ドイツ統一その3:普仏戦争とその後のヨーロッパへの影響

ビスマルクの鉄血政策にその性格が色濃く表れているように、ドイツは戦争から生まれた国ともいえます。

ドイツを統一するにあたって、近隣の大国との戦争は避けて通れない道でした。

今回はそのドイツ統一に至る最後の戦いである普仏戦争と、その後のドイツの統一までの流れを見ていきます。

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エムス電報事件と開戦

ビスマルク外交の真骨頂は、敵を孤立させるところです。普通、すべての国が参戦するかは別として、戦争を起こすときは多対多になります。これは、相手国への抑止力にもなりますし、そうすると相手の動員兵力を奪うことになり、戦場で有利に働くからです。

普墺戦争後、ビスマルクは、プロイセンはイギリスやロシアなど、自分の敵となりそうな国とは協定を結び、背後をつかれないように先手を制します。ただし、プロイセンにとってやっかいなのは、先の普墺戦争でやっつけたはずのオーストリアとフランスが手を結ぶことです。

フランスとの戦争中にオーストリアから背後をつかれないようにするためには、軍を2手に分けなくてはいけませんので、そうするとプロイセン軍は一気に不利に陥ります。

ところが、ナポレオン3世は、ハプスブルクから迎えてメキシコ皇帝に据えたマクシミリアンを見殺しにしたことで、オーストリア=ハンガリー帝国の顰蹙を買ったため、この同盟は締結されませんでした。フランスは、普仏戦争において味方を得られないまま戦争に臨む形になったわけです。

これはプロイセンにとって天祐でした。敵同士がくっつかなかったため、プロイセンは心置きなくフランスに軍を集中することが可能になりました。

ビスマルクが、フランスとの戦争をなにがなんでもしたかった理由は二つあります。一つは、上述の通りフランスにとってドイツの統一は目の上のたんこぶになるという理由から、フランスが遅かれ早かれ介入してくるのを見越していたこと、もう一つは、北ドイツ連邦に未加入の南の諸都市を、この戦争によって団結させよう、ということです。

国家内の団結力を高めるために一番手っ取り早い方法は、国外の敵に目を向けさせることです。これは、古今東西どこの国でも使われるやり方で、中国では天安門事件以降、急激に対日感情が悪化しました。国内の問題を、国外に敵をつくることによって逸らせる作戦です。

ビスマルクは、理由もなしに戦争を起こすほど馬鹿ではありません。チンギスハンのような好戦家でもありません。ただ、チェスのようにただ淡々と、ドイツ統一までの流れを理詰めで解いていっただけです。戦争は、若干血の流れはするものの、ただの手段に他なりませんでした。

ビスマルクは、相手をうまく戦争に踏み切らせ、こっちはあくまで「戦争を仕掛けられた」立場として開戦することで、国民を一致団結させようと思いました。第一次世界大戦でのルシタニア号撃沈事件や、第二次世界大戦でのパールハーバーなどを利用して国民の戦争意欲をうまく搔き立てたアメリカと同じです。これは卑怯ではなく老獪の類でしょう。

ビスマルクの場合、「フランス側からプロイセンに戦争を仕掛ける」理由があってくれれば助かります。そんなビスマルクにとって絶好のチャンスが訪れます。これが「エムス電報事件」です。

1870年、温泉地で保養中のヴィルヘルム1世のもとにフランス大使が訪れ、スペインの王位継承問題に対しての要求をします。スペイン王家は、今後ホーエンツォレルン家(プロイセン国王の血筋)から国王を出さないように約束してくれ、という言い分で、要するにフランスにとって随分と都合のいい要求です。

このフランス側の不自然なやり取りを受け、ヴィルヘルム1世はビスマルクに電報を送ります。とはいえ、ヴィルヘルム1世からビスマルクに宛てられた電報は割と穏やかで「フランスの外交官が来て、こんなやりとりがあったぞ」程度のものだったのですが、ビスマルクはこれは開戦の口実の好機と喜び、このヴィルヘルムのわりと穏やかな内容の手紙を、穏やかでないようにわざと「要約」し、新聞社に公表します。

ジャーナリズムの限界でもあるのですが、事象と紙面との間には大きな隔たりがあります。解釈次第では、記者や政治家は白は黒にもできるのです。ビスマルクは嘘をついたわけでも、ねつ造したわけでもありません、ただ「誤解を招きやすいよう」に細部をカットしただけです。

