ドイツの世界遺産:ツォルフェアアインの炭鉱と暗い歴史

Coal mine

ある国が発展をするときには、産業の発展というものが不可欠です。イギリスで産業革命が始まり、明治の日本が製糸業に注力し外貨を稼いだように、あるいは戦後の東アジア諸国が製造業の育成を推し進めたように、です。

今でこそイギリスも日本も先進国の一員ですが、その発展は多くの犠牲が伴っていました。女工哀史や足尾銅山炭鉱事件のように、社会インフラの未熟なときに行われた経済発展は、えてして社会的弱者の過酷な労働や環境汚染のうえに成り立っています。

ドイツのルール工業地帯の一角『エッセンのツォルフェアアイン炭鉱』もまた、そうしたドイツの産業発展の光と影の部分を備えた世界遺産の一つです。

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ルール工業地帯

エッセンは、ノルトライン=ヴェストファーレン州に位置する、いわゆる『ルール工業地帯』の一角です。ルール工業地帯はルール川に沿ったヨーロッパ有数の重工業地帯であり、近代ドイツの産業発展に寄与しました。

その歴史は古く、そもそもは800年代には農業を営む人たちがこの周辺に町や集落をつくって居住していたといいます。それが、1300年ごろから石炭の発掘をはじめ、プロイセン王国の時代に、重工業政策のかなめとして、急速な発展を遂げます。

重工業のためには、火力が必要ですので、工業地帯の一角に炭鉱があるのは非常に理にかなったことです。【黒いダイヤ】ともうたわれた石炭の発掘が本格的にルール地帯ではじめられたのは1800年代の半ば頃で、そのころ5000人程度であったドルトムンドの人口は、1900年には15万人近くに膨れ上がっています。

人口増加の理由の一つとして、鉱山発掘の拡大とともに人手が足りなくなり、職を求めて田舎や、ポーランドなどから出稼ぎの労働者が流入したためです。

一方、当時の労働環境は、現在では考えられないほど劣悪なものでした。今でさえ、チリやトルコの炭鉱で落盤事故などが相次ぎ、時には痛ましい犠牲も発生していますが、いまよりも150年昔の鉱山に、当然今のような設備も、事故を避ける知識もありません。

毎日、いたるところで落盤や、爆発や、酸欠による事故が相次ぎ、また炭鉱の粉塵・メタンガスは彼らの肺を徐々に蝕み、40歳になるころには誰しも病気で仕事できない状態であったと言われています。

プロイセンがドイツを統一し、やがて労働者災害保険などを含めたビスマルクによる社会保障が発生するのはそうした時代背景からです。

炭鉱の仕事


https://www.zollverein.de/info

また、炭坑内だけではなく、こうした重工業の発展は周囲の人々の生活にも悪影響を及ぼしました。空は工業の排気ガスによって覆われ、畑でとれていた野菜や果物が育たないようになります。

子供たちはやがて、外に出なくなり、野菜を摂らないので病気がちになっていきました。この時代に誕生した自家製の農園がシュレーバ―農園と呼ばれています。

2度の大戦とその歴史の幕

ルール工業地帯は、第一次世界大戦中もドイツの重工業の中心としてフル稼働しましたが、戦後に、敗戦国となったドイツは賠償金不履行に陥ったため、フランスがルール工業地帯を占領する、という事件が起きています。

Die alliierte Reparationskommission stellte Ende Dezember 1922 einen geringfügigen Lieferrückstand deutscher Reparationen an Frankreich fest; dies bot im Januar 1923 den Vorwand für den Einmarsch von fünf französischen Divisionen und einigen belgischen Einheiten ins Ruhrgebiet, über welches die Franzosen sofort den Ausnahmezustand verhängten.

「賠償金委員会は、1922年の12月の暮れに、ドイツのフランスへの賠償金の額が足りないことを確認した。これを口実に、1923年1月、フランスの5個師団とベルギーの兵士がルール工業地帯に侵攻し、フランスは非常事態宣言を発令した。」

この後も、第一次世界大戦でドイツにさんざん痛い目にあっていたフランスは、ここぞとばかりにドイツをいじめ、禍根を残します。このフランスの苛烈な戦後賠償請求が、のちに第二次世界大戦に繋がっていきます。

フランス軍のルール占領(エッセンの様子)

第二次大戦時、ルール地方は同じくドイツの重工業のかなめとして活躍しますが、戦争末期に差し掛かると、大規模な空襲にさらされるようになり、その機能をほぼ失います。

戦後は東ヨーロッパに対抗するため、また国内産業復興の柱として、ルール工業地帯は再興をむかえます。またこのときに、トルコ人などの外国人労働者の受け入れを行いました(今でも、この地域にはたくさんのトルコ人がいます)。

ルール工業地帯を支え続けた石炭の歴史は、緩やかにその長い歴史に幕を下ろし始めます。1900年代の後半に差し掛かると、石油資源や原子力発電への移行もあり、環境に悪影響をもたらす石炭の消費と発掘は、次第に衰退していくようになりました。

一時は年間250万トンもの産出量を誇った、ツォルフェアアイン炭鉱も、その例外ではありませんでした。1983年には操業停止が決められ、1986年はその操業が終えられました。その際に多くの失業者を生み出します。

今では、ツォルフェアアイン炭鉱を含め、ルール地帯の多くの炭鉱が、博物館や名所として多くの観光客を取り込んでいます。

Während der gesamten Betriebszeit wurden zwischen 1851 und 1986 insgesamt 240 Mio. Tonnen Kohle abgebaut. Über und unter Tage waren bis zu 8.000 Bergleute im Schichtwechsel beschäftigt, insgesamt haben bis zur Schließung der Zeche Zollverein 1986 mehr als 600.000 Menschen auf Zollverein gearbeitet.

「1851年から1986年までの操業期間に、240百万トンもの石炭が採掘された。炭鉱の内外では交代で8000人もの鉱員が働いており、1986年にその操業を終えるまでに、ツォルフェアアインでは総計で60万人もの人々が働いたとされている」

ただ、それでも人口の減少・失業率の増加は食い止められず、かつての工業地帯の威光を取り戻そうと、官民一体となって、企業の誘致などが今も進められています。

日本の夕張市もそうですが、資源を生業にしていた町の、資源が枯れつくしたあとの持続的な発展・再興、復興は、もはや世界的にも重要な課題の一つなのではないでしょうか。

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