1945年:ベルリンの戦い(ベルリン陥落)とナチスドイツの滅亡

1939年、ナチス・ドイツのポーランドへの侵攻によって火ぶたを切った第二次世界大戦は、1942年ごろまで枢軸軍優勢の様相を呈しますが、すでに1944年を迎えるころには枢軸軍の敗色は濃厚となっていました。

イタリア、ブルガリア、ルーマニア、フィンランドと枢軸軍の周辺国家が相次いで脱落していく中、1億近い国民を道づれに、ドイツと日本はなおも頑強な抵抗を続けます。

1945年4月、すでに死に体となったナチス・ドイツに引導を渡すべく、250万のソビエト陸軍が怒涛のごとく第三帝国の帝都に押し寄せました。近代以降、戦争に明け暮れたドイツ帝国の末路を飾るにふさわしい、ベルリンの戦いの幕開けです。

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ベルリンの戦いまでの道のり

太平洋戦争のターニングポイントがガダルカナル島の戦い、ミッドウェー海戦だとすれば、欧州戦線におけるターニングポイントはスターリングラードの戦いだと言われています。実際に虎の子の第六軍を失ったことで、これ以降ドイツ軍は戦争の主導権を喪失し、じり貧の後退を続けていきます。

1944年にはノルマンディーに連合軍が上陸、ドイツはいよいよ東西からソ連とアメリカに挟まれる形になり、さらに地中海戦線ではイタリアが脱落、ドイツは四方から大国に囲まれる形となりつつ、1945年まで孤軍奮闘を続けていました。

第一次世界大戦の際、ドイツの戦争は「背後からの一撃」と呼ばれる革命運動によって終止符を打ちました。その反省を踏まえ、第二次世界大戦ではこうした運動は徹底的に弾圧され、イタリアでムッソリーニが失脚したように、とうとう内部からドイツが崩壊することはありませんでした。

ムッソリーニの最期

となれば、連合軍にとって、欧州での戦争を終わらすのに残された道は、内側から政治的にでなく外側から物理的にドイツを破壊する以外にありません。1944年の西部戦線が形成されると、連合軍によるドイツ本土への空襲はいよいよその過激さを増すようになりました。

1945年に入ると、ついに連合軍によるドイツ本土への進撃が開始されます。ブダペストやウィーンなど、ドイツ周辺の枢軸国の領土も次々と失陥していき、すでにドイツ帝国の命運は風前の灯の状態でした。

それでも依然として、ベルリンには降伏を頑としてきかない、ヒトラーをはじめとするナチスの閣僚たち、そして死を恐れぬ親衛隊が抵抗を続けます。ナチスの野望に終止符を打つには、ベルリン周辺に張り巡らされた防衛網を突破し、ハーケンクロイツのはためくこの帝都を陥落させる必要があったのです。

連合軍の中で誰よりも先にベルリンへの道を切り開いたのは、アメリカではなくソビエト赤軍です。スターリンは、長かったこの独ソ戦の最終目標をベルリンの軍事的制圧と定め、滅びゆくナチスへのはなむけにと、ありったけの戦力をかき集めて最後の大突撃へと繰り出します。

Die Eroberung der deutschen Reichshauptstadt war ausgegebenes Ziel der sowjetischen Führung unter Josef W. Stalin. Im Februar und März brachten die Sowjets rund 2,5 Millionen Soldaten mit über 6.000 Panzern sowie 7.500 Flugzeugen für den Angriff auf Berlin in Stellung.

「ドイツの帝都を制圧することこそが、スターリン麾下ソビエト赤軍の最終目標となった。1945年、2月と3月にかけてソ連軍は250万人の兵隊を動員、6000の戦車と7500機の飛行機によるベルリン攻撃の準備をととのえた。」

一方のドイツ軍には、もはや檻に追い詰められたライオンのように逃げ場がありません。閣僚やナチス党員は、戦争が終われば戦争犯罪人として処刑されることを知っているため、降伏するという選択肢はありません。戦死するか捕虜となって処刑されるか、という絶望的な状況下で、ドイツ国防軍は、一人でも多くのソビエト兵を地獄に道連れに玉砕する道を選びました。

1945年4月、ソビエト軍がベルリン近郊に押し寄せ、ナチス・ドイツの最後の組織的抵抗となる、ベルリンの戦いが幕を開けました。

4月16日

ベルリンの戦いは4月16日から5月8日まで戦われましたが、実際にその中で市民を巻き込んだ凄惨な市街戦にうつるのは4月23日以降のことです。それまでは、前哨戦としてベルリン郊外、ゼーロウ高地などをめぐる戦いが行われていました。

