宇宙ロケット開発の父、フォン・ブラウンと前半生:戦争と渡米

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ひとたび戦争がおきると、多くの人命と引き換えに、大規模な科学の発展が生まれます。

冷戦も一つの戦争で消火。戦後の米ソの宇宙競争の中で、ソ連が先に宇宙へ出ましたが、アメリカが先に月に着陸しました。

1903年にライト兄弟によって実用化された飛行機は、第一次世界大戦では敵陣の偵察に使われ、第二次世界大戦では太平洋を横切るようになり、1961年にはソ連が有人飛行に成功するのです。この間わずか50年というのが驚きです。

当然、科学の発展には様々な人々がかかわっています。仮にライト兄弟が100年以上生き延びていたとしても、それ以上の発明は望めなかったでしょう。

今回は、数多くいる科学者の中で、ヒトラーとケネディにつかえ、宇宙工学を大いに発展させたフォン・ブラウンについてまとめます。

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フォン・ブラウンについて

1912年、彼は現在はポーランド領になっているドイツ東部の都市で生まれました。

誕生から2年後に第一次世界大戦が勃発し、ドイツは敗北したため彼の故郷はポーランド領になります。彼は一族とともにドイツに移り住みました。

1930年、18歳になった彼はベルリン工科大学の門をたたきます。ここでロケットの研究に明け暮れた彼は、同じく若き研究者たちとともに何度かロケットの打ち上げに成功しますが、軍用目的以外のロケットの打ち上げは制限されており、彼はそれ以上の研究ができませんでした。

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そこから、フォン・ブラウンとナチスの接近が始まります。彼は軍の協力を欲していましたし、ナチスもこの若き才能に興味を抱きました。

Er nutzte die Möglichkeiten, die ihm das Militär bot, für seine Zwecke: die Raketenforschung. Und die Nationalsozialisten nutzten das Talent dieses ehrgeizigen jungen Forschers für ihre Zwecke: die Entwicklung einer Wunderwaffe.

『フォン・ブラウンは、ナチスが手を貸してくれるチャンスを欲していた。すなわち、彼のロケット研究のために。同時に、ナチスもまたこの名誉に燃えた、若き研究者の才能を欲していた。すなわち、兵器の向上のために』

野心に燃えるフォン・ブラウンは、1933年にはナチスの親衛隊の仲間入りをし、1937年には兵器開発部のリーダーとなります。

1941年に第二次世界大戦がはじまり、ドイツは戦車、飛行機、大砲と、様々な兵器を開発し、また大量生産に乗り出しました。そして、1942年に連合軍の反撃が決定的なものになると、ナチスはついに禁じ手に手を染めてしまいます。

Im November 1942 begann die Rote Armee ihre Offensive bei Stalingrad. Das beschleunigte das Raketenprogramm. Immer mehr Arbeitskräfte aus den KZ wurden eingesetzt. Goebbels rief den “totalen Krieg” aus und verlangte nach der “Wunderwaffe”, um die Übermacht der Feinde zu bezwingen.

『1942年にスターリングラードで赤軍の攻勢が始まったことによって、さらにロケット開発は促進された。強制収容所では囚人が強制労働に駆り出された。そしてゲッベルスは、これが「全面戦争」であることを強調し、敵軍を殲滅せしめるための「奇跡の兵器」を望んだのだった。』

日本も戦争末期になると風船爆弾をアメリカのほうに飛ばして反撃を試みますが、大抵『奇跡』なんていうものは起きません。こうしたものに縋るようになる時点で、すでに負けているように思えます。

V2ロケットの誕生

1944年、フォン・ブラウン博士率いる兵器開発部隊は敵地を爆撃できる無人ロケットを開発します。

劣勢におちいったドイツ軍は、これを報復兵器第2号 (Vergeltungswaffe 2)と命名し、戦局の巻き返しに期待をかけました。

すでにノルマンディーに連合軍が上陸し、イタリアは連合軍に寝がえり、アフリカのロンメル師団は敗れ去り、すでに枢軸国の敗色が濃厚になっていた時期のことでした。

1944年9月に、はじめてV2ロケットがパリにむけて、ついでベルギーに向けて放たれます。文字通り報復兵器なので、相手の軍を打ち負かしたり、相手の工場を破壊するというよりは(そもそもそんな命中率もなかったので)、相手の国民を無差別に殺傷することだけが目的でした。

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以下、その標的になったイギリスの新聞の談を参照します。

When it landed, it left a crater 60ft wide and 16ft deep, and threw up around 3,000 tonnes of rubble into the air. Such was its speed, the noise of the rocket rushing through the air came after it landed.

『ひとたびそれが着弾すると、60フィートの幅と、16フィートの深さをもったクレーターをえぐり、3000トンもの瓦礫を空中にぶちまけた。あまりのスピードに、その音が着弾のあとから聴こえてくるほどであった』

In total, the V2 attacks resulted in the deaths of around 7,250 British military personnel and civilians. Meanwhile more than 9,000 civilians and soldiers were killed in total in V2 attacks on the Allies.That excludes the estimated 12,000 labourers and concentration camp prisoners killed while making the missiles.

『最終的にV2ロケットによる攻撃で、7250人程度のイギリス人が犠牲となった。また一方で、9000人以上の連合軍がV2ロケットにより犠牲となっている。ちなみにこの数字には、ミサイルを作るために強制労働させられ殺された、労働者・政治犯・捕虜などの12,000名は含まれていない』

要するに、ロケットの直接的な犠牲者と、ロケットを作るための間接的な死者数があまり変わらない、ということです。

ちなみにこのV2ロケット、4機飛ばすごとに飛行機が一機つくれるくらい高コストの代物でした。

これを5000機近く連合国側にぶちこんだわけですが、それに対してはあまり成果はあがらなかった、というのが戦後明らかになっています(心理的な効果はありましたが)。

他にも、末期のナチスは音速ジェット機などを開発していますが、これも高価なものばかりでした。

どこかの歴史研究家が言っていましたが、兵器の常道は『いいものを高く作る』ではなく『そこそこいいものを安く作る』ことです。

フォン・ブラウンの科学熱と戦争経済はおそらく余りかみあわなかったのかもしれません。

戦争の終結とアメリカへの亡命

さて、戦争も終結に近づいてくると彼はいよいよナチスを見限り始めます。

彼はもともと科学の信奉者であって、ナチスの信奉者ではありませんでした。そのため、戦争末期にはたびたび、自身の兵器の考え方などを巡ってゲシュタポと対立します。

一時は強制収容所におくられそうになりますが、彼の才能を買っていたヒトラーによってなんとかとりなされます。

しかし、すでに彼の心はナチスにはありません。ソ連軍によってベルリンが陥落し、ヒトラーの自殺する1945年5月には、すでに彼は次の『勤め先』を探し始めます。

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“Mein Land hat zwei Weltkriege verloren. Diesmal möchte ich auf der Seite der Sieger stehen.”

『「私の故郷は二度も大戦に負けてしまった。今度は負けない国がいいぞ」』

本当に言ったかどうかは知りませんが、とりあえず彼のナチスへの忠誠心はこんなものだったということです。彼は欧州諸国が今回の大戦で凋落し、次に勃興するのは間違いなくアメリカであることを見抜いていました。

ナチスの多くの機密文書を手土産に、1945年6月にドイツに進駐したアメリカ軍に投降します。このときフォン・ブラウンはまだ33歳という若さでした。