な機体は見る見るうちに炎に覆われていき、マリソン氏はただその光景に生放送にもかかわらず驚愕の声を抑えきれなかった。”なんてひどいことだ、この世で考えうる最悪の大惨事だ”、そして、すすり泣いた。」

誰もが予想もしなかった事態に、大勢の人が戸惑いました。中にはまだ多くの乗客をのせたまま、可燃性の水素の塊であるヒンデンブルグ号は見る見るうちに炎につつまれていくのです。

炎上するヒンデンブルグ号

(Quelle:http://www.t-online.de/nachrichten/wissen/geschichte/id_56140094/hindenburg-katastrophe-beendete-luftschiff-aera-.html)

Tatsache ist jedoch, dass der Wasserstoff in nur 34 Sekunden verbrannt ist. Mit ihm Dutzende von Menschen und der Traum des Atlantik-Pioniers Dr. Hugo Eckener…. Das unbrennbare Helium stand ihm für seinen Zeppelin Hindenburg nicht zur Verfügung, die Vereinigten Staaten hatten es mit einem Ausfuhr-Embargo belegt.

「水素の塊であるヒンデンブルグ号はわずか34秒で燃え尽きた。ヒンデンブルグ号とともに、数十人の乗客と命と、エッケナー氏の夢は消え去った….可燃性ではないヘリウムを使うことは、アメリカがナチスへの輸出を禁止したため、実現しなかったのである」

ヒンデンブルグ号が可燃性の水素を使わなくてはいけなかったのは、政治的な理由からアメリカがヘリウムをドイツに禁輸したことがきっかけです。あっという間に炎に包まれたヒンデンブルグ号は、世界史上でも類を見ない大惨事として歴史に名を刻むこととなりました。原因は静電気によるもの、と言われているが、いまだにはっきりとした理由は解明されていません。

この事故の犠牲者は36人でした。結局、この事故がきっかけで、今まで世界中の空を舞っていた飛行船の運行に終止符が打たれ、飛行機の時代がやってきます。エッケナー氏はその後も第二次世界大戦を生き延び、戦後はアメリカ主導のグッドイヤー・航空会社に相談役として招かれますが、結局ここで彼の臨んだ飛行船が再び空を飛ぶことはありませんでした。

そして大惨事からおよそ80年後、最後のクルー乗客員が息を引き取りました。

2014 starb mit Werner Franz der letzte Überlebende der Crew. Als 14-Jähriger hatte Franz im Zeppelin als Kabinenjunge gearbeitet. Als das Feuer ausbricht, spürt er einen Ruck, sieht Flammen, springt und rennt. Sein Leben lang sei Franz von der „Hindenburg“-Katastrophe traumatisiert gewesen, sagte seine Witwe einmal. „Mein Mann hat mir erzählt, dass er jedes Mal, wenn starkes Licht in die Halle fiel, erschrak und Panik bekam

「2014年、クルーのうち最後の生存者であるフランツ氏が亡くなった。彼は事故当時、14歳の若さにしてキャビン見習いとして働いていた。炎が燃えあがったとき、彼は衝撃を覚え、それから炎が勢いよく燃え盛るのを目の当たりにした。フランツ氏の人生は、その後長らくこのヒンデンブルグ号のトラウマに苛まれていた、と彼の妻はいう。”私の夫は、ホールに光が差し込むのを見ると常に、ショックを起こしパニックに陥いるようになった、と語っていました。”」

ヒンデンブルグ号爆発事件は、第一次世界大戦と第二次世界大戦に挟まれ、多くの混乱に包まれたこの時代のドイツを象徴するに相応しい出来事です。この数年後、ドイツの空を席巻するのは優雅な飛行船ではなく、爆弾を搭載し無差別にドイツ人民を殺傷せしめる連合軍の爆撃機です。

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