ドイツ軍にとっては、ゼーロウ高地を失陥するとベルリン市街地へ血に飢えたソ連軍がなだれ込んでくるため、それを阻止するためにはきわめて重要な防衛線です。

この戦いの指揮を執るのは、ノモンハン(対日戦線)、スターリングラード、クルスクの戦いと、転戦を続けたソ連の救国の英雄、ゲオルギー・ジューコフと、それに対する、ドイツ軍屈指の防衛戦のエキスパート、ゴットハルト・ハインリツィです。

Die sogenannte Schlacht um Berlin begann in der Morgendunkelheit des 16. April. Es wurde ein schöner Frühlingstag. In Dahlem betrug die höchste Temperatur 18,2 Grad, die niedrigste minus 0,6 Grad. In Potsdam schwankte sie zwischen 18,5 und minus 0,8. Es fiel kein Regen. In den Vorgärten der Villenviertel blühten die Blumen auch dort, wo sich die Häuser in Ruinen verwandelt hatten.

「ベルリンの戦いは、4月16日の朝が明けきらぬ薄明の中で始まった。春のうららかな日であった。Dahlemの最高気温は18,2度、最低気温は0,6度だった。ポツダムでは18,5度から0,8度の間である。家々が廃墟と化してなお、住宅地区の前庭には花が咲き誇っていた。」

ジューコフ率いるソ連軍は100万、一方のハインリツィ率いるドイツ軍は10万です。制空権も完全にソ連軍に奪われ、戦車、火砲の数ともに劣勢な最中で、ドイツ軍の絶望的な祖国防衛戦が幕をあけました。

Um 5.00 Uhr Moskauer Zeit fing die sowjetische Artillerie an zu schießen. Sowjet-General Tschuikow: “40 000 Geschütze eröffneten das Feuer.”

「モスクワ時間の5時、ソビエト軍が戦端を開いた。ジューコフ麾下40000の火砲が炸裂したのだ」

ドイツ軍に引導を渡すべく、ソ連軍の総攻撃が16日の早朝に開始されました。カチューシャが一斉に炸裂し、25分もの間ドイツ陣地を雨あられのように襲います。

これに対し、ドイツ軍は沈黙を守ります。防御戦の名手、ハインリツィは一人でも多くのソ連軍をここで食い止めるため、即座の反撃を放棄し、防御陣を立て直しました。これによって、この後ソ連軍が進撃した時、今度はドイツ軍の反撃にあって大きな損害を被ります。

ゼーロウ高地の戦い

ドイツ軍にはもはや後がありません。ここを突破されると残るのは裸同然のベルリンと、そこに住んでいるドイツ市民です。ジューコフの予定では24時間以内に東部の防衛線を突破するつもりでしたが、ハインリツィの名采配とドイツ軍の決死の覚悟により、遅々として進軍は進みません。

ところが、ソ連には100万もの兵士がいます。いくらドイツ軍が前線のソ連軍を殺傷しても、後から後から、無尽蔵にソ連軍が襲い掛かってくるのです。そしてジューコフも、手負いのドイツ軍の息の根をとめるために、多少ソ連の青年たちが犠牲になるのは厭いません。第二次世界大戦を通じ、1920年代生まれのソ連男性の8割が死にました。

結局、さしものハインリツィも、このなりふり構わないソ連軍の怒涛のような攻撃を支えきれません。1945年4月16日、東部戦線は崩壊し、ベルリンへの地獄の入り口が開きます。

Hitler hatte die Parole ausgegeben: “Das Halten der Oderfront ist Voraussetzung für den Umschwung des Krieges.” Am 16. April 1945 war die Oderfront durchbrochen.

「ヒトラーは“オーデル戦線の死守こそ、この大戦に奇跡の大逆転をもたらす”と檄を飛ばした。1945年4月16日、オーデル戦線は突破された」

ベルリン市街戦

4月16日以降、ゼーロウ高地を突破した第1白ロシア方面軍に加え、各地のソ連軍が続々とドイツ軍の最終防衛ラインを突破しつつありました。4月23日ごろにはすでにベルリンは150万のソ連軍の包囲網の中にぽっかりと浮かぶ小島のようになり、あとは制空権を失ったベルリン市街だけが残されていました。

ベルリン包囲

4月23日、ソ連軍はついにベルリン市街地に突入を開始します。当時、ベルリンには280万人のドイツ市民と、戦争のために近隣諸国から徴収された80万人の外国人労働者が暮らしていました。

