日独関係史を振り返るその1(三国干渉、第一次世界大戦、第二次世界大戦)

近代化以前にはあまり接点のなかったドイツと日本の歴史について触れていきたいと思います。大学受験自体に日本史は頑張って勉強したので、知識などにあまり間違いはないと思いますが、間違っていたらすいません。

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ドイツと日本の関係史(戦前)」

文献などを調べればもっと詳しいものが当然たくさんありますので、この記事ではあくまでドイツ渡航前に空港でちらっと読める程度のものを目指して書いていきたいと思います。

まず、日独関係というより、日本の長い外交の歴史を振り返ってみると、明治期以前、日本の外交の歴史は鉄砲伝来や多少の東南アジアとの交流を除けば、イコール中国、韓国との外交史で、そして江戸時代に入ってからですら、それにオランダ、ポルトガルが付け加わるくらいのものでした。

江戸時代後期になると、一挙に開国の気運が押し寄せます。アメリカやロシアを皮切りに、多くの国との不平等条約が結ばれることとなり、その中に近代化を達成化したばかりのドイツの名も連なっています(もっともこのころはドイツではなくプロイセンですが)。1861年1月24日に日普修好通商条約締結(試験ではあまり出ない)。

さて、ここから日本とドイツの150年ちょいの外交史が幕を開けます。まず、この時代に日本はドイツから多くの制度を導入しました。政治制度や陸軍制度、医療用語などが主たるもので、理由としてはドイツのこの当時、イギリスやフランスに遅ればせながら近代化を成し遂げたいわば「近代化の成功事例」だったわけで、それをお手本にしようと考えたわけです。

このビスマルク統治時代の日本とドイツの関係は割りと良好なものでした。というのも、お互いに利益を侵食することがなかったからです。ところが、日本が日清戦争で勝利を収め、ドイツ国内の気運が次第に帝国主義に傾き目線がアジアに向けられるようになると、今度は利害の衝突が発生しました。

ここでかの有名な三国干渉が発生します。日清戦争で勝利した日本は、清国から多額の賠償金と遼東半島を獲得しますが、ここにロシア、ドイツ、フランスからなる列強のいちゃもんが入ります。ちなみに、歴史を理解するにあたって、良い悪い、好き嫌いの二極的な判断を挟むとこんがらがったり差別意識を生みますので、これらは単なる列強のパワーバランス下でおこなわれているゲームだと考えましょう。ようするに、列強は清国の植民地化を虎視眈々と狙っていましたが、それを日本に独り占めされるのは良くないということで、いわば「敵の敵は味方」理論でロシアとドイツは手を組みます。

ついでに大義名分を知らしめるために時の政権ヴィルヘルム二世は黄禍論を理由に列強を説得に当たったということで日本人の覚えはよろしくないですが、こうした人種や宗教を槍玉に挙げる戦法は意識を外に向けさせる一つの手段ですし、現に第二次世界大戦中は今度はドイツはスラブ人やユダヤ人を劣った人種「Untermensch」として攻撃し始めます。

ちょっと脱線しましたが、ようするにこの三国干渉で日本はドイツのせいで遼東半島を失い、一方でドイツ・ロシアは着実に清国の支配を始めることになります。日本は清国との戦争には勝ちましたが、欧州との外交戦争に敗北しました。

一方で、日本には遼東半島を清に返せといったくせに、ドイツはちゃっかり3年後に膠州湾を獲得しています。まあ、戦後の価値観から考えるとこうした人種差別や植民地化や奴隷制度は良くない気がしますが、そもそも政府の役割は世界平和ではなく自国民を飢えさせないためのものですし、そのために誰が死のうが植民地になろうが関係ない、弱肉強食といった感じです。

ともあれ、この一連の流れは鎖国で1世紀くらい時差ボケしていた日本人の気概をたたき起こします。「臥薪嘗胆」「富国強兵」をキーワードに軍国化が叫ばれ、1902年にはお互いにロシアを牽制したい利害が一致し日英同盟を締結、ロシアとの衝突に備えます。ちなみにこの当時ドイツはロシア寄りでした。

1904年に日露戦争が勃発。東郷艦隊の活躍もあって日本は名目上勝利を収めます。これも、別に戦争それ自体で完勝したわけではなく、ずいぶん怪しい勝利でしたが、何とかアメリカとイギリスの外交的な協力もあって勝利、朝鮮半島を獲得します。ちなみに、ドイツは先ほどのヴィルヘルム2世の強硬な対外拡大路線のせいで、ビスマルク時代に築いた外交路線が次々と破壊されていき、欧州で味方がほぼいなくなる悲惨な状況に陥ってしまったので、日本にちょっかい出す暇はなくなりました。