ジャーナリズムに対する風刺

ジャーナリズムに対する風刺

記事の中で、ビスマルクは、フランス大使の非礼さと、ヴィルヘルム1世の憤慨ぶりを強調します。「非礼な大使がプロイセンに喧嘩をふっかけたぞ!」というような形です。そしてこの記事の内容は、ビスマルクの読み通り、プロイセン国民を激怒させるのに十分でした。

一方こうしたプロイセン国内の盛り上がりを見て、フランスでも、当然世論が巻き起こります。お互いの国民が感情的になってしまえば、もはや戦争は避けられません。こうして、ビスマルクはまんまと戦争への道筋へと両国を導きました。

1870年7月19日、フランスはとうとうプロイセンに対し宣戦布告をします。まさに、ビスマルクの策略に乗った形で。

普仏戦争とドイツ統一

ここで普仏戦争の流れを事細かに書いていくことはやめましょう。この当時、ドイツは国民皆兵をとっており、兵士を他の国よりも多く動員できる利点がありました。また、兵器の質でもフランス軍を上回っていたといえます。プロイセン内に敷設された鉄道網は兵士のスムーズな動員を可能にし、モルトケの開発した参謀本部と電信網は上意下達システムを完成させました。

こうしたいくつもの要因が重なり、プロイセンは連戦連勝をします。対して、ナポレオン3世には叔父のナポレオンのような統率力はありませんでしたし、あったところで、上記のようなプロイセンの有利は覆せなかったでしょう。時代は次第に、一人の将軍の指揮力で覆せるような戦争から遠ざかり始めていたのです。

半年の交戦ののち、プロイセンはフランスを屈服させ、勝利を収めます。パリまで包囲し、フランス軍は物理的にも精神的にもボロボロに追い詰められ、ナポレオン3世も捕虜となりました。

この普仏戦争は、ヨーロッパに多くの影響を与えました。まずは新興国のドイツの用いたシステムの多くが、戦争によって有用であることが証明されたため、国民皆兵などドイツの真似をするようになりました。日本も、この遅れて統一されたドイツがヨーロッパの列強になるさまをみて、後にドイツのシステムをお手本に近代化をすすめました。

普仏戦争

普仏戦争

フランスは戦争の結果アルザス=ロレーヌを失陥し、ドイツ領となります。この領土問題は、フランス・ドイツ間での禍根をもたらし、第一次世界大戦でのドイツの敗北によってフランスに割譲され、第二次世界大戦中には再度ドイツ領となり、戦後に再びフランスによって取り返されています。

(聞いたことがある人がいるかもしれませんが、フランスの短編「最後の授業」はこのアルザスを舞台に行われており、プロイセンに割譲され授業がフランス語で行えなくなります、という先生のお話がトピックです)

領土問題だけでなく、プロイセンは多額の賠償金をフランスに課し、また領土内に兵士を駐屯させたため、この両国の間には遺恨が残ることとなりました。このフランスのプロイセンに対する恨みは、第一次世界大戦の遠因となり、さらに倍返しとなって第一次世界大戦後のドイツに対する苛烈な賠償金に発展していきます。

そして、忘れてはいけないのがドイツ統一への影響です。この戦争に勝利したことで、ドイツ統一を阻害するものはなくなりました。1871年、敗戦国であるフランスはヴェルサイユ宮殿でヴィルヘルム1世の戴冠式が行われ、ついにドイツは悲願の統一を果たしたのです。

この後、ビスマルクの戦争熱は終結します。ビスマルクは目的のために手段は選ばないものの、戦闘狂ではありません。必要であると思ったから戦争を利用し、必要でないときはその手段をぴたりと封じ込める理性を持ち合わせていたのです。

そのため、その後しばらくドイツの外交は外交による「フランスの封じ込め」に終始するようになります。これは、ヴィルヘルム1世が崩御し、ヴィルヘルム2世の時代にビスマルク体制が崩壊を迎えるまで続きます。

ヨーロッパに束の間の平和がもたらされました。

ドイツをめぐる近代史のまとめ:目次

同時期、日本から岩倉使節団がドイツに到着しています。
岩倉使節団とビスマルクの対談エピソード