当時のベルリンにはもはや戦力と呼べるものはなく、フランス人の義勇兵部隊がベルリンを守備しているような悲惨な状況です。ナチスの高官たちは泥船から逃げ出すようにベルリン脱出を画策し、市民を見捨ててアメリカ軍へ投降したり、南米への亡命をはかります。

パンツァーファウストや、ナチスドイツ最強の戦車の一角、重戦車のティーガーⅠやティーガーIIがソ連軍を苦しめますが、運用量が違いすぎて戦局を覆すにはいたりません。

Noch immer lebten mehrere Hunderttausend Menschen in den massiv umkämpften Gebieten der Berliner Innenstadt. Die meisten von ihnen saßen in Bunkern oder Luftschutzkellern, viele verkrochen sich auch in den nicht mehr befahrenen Tunneln der U- oder S-Bahn und hofften, dass die sowjetischen Granaten sie hier nicht treffen würden.

「いまだに、ベルリンの激戦区には10万以上の市民が生き残っていた。彼らの多くは防空壕や使われなくなった地下鉄のトンネルに隠れ、ソ連軍の手りゅう弾が投げ込まれてこないことを祈っていた」

戦局が市街戦に移行すると、戦争はもはや戦闘ではなく市民を巻き添えにした虐殺に様変わりを始めます。この過程で、多くのドイツ人女性が強姦され、市民が虐殺されました。こうした飢えた獣のようなソ連軍を一人でも多くこの世から抹消するために、ドイツ兵は絶望的な戦いをなおも続けます。戦闘はついに国会議事堂の内部にまで及びました。

„Alle Räume und Gänge sind belegt und verstopft mit Schwerverwundeten, mit Sterbenden“, erinnerte sich Lamprecht. „Das unaufhörliche Trommelfeuer und die Bombardements der letzten Tage, das widerliche Sausen der Stalinorgeln richtete sich jetzt nur noch auf den Kern, Berlin-Mitte.“

「全ての部屋と通路は死にゆく重症者で埋め尽くされていた。救いのない集中砲火と獣爆撃がベルリン中心地に満ち、カチューシャの不快な音が響いていた。」

もはやドイツ軍の戦闘継続能力はほぼゼロに近づいていました。ヒトラーは最後にエヴァ・ブラウンと結婚式を挙げ、4月30日にピストル自殺をしています。ゲッベルスは翌日に子供と妻を道連れに同じく自殺。すでに戦争を続ける者はいない状況でした。

それでも、5月に入ってなお、最後の要塞である国会議事堂を巡り、ソ連とドイツとの間で凄惨な白兵戦が続けられていました。

„Die Leute lagen vornübergebeugt auf der Tischplatte oder hingen aus den stattlichen Sitzmöbeln seitlich heraus, fast alle Köpfe waren zerschmettert. Hier hatte der Krieg schon sein Ende gefunden.“

「多くの人々が、議事堂内の机や、ソファの上に横たわっており、多くの人々の頭は打ち砕かれた状態だった。戦争の終結が近づいている」

5月2日、国会議事堂にソビエト赤軍の「ライヒスタークの赤旗」が翻り、ついにベルリン最後の砦が陥落しました。これにより、ナチスドイツによるベルリン市内の組織抵抗はほぼ終結します。

ライヒスターグの赤旗

それでも、戦争が完全に終結するには、ドイツ政府による正式な無条件降伏を待たねばなりませんでした。ヒトラーに後継者として任命されたカール・デーニッツが終戦工作を行い、5月7日には無条件降伏の調印がなされます(停戦発効時間は5月8日、ドイツの終戦記念日はなので5月8日)。

これにより、公式にはドイツ軍の戦争は終わりました。なお、これ以降もソ連軍のドイツ人への報復のため、多くの市民や捕虜が犠牲になり、東方圏からドイツ人たちは追い出されるなど、この後のドイツ国民の運命は筆舌に尽くしがたい過酷なものです。ともあれ、このベルリン陥落と降伏文書への調印によって、欧州全土を戦火に巻き込んだ欧州戦線は終結したのです。

エルベの誓い

欧州で枢軸国最強の一翼であるドイツが戦争から脱落しました。アメリカをはじめとする連合軍は、これによってアジア・太平洋方面にその戦力を集中させることができるようになったのです。その後、米英ソの集中攻撃が無慈悲に注がれるのは、矢尽き刀折れ、なおも絶望的な戦いを続ける大日本帝国、ただ一国です。

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