第一次世界大戦と日独の孤立

結局これのせいでヨーロッパのパワーバランスはドイツを中心に大きく乱れることになり、1914年にはついに第一次世界大戦が勃発します。このとき、日本とイギリスはまだ同盟を結んでいましたので、ドイツに向けて宣戦を布告、といってもヨーロッパまで兵を進軍させるというわけではなく、アジア地域のドイツ軍を駆逐する地味に美味しい作戦に従事します。

ここで日本軍はチンタオ(青島)やミクロネシアを占領、ロシアについでドイツにも三国干渉の借りをきっちり返します。ということで第一次世界大戦後も日本はちゃっかり5大国の位置に座ることになります。ちなみに、このとき日本の軍事的な状況は太平洋戦争ほど逼迫していませんでしたので、ドイツ人捕虜に対する処遇も比較的穏やかに行われ、ドイツ人の捕虜からソーセージなどの作り方が伝達されるなどほほえましいエピソードもあるくらいです。ついでに、この当時日独の貿易が途絶えたので、薬品など日本は独自に開発する必要が出て、日本の医療関係の技術が発達しました(日本史の試験に頻出)

一方、外交的には、ここで日本は調子に乗ります。かの有名な対華二十一か条の要求で、これによって中国を独り占めしようと考えたため、西欧列強は次第に冷たい態度をとるようになります。断っておきますが、この当時植民地化自体は戦後の一部の人々が騒いでいるように正義とか悪とかの一面的な感情で判断できるものではなく、自分の国を豊かにするためにどの国もやっている立派な外交の延長手段の結果です。ただ日本の場合、外交の経験値が足りなかったため、ちょっとあからさまにやりすぎました。地上げ屋だってもうちょっと遠まわしにやります。結果、日英同盟すらも失い、日本は世界中を敵に回します。

確かどこかのテレビシリーズで、第二次世界大戦で枢軸国が勝っていたらどうなっていたか、みたいなのがあった気がしますが、しいて日本にチャンスがあるとすれば、この時期までさかのぼってあまり調子に乗らず、地道にアメリカやイギリスと手を組んで満州を共同経営しておくくらいしか海外領土を失わない道はなかったと思います。

というわけで、日本と中国の関係ももはや引き返せないくらい悪化し、国内のいびつな経済状況の生んだ軍部暴走や経済危機を経て、1930年代になると満州で泥沼の15年戦争が開始されます。そしてこのころ、ヨーロッパにほぼ味方のいなかったドイツは中国と連携し、ばんばん武器を輸出、顧問を送り込むなど当時の日本軍を苦しめます。これによってドイツの武器商人たちは巨額の富を得られるので大喜び、後にヒトラーが中国を切って満州を容認するときも政府に反発します。

何度もいいますが、お互いの利害が一致した行為ですので、こうした事実をもって反日だの親日だの判断することはできません。みな自分の利益のために好き勝手に動く混沌とした時代です。

さてこのころ、ドイツの主たる敵国はというと、赤化し、凶悪で強大な陸軍をかかえるソビエトです。このソビエトにドイツは対抗しなくてはいけません。そこで、ヒトラーは考えます。確かに中国はビジネスチャンスとしてはおいしいけど、内戦が続いているこの国家を今から近代化するのは無理がある、と。というわけで、ヒトラーはあっさり方向転換し、中国よりはまだどちらかといえば使えそうな日本を道連れに同盟する道を選び、ソ連に対抗しようとします。

ただし、ここから日独の外交連携はめちゃくちゃです。日本がソ連とノモンハン戦争を起こせばドイツはソ連と不可侵条約を結び、日本がソ連と停戦するとドイツはソ連に対し戦争を起こし、ドイツがソ連と激戦を繰り広げる中、日本はアメリカに戦争をけしかけ、結局二人三脚で言うとお互いに右の足を出すような、お互いに何がしたいのか分からないような外交を繰り広げて破滅しました。

当初のヒトラーの目的は反共だったので、しいて言えばその名目でイギリスなどと同盟していればまだチャンスがあった気がしもしませんが、日本の政策は南下政策と石油物質の確保ですし、まあそもそもお互いに無理がある同盟政策だったとしか言いようがありません。逆に当初ヒトラーが構想していたように東京からマドリッドまでソ連を含めた同盟をひくか。もちろん戦争自体も人道的な見地からみたら褒められたものではないですが、もっとタチの悪いのはこうしたよく分からない外交の結果引き起こる負け戦ではないかと思います。