東西ドイツと冷戦の象徴:ベルリンのブランデンブルグにまつわる話


その国、その都市にはそこを代表する建造物=シンボルが存在します。フランスであれば凱旋門やエッフェル塔、ニューヨークであれば自由の女神のように。

こうした都市の顔となるような建造物をドイツ語で『das Wahrzeichen』と言いますが、ではドイツのシンボルは何でしょうか?

多くのドイツ人がその質問に対して、ベルリンの『Brandenburger Tor』と答えます。

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Brandenburger Torの歴史

以下、ブランデンブルグ門としますが、それがつくられたのは18世紀の末で、プロイセン国王のフリードリヒ・ヴィルヘルム2世によって3年かけて完成されました。

ちょうどこのころ、プロイセンは七年戦争、ポーランド分割などを経て、着実に強国としての地位を固めていきます。

1871年にはビスマルクによってドイツの統一がなされますが、ブランデンブルグ門はベルリンの顔として残りました。

1930年代にナチスが政権を掌握すると、民族の象徴としてここで大規模なパーティを催しました。火の燃え盛る中で白黒のヒトラーが演説している映像をみたことがあるかも知れませんが、あれがこの場所です。

しかし、1945年5月にナチスが終焉をむかえ、それを物語るかのように、度重なる空爆とソ連軍の攻撃にさらされたブランデンブルグ門も破壊されます。

それから4年後に、ドイツは東西に分裂し、朝鮮戦争に象徴されるように米ソ間の冷戦がはじまるのです。

1961年8月、度重なる西ドイツへの亡命者を防ぐため、突如として東ドイツ政府によって『ベルリンの壁』が設立されます。全長156kmにも及ぶ長い壁によって、多くの家族が離散させられました。

その東西ベルリンを隔てるちょうど国境の真ん中に、ブランデンブルグ門は残ります。厳戒な警備によってその周りを固められ、ベルリンの象徴はもはやだれも立ち入ることができない無人地帯となります。

それから冷戦が終わるまで、世界の情勢はめまぐるしく変化しました。1975年にはベトナム戦争が終結し、南北ベトナムが統一されます。それから2~300万人と言われる犠牲者を出した、クメールルージュが崩壊し、カンボジアの内戦が終結します。

欧州でも冷戦の水面下の動きが繰り広げられます。1968年にはプラハの春が、1980年代にはゴルバチョフによるペレストロイカが行われます。

そして、1989年に東欧革命がもたらされると、東欧の民主化の動きが高まります。そんな中、1989年11月に、ベルリンの壁は市民の手によって破壊されました。それと同時に、ブランデンブルグ門も再び解放され、多くの人によってその場で祝賀されました。

ブランデンブルグ門の今

パリ広場の一角にあるこの門は、今では多くの祭りやイベント等で使われます。

2006年には、ワールドカップのための大規模な祝賀会がここで催されましたし、毎年年末になると、年越しの花火があげられます。

隣には、5つ星ホテルの『Adlon』が並んでいて、観光の中心としても有名です(シングルで一泊3~400ユーロくらいです)。

また、ユーロ硬貨の裏側にはこの門が刻まれており、ドイツの分離の悲劇と統一を今でも象徴しています。

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